○○485『自然人間の歴史・日本篇』1990年代後半の金融生制度改革(全体の枠組み)

2016-09-19 09:56:13 | Weblog

485『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(その全体の枠組み)

 1990年代後半の金融生制度改革は、政治の激動期に行われる。総合経済対策を策定した4月から3か月後の1998年7月の参議院選挙において、政府・自民党が惨敗した。その後は、財政再建に拘泥した感のある橋本内閣に代わって自民党総裁選で競り勝った小渕内閣が7月30日に登場し、「経済再生内閣」の触れ込みで巨額の財政資金を投入しての景気対策が復する。
 その施政方針の第1は、財政構造改革法の凍結と総事業規模で10兆円超の98年度第2次補正予算の編成、第2に総額7兆円の恒久減税でした。後者については、法人課税実行税率を46%から40%へ、所得税・住民税の最高税率を65%から50%に、中低所得層に配慮した低率の戻し減税などが語られた。同年11月には、23兆9000億円の緊急経済対策がまとめられる。4月の対策を7兆円上回る規模となった。
 1998年3月期、主要18行は合計10兆5000億円もの不良債権を直接、間接消却で消却しました。98年5月26日付け日経新聞による98年3月期決算における不良債権額は大手18行でそれまでの旧基準ベース新基準ペースで15兆6675億円、米国証券取引委員会(SEC)新ベースで21兆7779億円と伝えられていた。
 1998年5月には、金融再生法が制定され、公的資金30兆円枠を活用した金融安定化策が始動しました。銀行は潰れないとの神話はもはや崩壊し、最後の砦としての国が舞台の全面にでてきたのであった。
 これを起爆財に預金保険機構が破綻銀行の資金贈与や不良債権の買い取りに乗り出したのです。1998年6月には総理府の元に金融監督庁が発足した。これは97年の第140通常国会において金融監督庁設置法が成立したことに伴うもので、金融機関の検査・監督部門を大蔵省から分離し、総理府の外局として金融監督庁を設立。銀行や保険や証券などの監督や破綻処理を担当することになったのだ。
 1998年10月の臨時国会においては、9つもの金融関連法がどっと成立した。その内訳は、破綻した金融機関の処理策を盛り込んだ金融再生関連が8本、破綻前の金融機関に対し公的資金を注入する道を開くものが1本であった。
(1)金融機能再生緊急措置法(金融再生法)
(2)金融再生委員設置法
(3)預金保険法一部改正
(4)金融再生委員設置法関係法整備法
(5)債権管理回収業特別措置法
(6)根抵当権付き債権譲渡円滑化臨時措置法
(7)競売手続き円滑化法
(8)特別競売手続き調査評価臨時措置法
(9)金融機能早期健全化緊急措置法(早期健全化法)
 その中で、公的資金(無担保・無制限に行われる日本銀行の特別融資)の枠は、10月13日の預金保険法改正、金融機能再生緊急措置法(金融再生法)及び金融機能早期健全化緊急措置法(早期健全化法)の成立によって60兆円に積み上げられる。その内訳はつぎのようなものであった。まず、金融機関への資本注入と特別公的管理のために、政府保証枠で43兆円を設け、従来からの預金者保護のための17兆円を加えると60兆円になった訳だ。
 次に政府保証枠43兆円の中身としては、金融再生勘定(特別公的管理、公的ブリッジバンク)のために18兆円、さらに金融機能早期健全化勘定として「生かす銀行」にも25兆円ものカネが割り当てられる。後者の早期健全化法とはその名の通り経営破たんしそうな銀行がそれ以上経営を悪化させないような国の資金支援措置を定めたものだ。
 これは「資本注入」と呼ばれたり、「公的資金投入」と名付けられており、この法律でいう「注入」とはまるでカンフル注射を打たれるような情景を連想させる言葉遣いにほかならない。また、ここで公的資金の投入とは、これらの資金を管理する預金保険機構に対し日本銀行などが融資する際に政府補償を付けてやることを意味している。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


コメントを投稿