新22『美作の野は晴れて』第一部、初夏の輝き2 

2016-09-29 11:24:05 | Weblog
22『美作の野は晴れて』第一部、初夏の輝き2 

 晩春から初夏にかけての田圃で美しいのは、蓮華草である。この種を蒔いて育てているのは、肥料としてというよりはむしろ、家畜の飼料にするからであった。
 後のことだが、こんな歌がはやっていた。
 「山の麓の小さな村で咲いたかわいい蓮華草よ、覚えているかいあの子のことを、えくぼのかわいいこだったね・・・・・」(作詞と作曲は安藤久、1972年8月ビリーバンバンの唄でレコードが発売された)
 その田んぼには、沢山の蓮華草に蜜を取りにやってきていた。働き蜂たちはあくまでも蓮華の花の蜜を取るのが仕事である。かれらは、「蜜胃」とか「クロップ」なるものを持っていて、そこに蜜をためる。蜜蜂たちがそうしているのは、彼ら自身のためにするのではないらしい。巣に戻れば、ここから蜜を出し、それが幼虫たちの食料と鳴る。自分の体の一部が蜜蜂社会の維持に用立てられるわけだ。自然界の営みは、ここではなんとも献身的な輩(ともがら)によってできあがっているようなのだ。
 水田一面に咲きそろうピンクと白色の花は、春の日差しを浴びて美しく輝く。まるで絨毯で埋め尽くされているようだ。蓮華の茎の高さは30センチ位はある。その先に10個ほどの小花が輪状をなして集まって1~2センチの花を形づくっていり、その小花の並ぶ様子が蓮の花に似ているということで、この名が付いているようだ。
 作業に取りかかるときは、腰を低くして、茎と花の全体を鎌でたぐるようにして刈り取る。その間、とにかくむせるし、暑い。あたりは、蓮華の匂いがむっとして充満している。初めの頃はよいのだが、時間が経つうちに汗が下着を濡らす上、風がないと、なんとも形容しがたいまでの体の倦怠感を時折感じることもあった。
 おそらく、朝からの労働で筋肉に疲労物質がたまってきているのであろう。その度に、「おいしっ」と気合いを入れ直して、目前の仕事にむかっていくのであった。さもなければ、「何やっとるのか」と父の大きな声が聞こえてきそうなことも、踏ん張らねばならぬ一因でもあった。
 その響きは、「ウアーーーン」と上がっていって、中程に行くと消えるか消えないかくらいになり、それからは「アーーーーン」と緩やかに下っていく、なかなか趣がある音色だった。その頃の上村の商店街、たしか酒屋さんのとなりあたり、昼のサイレンが長々と鳴り響く頃には、全身が汗だくになっている。というのも、父はあまり休めとはいってくれないので、父と隣合わせて働く時はしんどかった。それでも休憩がとれると、田んぼの畦に腰掛けたり、まだ刈っていない蓮華草のふとんのように盛り上がっている辺りに寝転んで、休憩をとった。寝転ぶと、まだ春だというのに、日差しがもうまぶしく感じられ、目をほそめつつ、太陽の光を感じていた。刈り取った蓮華草の大方は、胸の前で両手で抱くようにして集め、父の運転する耕耘機の荷台に乗せて、坂を上り、自宅近くのサイロに運んだ。残りの蓮華はその場で干し草にすべく、そのままにしておいた。
 兄と私は、そのサイロの中で蓮華草を踏む役であった。上から父がどんどん蓮華を降ろしてくる。サイロの中は、ひんやりさとなま暖かさが微妙に入り交じっている。そして、鼻腔から喉にこみ上げてくるのは若草の臭い、それらの中で「おいせー、おいせー」と小声で唱えながら、足踏み作業を繰り返した。中はむし暑くなってきて、下着は汗でだらだらに濡れるし、履いている長靴の底までが臭く汗ばんでくる。早く上がるためには、早いテンポで蓮華草を投げ込んでもらわないといけない。疲れてくると、自分がとらわれの身になっているようで、早く仕事を済ませてサイロから抜け出し、「お天道様」を拝んでゆっくりしたいみたい気分になっている。
 蓮華は中国から渡ってきた。当時は、これが牛の餌となっていた。茎葉は栄養分が豊かで、柔らかい。花言葉も「わたしの苦しみを和らげる」というらしい。藁と混ぜて牛に食べさせるには最適だ。農繁期の牛には、重労働をさせるため、麦の蒸したものを食べさせるが、蓮華もまたサイロの中で滋養のある牛の食料と変わる。
