新20『美作の野は晴れて』第一部、春の課外活動と城下町津山

2016-09-29 11:12:10 | Weblog
20『美作の野は晴れて』第一部、春の課外活動と城下町津山

 春には遠足にもってこいの季節だ。小学校3年生くらいまでは、遠足や社会勉強で近場でいろんなところに連れて行ってもらった。その当時、新野小学校で学ぶ子供にとって、最も身近な町は津山であったろう。当時は骨の髄まで田舎者だったので、遠足というと、わくわくした。近場でいろいろな場所に連れて行ってもらった中で、今はもう定かに覚えている訳ではないものの、小学校の2、3年生くらいのとき、春爛漫の季節の津山市街を中心に、一学年2クラスで貸切バスを仕立てて貰って遠足に行ったのではないか。ただの遠足ではなく、沼の住居跡とか、鶴山公園の桜と動物園とかを観た後、しめくくりにと衆楽公園に立ち寄ったのではないか。園内で弁当を食べ、持ってきた画用紙帳をひろげて写生大会を行ってから帰途に就いたのだと思っている。
 これらのうち鶴山の桜祭りには、私たちの他にも大勢の観覧の人々で大変な賑わいをみせていたに違いない。また、城趾公園の入口の料金所を通り抜けて直ぐ右奥にあった動物園は1955年(昭和30年)7月の開園と聞いている。だが、実はその3年前の「市勢要覧」に「鶴山館の傍らに動物園を設けて・・・老若男女(ろうにゃくなんにょ)が来たり遊ぶ者が多い」と記されていることから、津山郷土博物館が執筆した「あの頃の津山、開園間もない津山市動物園」(市政だより、2014.9)によると開設前から何らかの形で動物園で営まれていたようなのだ。そこには、ニホンザル、ライオン、七面鳥等々と続くくらいまでは覚えているが、珍しいところではペンギンもいたことになっている。私の脳裏に動物たちのおおよその飼育檻の配置は入っているのだが、ペンギンの檻とその前の水を張ったプールだけは、はたして動物園内のどのあたりにあったのか覚えていない。「39種類、214匹」(同)の動物たちが飼育されていたということなので、それはもう当時の県北唯一の立派な動物園なのであった。
 衆楽園へは、津山駅から北へ向かっておよそ3.5キロメートル、大人の足で40分くらいのところにある。2014年の現在、そこに行く大抵の人は、津山の駅から小型の「ごんごバス」に乗って、北へ向かう。バスは今津屋橋を渡り、鶴山(かくざん)通りを北上し、山北(やまきた)の坂道を上る。交差点を右折した後、左手に津山商業高校がある。そこを過ぎて直ぐのところに左側に公園の入口がある。2014年(平成26年)7月現在に至るまで入場料は無料となっている。園内は普段は閑散としているが、春だけは当時も今も別のようだ。子供連れだと、池に落ちて溺れることさえ気をつければ、家族揃って参園し、しばらくぶらぶら歩きしたり、天気さえよければベンチや芝生で日向ぼっこなんかをしてぼんやりと時を過ごすにはもってこいの庭園である。
 その時の「青空写生会」の記憶はぼんやりしている。。クラス仲間と3人で並んでベンチに並んで腰掛けて、一緒に弁当を食べている姿が写真に収められているので、多分先生が撮ってくださったのだろう。母が作ってくれた折詰弁当を拡げている。お互い、持ってきたおにぎりなんかを頬ばったりして、無邪気に笑っている。座っていたベンチのあるところはわかっているので、多分、池を前にして、その向こうの茶室のある吾妻屋までを描きたかったのではあるまいか。今でも、入園したときには、池のほとりのその同じ位置に置かれているベンチに腰を降ろすと、なんだか落ち着いた気分になるから不思議だ。
 この公園は、森藩の二代藩主長継が、1655年(明暦元年)から58年(明暦4年)にかけて造らせたものである。京都の仙道御苑を模して造園されたと伝えられているので、いつかそちらも訪れてみれば、設計の意図するところがわかるのかもしれない。公園を入って北に少し行くと、池と松を主体とした築山が目の前に広がる構図となっている。後ろに中国連山を借景においているので、雨の後などに行くと、自然の静寂境の趣が感じられる。北に向かって全部が見渡せるベンチに腰掛けると、なんとはなしに心が落ち着いてくる。築園当時は、7万7200平方メートルもの敷地であったとのこと。明治以後にその3分の2を失って、今は迎賓館と余芳閣(よほうかく)などを含む林泉部分のみを現代に伝えている。「回遊式」なので、園内の散策には迷うことがなくて都合がよい。江戸期には、民衆に開放されていたとの話を聞かないのが当時の施政者の差別感を示唆しているようで、そのとおりなら残念であるが、いつの頃からか一般に公開されている。今でも陽気の漂う日には、公共の憩いの場が少ないといわれる津山市内で日がな一日楽しむことのできる、広く人々の憩いの場所となっている。
