Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

AIDA (Sat Mtn, Oct 24, 2009)

2009-10-24 | メトロポリタン・オペラ
注:この公演はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

日本で会社勤めをしていた頃、後輩に”NYに彼氏でもいるんですか?”と言われる位、
有給をとってはNYに旅行してました。というか、正確には”メトに”ですけれども。
そして、たった一人だけ、どのメト旅行でも公演を見逃さなかった歌手がいました。
日本に全然来ないから、私が行くしかなかったのです。
特に1990年代後半から2000年代前半にかけての彼女は経験とパワーのバランスが一番良かった時期で、
この頃の彼女の声は、高音域の透明度が本当に高くて、
クリスタルのような澄んだ声で、このままメトが崩れ落ちるんじゃないか、と心配になるような、
空気が震えてびりびり言っているのがわかるような声を、聴きに行く度に出していました。
座席から自分が吹っ飛ばされるような気がしたものです。
数百人が入るようなホールでの話をしているんじゃないですよ。4000人の客が入るメトでの話です。
彼女はまた非常にレパートリーに慎重で、いくつかの限られた役しか歌っていませんが、
(もともとメゾはその傾向がありますが、それにしても。)
その中でアムネリスこそは彼女の持ち味が一番良く出る演目でもありました。


(ラダメス役のボータと手前に見えるのは、、)

私がオペラを生で鑑賞し出してからというのは、特に『アイーダ』のような演目で、
少なくともメトでは(そしておそらく世界の他の劇場でも)、
どんどんテノールやソプラノがスケール・ダウンして行った時期にあたってしまって、
彼らにそれほど期待することは出来ませんでしたが、
それでも、彼女のアムネリスを聴ける限り、『アイーダ』を観るのが楽しみ、
という時期がずっと何年も続いて来たのです。
私にとっては、彼女こそがアムネリスであり、他の誰もアムネリスではない。
多分、NYでオペラ・ファンを自認している人なら、私と同じ気持ちの人はたくさんいると思います。


(上の写真はアイーダ役のウルマナ)

このブログを読んで、私のことを特定の歌手を好きになったり、
追っかけたりする気持ちがわからない人間だと思っておられる方も多いかもしれませんが、
私は彼女を、初めて聴いた時から、ずっとファンであり続けて来ましたし、
メトだけでは飽きたらず、ヨーロッパまで追いかけて行ったこともあります。
そして、彼女が太めで美人でないのがいけないのか、
”イタリア人よりもイタリアものでは劣っているにちがいない”アメリカ人だからいけないのか、
メトを含めた色々な歌劇場が次々と日本公演を打っても、
新国立劇場が彼女の得意とするレパートリーを上演しても、
決して彼女がキャストに含まれはしないのを、ずっとずっと悔しい思いで我慢して来たのです。
そして、今年、やっと、スカラ座の日本公演に同行した彼女ですが、
私の胸にあるのは、正直、何で今頃、、という思いだけです。
そのスカラの公演で、”大したことないな。”と感じた人だけでなく、いや、むしろそれ以上に、
”すごかった。”と感じてくださった方にこそ、
いえ、そんなもんじゃないんですよ、と言いたい気持ちなのです。


(同じくアイーダ役のウルマナ)

三年前くらいからでしょうか?彼女の歌声に年齢の影がちらついているように感じるようになったのは。
以前までは、ほとんど何も考えなくても自然に声が出てきているように思えるほど、
どんなポジション(体だけではなくてその直前にある声の位置も含め)からでも、
強引な印象を与えずにすぐに適切な音を出せていた彼女が、
今日の一幕で、何気ないフレーズで失敗しないように猛烈に慎重になっているのを見たときにまず、
ああ、彼女も年をとったんだな、というのが急にものすごい実感として湧いて来ました。
一昨年の『アイーダ』あたりまでは、好調不調の波というレベルで説明しても
まだぎりぎり許されるような感じがありましたが、今日の彼女のアムネリスを聴いて、
もう、二度と昔のような歌が聴けることはないんだ、ということを悟りました。
アップダウンのダウンの地点にたまたま今日が当てはまってしまったのではなく、
もう始まってしまった長いダウンヒルの途上に彼女がいる、ということを
認めなければならない時期がとうとう来てしまったのだ、と。


(ラダメス役のボータ)

シリウスの放送のようにマイクで拾っていると逆にわかりづらいのですが、
(なのでもしかするとHDの方が生ほどあからさまに感じないかもしれませんが)、
生で聴いていて、一番変化が激しいと思うのは音の均質度です。
さきほど書いたように彼女はどんなポジションからでも瞬時に自分の思っている音色、音量に移行できる
稀有な才能を持っていたので、彼女の歌唱の素晴らしかった点の一つは、
驚くべきまでに、音(声)の密度が一定でイーヴンだったということです。
ところが今日の歌唱では、それがもはや完全には遂行できなくなっていることが伺われ、
一つのフレーズの中ですら、エア入りのチョコレートのようにふかふかで軽い部分があったかと思うと、
以前の音色に近い、音の密度が高い部分も混じっている、という感じで、
これが発される言葉にまで影響してしまうので、極端に言うと、
単語の音が歯抜けに聴こえるように感じる部分もあるほどです。