 蓮華の花が咲き乱れる様は美しい。蜜蜂も蓮華が咲いているそこかしこを跳び回っては、花蜜を吸っている。当時は、この辺りに養蜂家を見かけたことはない。かたや、津山市鏡野には山田養蜂場という会社があり、その場所は草加部の北辺りにあるということを後に教えられた。ともあれ、蓮華は肌に触れても優しい感触がこちらに伝わるし、匂いを嗅いでもよし。仕事の合間には、あふれんばかりの朱色と白色と緑色の中に仰向けになったりしていた。そのとき麦わら帽子のひさし越しに垣間見た優しげな太陽の光、感じた身体の心地よさ、蓮華の匂い、そして心の爽やかさ落ち着きは、あれからおよそ50年経った今でも、蓮華の収穫の光景は、私の心の中でモネの「積みわら」(倉敷の大原美術館所蔵)のように一服の絵画となって残っている。
 蓮華は、根粒菌を棲息させるばかりでなく、その菌が空気中の窒素分を取り込むときに、その分け前にあずかっているのだと教えられた。そうだとすれば、自然の営みとは、誠に不思議で理にかなっている。豆科の植物のなかでは、ソラマメをふかしたのが好きだった。ソラマメは空豆、または蚕に似ているところから蚕豆というらしい。もっとも、この豆は茹でてから時間がたたないうちに食べないと、味が落ちる。サヤエンドウも柔らかいものを茹でたものがおいしかった。
 学校の花壇ではこの頃、花が色合いの鮮やかなものに移っていく。サルビアやほうせん花、パンジー、百日草などを植えた。担任の先生の指導で、クラスのみんなで花の苗を小さなスコップを使って植えた思い出は、いまでも土の匂いとともに忘れていない。自分の植えた花の美しさを鑑賞するときがあれば、人が植えた花をあるとき訪問して見るときもある。訪問して鑑賞する最大の機会は、当時の田舎では遠足であったろう。みまさかでは、そんな鑑賞が出来るのは春に満開となる鶴山の桜か、初夏7月衆楽公園の池に咲く蓮の花が一番有名だったのかもしれない。そういえば同じ低学年のとき、日本原の塩手池まで学年みんなで歩いていって、写生をし、弁当を食べ、それから少し遊んで帰った。県下最大のため池(1634~1674年津山藩主森長継の時代から改修を重ね、その貯水量は145万トン、周囲が4キロもある)だけのことはあって、その土手には春の草花が沢山咲き乱れていたようだ。
 蓮は、熱帯アジア地方原産のスイレン科ということで、最初に見たときから「これは異国のお花だな」という気がしたものだ。まず、つぼみが神秘的といおうか、幻想的と言おうか、とにかく心惹かれる。下の部分は桃色で、それが縦に入った筋を上に行くに従ってだんだん白味がかっていく。その様は、しずしずしているのにパワーを感じさせる。蓮が仏教でたたえられる花なのは、水底の泥の中に理由があるのだろう。水と泥の中には蓮の地下茎が縦横に広がっている。その節という節から長い柄を伸ばしていき、互いに交わり合っているのだろう。そして、水の上には、50センチメートル内外はあるような大
きな、そしてほぼ丸くて楯の形をした葉っぱを広げ、またその中心部からは茎がニョキーッと突き出しているように見えたものだ。
 このつぼみに対して、夏のある日、朝靄をついて花茎上に咲く一花は、それぞれの花弁がふわっ、ふわぁと水受けのように広がっていて、見ていてとても優しい気持ちに浸れた。昼にはもうしぼむので、花を見たいなら、その前にミニ行かないといけない。小学校のとき遠足で何度か訪ねた衆楽公園の印象で残っているのは、この蓮とそれが植わっている同じ池で悠々と泳いでいた鯉たちだ。2008年の夏、久しぶりにこの公園を訪れたとき、その花はすでに見えなくなっていたが、蓮の大きな葉っぱはあの見慣れた暖かそうな雰囲気を醸し出していた。
 故郷の森に咲いている花で可憐なものを一つ挙げると、ネムノキがある。日当りのよい山野の湿地に生えるといわれていて、大型の「2回羽状の偶数複葉」(植物図鑑)で、沢山の小さな葉がびっしりと付いている。7、8月の日没前に咲くと言われる薄紅色の花は観たかどうかあやふやながら、葉は2回羽状の複葉であり、たくさんの小葉が付いているのが特徴的だ。葉に刺激を与えると小葉を閉じるオジギソウとは、葉の形が実によく似ていて間違えてしまう程だ。
 このネムノキは『万葉集』にも謳われている。
「昼は咲き 夜は恋寝る 合歓木(ねむ)の花 戯奴(わけ)さへに見よ」(『万葉集』巻8、1461、作者は紀女郎(きのいらみや))
備考:「戯奴(わけ)」とは、「若い者」のことをいう。
私は、この木と日に相性がよく、森に咲く花の中では一番好きな部類に入る。また、葉っぱという面では、我が家で飼っていた雌の山羊がこの葉をもっていってやると、たいそう喜んで食べていた。柔らかいので、尚更だったのではあるまいか。

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