 その頃は、園内には沢山のおおぶりの鯉が、何十匹も悠々と泳いでいた。その中には、色あでやかな錦鯉もかなりいた。池に繁茂しているのは睡蓮(すいれん)なのだ、と聞いていた。仏教で「蓮華」というところの蓮(はす)とは「スイレン科」の同族にして、少しだけ葉っぱが小さいなどが異なっているらしい。その睡蓮の根と茎は水面下にあるものの、葉と花の部分は水面に浮かんでいる。早くは朝の日差しのまだ弱い時、遅くても昼までには花を開き、夕方の到来でその花を閉じるのであったか。それとも、6月から9月くらいには、池の睡蓮の花が咲くのは正午頃であったのか。花の色は白だったか、白に桃の組み合わせであったか、とにかく見栄えがする。
 睡蓮とは、もともと平地や山の、池や沼に生えている。葉も、丸くて長めの葉柄の先が切れ込んでいて、水面に浮かんでいる姿がなんだか可愛いかった。そういえば、かつて5千年前に想像を絶するほどの金銀財宝に包まれたエジプト文明にして、蓮の花は子供の胎盤に見立てられていたらしい。そのことから、命の再生、新しい命の象徴としてかのツタンカーメン王のレリーフ(頭の塑像)の台座に使われたり、王や貴族ら特権階級の墓の壁画に描かれていることから、その神聖さのイメージは東洋だけのものではないようだ。
 その当時の勝北町内の子供にとって、津山に行くというのは、「町にいく」ことを意味した。いまなら、就学前の小さな子供だって、そんな野暮なことは言うまい。国道53号線沿いの上村の停留所から中国鉄道バスに乗ると、茶屋林から奈良、野村を経て高野方面へ出る。そこからは因美線に沿って高野駅前から押入、下押入、河辺を通る。
 河辺の南の端までやって来ると、そこは兼田(かねだ)という。ここは出雲街道と吉井川が交差するところ、交通の要衝だった。川のほとりに経つと、人や馬、行き交う高瀬舟が見えてくるようだ。沢山の物資がここに離合集散し、大和から出雲へ、また出雲から大和へと続く出雲街道の要所であった。バスはそれから兼田橋に取りかかる。右手奥に吉井川をのぞみながら加茂川を渡る。吉井川は、当時の真庭郡(現在は真庭市)の奥の方、鳥取県境の人形峠に源流がある、とされる。そこから上斎原村、奥津渓谷を通って鏡の町、院庄(いんのしょう)と南下して津山市街に入る。そこから東へ蛇行して加茂川との合流地点につながるわけだ。
 兼田橋を渡ると川崎に入る。ここで初めて合流後の吉井川の川筋の全体が視界に入ってくる。川崎(かわさき)を抜けてから津山大橋に到るまでの地域は江戸期には「東南條郡」と呼ばれていた。そこからは東津山の町並みを太田、松原、古林田、東新町、西新町と西に進む間に箕作げん甫(みつくりげんぽ)の旧宅や、それに関連した洋楽資料館がある。 そこから上之町(左手に中野町)を通り抜けて、コの字型の大きな曲がりに達する。当時の町筋そのものが武備の一部であったことを偲ばせていた。この区間をバスが旋回して大橋に出ると、そこはもう城の東南の辺りであった。津山大橋の南から西にかけては材木町、伏見町、河原町の町並みが続く。
 津山大橋の下には宮川(みやがわ)が北から南へと流れ、その近くまで歩くうちに城の切り立った石垣積みが迫ってくる。津山という町中も、集落の一形態としての「都市」であって、それは生産から遊離した階級の成立を意味する。それを象徴するかのように、大橋の脇には、東の大番所があって、藩の役人が城下町に出入りする人々を見張っていた。ちなみに、西の大番所は「い田川」沿いの翁橋(西寺町)そばにあって、監視の目を光らせていた。石垣については、近江国(おおみのくに、今の滋賀県志賀郡あたり)の穴太衆(あのうしゅう)を招いて築垣に参加させたということだから、実戦を考えに入れた物々しい防衛陣地であった、というほかはない。
 「津山城下町お城の松に、ピンとはねたる威勢を見せてよ」 
 3番の歌詞の原作(石井楚江による)には、この歌の叙情がひときわ鮮やかに映し出されている。
 「春の夕凪涙をさそう院庄かや、作楽の宮にや赤い心の花が散る」    
 この辺で、津山の城下町の成り立ちに少しだけ触れておこう。在りし日の城のおよその姿であるが、要塞堅固という点では、西日本でも有数とされた。
 「鶴山」(つるやま)の高台の地に、初めて城を設けたのは、1441年(嘉吉元年)、みまさか守護の任にあった山名教清であった。彼は、一族の山名忠政伯耆により招いてを城普請奉行に任じ、彼に築城させたのが「鶴山城」の始まりとされる。