それから、高音が痩せる、これも最もわかりやすい変化の一つで、
彼女の高音を特徴づけていたクリスタルのような鋭い、それでいて澄んで美しい音は、
以前の輝きを失っていて、昔よりも音がずっと軽い感じがします。

4幕の頭のラダメスとのシーンでは、ヨハン・ボータの声に押し負けていると感じましたが、
こんなことはこれまでに一度もなかったことです。
どんなに声がでかいテノールと共演しても、絶対に最後は彼女が勝ち、でしたから。
それでも、裁判の場は、彼女の意地でしょうか?
今の彼女が持てる全てを出し切ったと思います。
でも、彼女が全てを出し切ったからこそ、この裁判の場が終わったときに気付いたのです。
もう次の『アイーダ』を楽しみにしている自分がいない、ということに。
ザジックに関して言えば、まだ数年は、コンディションのいい時は普通の意味では満足できる歌が聴けるでしょう。
でも、普通のレベルに収まりきらない超ド級の歌と声の楽しみを教えてくれたのは、他でもない彼女ですから。
歌う役を工夫することでまだまだ歌い続けていくことはもちろん可能ですし、
そうなっていくのでしょうが、私にとって、彼女はやはり、”アムネリス”なのです。



次に彼女と肩を並べるほど素晴らしいヴェルディ・メゾが現れるのを待つことになるわけですが、
もし出てこなかったなら、、、
私が今まで体験できたような、上演を心待ちにし、実際に歌を聴いて、
血管の中で血が沸騰するような感覚を覚える『アイーダ』を観ることは、
もう二度とないのかもしれない、と思います。
どんなに優れた歌手にだって、いつかはこういう時が来る、とわかっていても、やはり寂しいものです。
ドローラ・ザジックは、私の『アイーダ』鑑賞の歴史そのものでした。




と、これで終わってはあまりなので、他の歌手や指揮についても一言ずつ。

ヨハン・ボータはこの公演の一つ前の公演(シリウスで放送された)で、
ものすごく調子をあげているのが感じられ
(凱旋の場で誰よりも高音が綺麗に飛んでいてラジオを聴きながらびっくりしました。)、
とにかくこのHDに賭けてきたことが忍ばれます。
特にどこが悪いわけでもなく、むしろ、全体としては全くといっていいほど目だった欠点がない位に歌っています。
高音も力強いですし、この人、こんなに声量があったんだ、という位、大きな声で歌ってます。
彼は声が綺麗なので、大きな声で歌っても、うるさく、むさ苦しく感じられないのは美点です。
強いていえば、それ故に、まれに出てくるややがなりたてるような汚い音が気になる程度でしょうか?
ただ、上手く言えないのですが、彼には何かこの役をこの役らしくする何か、
熱いものが足りないような気がします。
今、この役を歌唱面のみでクリアできるテノールすら数多くはないのですから、
贅沢な注文なのかもしれませんが。


(ラダメス役のボータ)

それをもっと突き詰めた感じなのがウルマナのアイーダです。
彼女はどの声域も美しい音色をしているとは思うのですが、
こちらもまたパッションを感じないというか、淡白なことではボータの上を行ってます。
しかも、今日の彼女は相当緊張していたのか、かなり長い間、
音が高めに入ってピッチが狂ってしまうという症状に悩まされていました。
ウルマナに関しては、アイーダだけでなく、どの役を見てもいつもこのような淡白な印象を持ちます。


(ランフィス役のスカンディウィッツィ)

ひどかったのはランフィス。
っていうか、このロベルト・スカンディウィッツィ、
私は深刻な精神障害を疑います。簡単な数が数えられない、という。
本当にすごく不思議なのですが、
あのガッティですら、スカンディウィッツィには難しいテンポやリズムは扱いきれないと読んだか、
かなりオーセンティックに振っていたと思うのですが、それでも、見事に拍が狂うのです。
児童が1,2,4、、と数字を飛ばしてしまった時のような奇天烈さに仰天させられます。
もしくは一応数が数えられている場合でも、1,2は早く、突然3、4が遅い、とか。
声そのものは深くていい声なんですけど、深いブレスをしたりしているうちに拍がわからなくなるんでしょうか。
いや、それ、やばいでしょう。プロの歌手なんだから。
なんだか、何をしでかすかわからない人を見ているようで、どきどきして、
つい彼が歌うたびに、ガッティの指揮に合わせて、1,2,3..とカウントしてしまう私でした。

