○○474『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の金融破綻と金融制度改革2

2016-09-17 22:37:24 | Weblog

474『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の金融破綻と金融制度改革2

 これらに対して兵庫銀行の場合は95年8月に破たんの処理が行われました。いったん清算し、民間金融機関と地元経済界が設立したみどり銀行に事業を譲渡したもので、合併方式との違いは、受け手の金融機関が店舗や人員を基本的に引き継がない点で。余裕が乏しくなったという金融の環境変化が影響しています。これで金融システム破綻に波及する恐れありとして、30年ぶりに日本銀行の特別融資が実行されたのです。
 けれども、これらの銀行の行き着いた先は、結局は預金保険法に規定されている「経営破たん」で、金融機関が債務超過に陥って預金の払戻しを停止することができる、この点で通常の倒産と異なった手続きとなりました。具体的には、兵庫銀行がみどり銀行に事業譲渡(95年8月)、旧太平洋銀行がわかしお銀行に事業譲渡(96年3月)、旧コスモ信用組合は旧東京共同銀行(現整理回収銀行)に譲渡(95年7月)、木津信用組合が整理回収銀行に譲渡(95年8月)、大阪信用組合が東海銀行に事業譲渡(95年12月)、武蔵野信用金庫が王子信用金庫などが救済合併(96年9月)など枚挙にいとまがありません。
 では、具体的にどのような道筋を経てそのようになったのでしょうか。ここでは第2地方銀行最大手であった兵庫銀行の経営破綻について、やや詳しく紹介しましょう。同銀行の不良債権の回収不能額は7900億円に達していました。これで自力再建が困難とみなされたので、自らのノンバンクをまず法的に倒産させる。ついで残りの債券債務の全事業を、民間銀行などが出資する銀行に業務譲渡して新銀行として再出発する道を選びました。
 回収不能額7900億円の補てんは自己資本から1600億円、預金保険機構からの贈与が4000億円、その後10年間の収益1800億円となっていた。日本銀行は劣後ローンということで資金を供給することになった。劣後ローンとは、日本銀行法第25条の「日本銀行は主務大臣の認可を受け信用制度の保持育成の為必要なる業務を行うことを得」という規定を適用したものです。
 武村蔵相はこれら一連の処理によって、個別の金融機関の債務処理問題は山場を超えたといいましたが、当時から40兆円もの金融機関の不良債権があることが言われていた訳で、それはこれから本格化する流れの第一幕であったのです。国際通貨基金のこの時期の報告書には「中小の金融機関の問題に早く対応しなかった失敗が、当局の介入が必要な事例を増やした懼れがある」と、現状の護送船団方式を批判したものと受け止められたものです。金融検査で実態を知っていたにもかかわらず、それをこんなになるまで放置していた背景には、金融の場合、中小といえども政界・官界・財界の利権のトライアングルが結ばれていたことを示唆しているでしょう。
 さらに、95年11月、阪和銀行の破たん処理の場合、整理と清算を前提に設立するブリッジバンク方式と呼ばれるもので、1995年11月21日、大蔵省は阪和銀行に普通銀行としては戦後初めての業務停止を命令しました。不良債権を分離・移管した後に残った業務と再建を受け皿銀行が預金払い戻しを担当しながら進めていくというものでした。住宅金融専門会社(住専)処理のための基金の一部で受け皿金融機関を設立し、債権の回収が終了した時点で同機関を清算しようとするものでした。このように、95年からの破たん金融機関処理方式は、合併方式から出資銀行方式へ、さらにはブリッジバンク方式へと移っていきました。

(続く)

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