 その後、1603年(慶長8年)に、森蘭丸の弟、森忠政が徳川幕府(徳川秀忠)によって、信濃松代(川中島)城から18万6500石(1石はおよそ160キログラム)で国替えされたとき、最終的に、築城を開始するまでは「富川村「と呼ばれていたこの地を
選んで築城した。参考までに、日本全国でみると、戦国時代の総収穫石高(年間)は2500万石くらいであったのが、元禄が終わる頃には3500万石くらいに増えていた。
 築城には13年余を有したとされる。途中3年間の普請中止の期間も入れてのことだ。その工事には、領民から、婦女子を含め、家臣団が総動員されたらしい。城が完成したのは、1616年(元和2年)であった。天守閣は5層で、本丸の西の端にあって、東西に18メートル、南北に20メートル、高さは20メートル(11間、1間は約1.8メートル)もあったというから、なかなか壮大な建築物であったろう。
 城郭もふるっていて、本丸の他、二の丸、三の丸、外郭に分かれ、櫓(ろ)の数が77、城門の数が41もあって、東の宮川に面するところは絶壁状に岩を積み重ね、そして3方には外堀をめぐらして防衛に力点を置いていたらしい。城のその後は、森家が四代95年間をもって終わった後、城そのものは松平家が受け継ぎ、幕末までのおよそ170年を過ごした。と、ここまでは命長らえていた城構えであるが、明治に入ってからまもなくにして、驚くべき変化に遭遇した。当時のお金で1125円で公売され、1875年(明治8年)には天守閣などのほとんどの建物が取り壊されてしまったのだ。まさに、古城跡「荒城の月」にうたわれる阿蘇の山裾、豊後竹田(ぶんごたけだ)の岡城跡にも思いを通わせる、大いなる夢の跡となっている。
 私の家の方から、津山行きのバスに乗って、大橋から山下(さんげ)を通って京町(きょうまち)まで行く。そのあたりは、市役所などの公共の建物が建ち並ぶ。当時の津山の中心部があったのだ。京町でバスを降りて、少し北に歩くと、その前には幅が8メートルはありそうな広い階段が100段ばかりあり、そこを辛抱強く、ゆっくりと上がってから、右に折れる。すると、50メートルほど前方に大手門の跡がある。こちらが城へ入るための正門側となっていた。ここから、いまは多くの人が、かつて在りし日の天守閣の姿を偲ぶのである。
 一方、京町で降りてもう80メートルばかり西に歩いていくと、ローズの交差点がある。バラにちなんでそう言っていたのか知らないが、そこが繁華街の入り口とされていた。南北に貫いているのは鶴山通りである。そこを横切ると、銀天街、そして専門天街へと続く。当時は、このあたりが一番の繁華街であった。アーケードの架かった街路の両側には、きらびやかな店が沢山並んでいた。銀行や信用金庫もあった。本屋も柿木書店(二階町)とか大きいのがあった。街路から横に入ると、旅館や小さな雑貨店もあった。素通り不可能な路地に迷い込むこともあった。すごい、えらいところに来たもんだ、中に入りたいけど田舎もんじゃけんはずかしゅうてはいれんなあ。出てくるのは溜息ばかりだった。
 その頃の私がかっこいいと思った職業は、バスの車掌さんであった。家の手伝いで風呂炊きをしていると、階段になっているところで、一人芝居をやっていた。指で前後を指先呼称してから、中央の扉を閉めるふりをした。
 「発車アー、オーライ」。「ウィーンウーン」 とエンジン進行の音を入れて、しばらくして「みなさま、毎度ご利用いただきまして」とやり出す。それからまたしばらくしてから「どこに行きんちゃるんか」と客に聞いて、切符の束にパッチンパッチンと穴をあける真似をする。途中で対向車の大きいのが来たことにして、今度はバスを下りてバックを先導する。「ピーッピーッ、ピーーッ」と笛を力一杯に鳴らす。
 「前よし、後ろよし、(すべて)ようし。」
 それから、再び乗車して(目の前の階段を上り)、自分の心に描いたバスが対向車が来るのを待つふりをする。バスが他のクルマとすれ違うときには対向車の運ちゃんと車掌さんに得意の敬礼をするという具合だ。その後またしばらく進んでから、「次は京町、京町、お降りになる方はお知らせください」と言ったかどうか。
 停留所も自分で設定して、バスが着くと「おばあちゃん、ここで降りんさるんですか。ちょうど100円になりますけん(なりますから)。気を付けて降りんさいなあ(降りてくださいね)」などと心の中で言い、めでたく今津屋橋を渡って中国鉄道津山バス駅に到着したものであった。

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