アモナズロを歌ったグエルフィは、『トスカ』のスカルピアよりはさすがによく準備が出来ていましたが、
生で見たものの中で印象に残っているポンスとか、1988年の公演のDVDのミルンズ
に比べるといかにも小粒です。
この役は出番が少ないからこそ、力で持っていかなければならない部分があるのですが、
彼は地味です、あらゆる意味で。


(アモナズロ役のグエルフィ)

ラッキーにも後ろを向いて影法師になっている写真を見つけた(二枚目の写真)ガッティについて少し。

実際の指揮振りとオケから出てきた音を聴いて、一部の人が彼を良い、と感じる理由はわかる気がしました。
彼の指揮のテクニックは決してまずくなく、むしろ、非常に的確でわかりやすいです。
(特に先日『ファウストの劫罰』のドレス・リハーサルでコンロンの???な指揮を見た後では余計に、、。)
多分、彼の長所になりうる点を一つ上げるなら、各楽器のセクションのバランス感でしょうか?
下品になりすぎることなく、面白いバランスを引き出す能力は持っていると感じました。
また弦のセクションの扱いは結構凝ってます。
最初のインターミッションで、かなり年配のおじ様同士の、
”ところでガッティの指揮をどう思うね。”
”好きだよ。彼はいい。”という会話も聞こえてきました。

メトでのザジック人気を肌で感じたか、
彼女をのろのろした指揮でいらいらさせても、HDで誰も得しない、
いや、むしろ、自分が損する、と冷静になったのか、
今日の彼の指揮は、最初の頃ほどテンポがノロノロのグニャグニャではなく、
どの歌手ともそこそこ合わせて行こうとする意志は感じました。
(おそらくキャスト中、一番彼の指揮を良く理解していたのはボータです。)
つい先日はボロディナをじくじくいじめていたのに、えらい変わりようです。



ただ、彼がどんなに面白いバランスを楽器間から引き出してきても、
それが”あ、ここいいね。””あ、ここもいいね。”という、ばらばらな瞬間で終わってしまっていて、
一体オペラ全体の流れにどのようにそれらが貢献しているのか、私には全くよくわかりませんでした。
だから、一つの焦点に向かってぐーっと盛り上がっていくという感覚が希薄で、
ゆえに、心を動かされる、という風にならないのです。
それはあの凱旋の場ですらそうです。

彼の指揮はオケの演奏をどういう風に楽しみたいか、という、観客のスタンスによって
評価が大きく分かれるのではないかなと思います。
(それはどの指揮者でもある程度そうなんですが、特に彼の場合。)

ところで、凱旋の場といえば、舞台上で二手に分かれて吹くトランペットの、
舞台下手側チーム。
オケの正式メンバーではなく、サブのメンバーだと思うのですが、
これはちょっとHDにないんじゃないかな、という出来でした。
上手側の美しく揃った温かいサウンドに比べて、下手チームは一人でカラーの違う音を、
しかも大音量で出している奏者がいて、げんなりです。

また、バレエのシーンの振付に、ABTのラトマンスキーの手が入ることが話題になっていましたが、
今日たまたま座席が隣になったおば様ヘッドもこの私も、まったくぴんと来ませんでした。
というか、前の振付から何が変わったのか?と聞きたいくらい。
いや、もちろん、細かい振付は変わっているのですが、
どうしてそんなに前のバージョンのフォーメーションに拘るのだろう?という位に大きな線がそっくりなのです。
もっと、枠から自由にはみ出るような、独創的な振付を期待していたのにがっかりです。
また、ダンサーたちの踊りがいちいちぴりっとしないのも、ラトマンスキーを助けてはいませんでした。



各キャストの歌の出来をはじめ、あらゆる面で1988年のDVD(演出も全く同じ。
出演者はミッロ、ドミンゴ、ザジック、ミルンズら。指揮はレヴァイン。)より小粒な今日の公演、
私がメトの最近の、特にこういった人気演目での、公演の質の低下を嘆く理由がおわかりいただけますでしょうか?
HDが1988年の映像よりアップグレードされるのは、画質だけといってもいいかもしれません。

最後にその1988年の映像から、第四幕の裁判の場のザジックの歌唱部分をご紹介し、
私が聴くことの出来た、彼女の全てのアムネリス役での歌唱に心から感謝しつつ、
私のアイーダ、いえ、アムネリス鑑賞黄金期に幕を引きたいと思います。





Violeta Urmana (Aida)
Dolora Zajick (Amneris)
Johan Botha (Radames)
Carlo Guelfi (Amonasro)
Roberto Scandiuzzi (Ramfis)
Stefan Kocan (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Adam Laurence Herskowitz (A Messenger)
Conductor: Daniele Gatti
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky
Grand Tier C Even
SB

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***