Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

SALOME (Sat Mtn, Oct 11, 2008)

2008-10-11 | メトロポリタン・オペラ
オペラヘッドをしていると、できるならば避けたいことがこの世に一つあります。
それは、頭から蒸気が噴き出るような公演を生舞台で観ること。
人により、引き金になる理由はいろいろあるでしょうが、私の場合は、
歌手が、自分の声や技術に合わない役を歌ったときと、
作品の良さや真価が歌や演奏や演出によって、踏みにじられた時、が二大パターンで、
それに比べると、作品そのものが今ひとつな場合、というのは、
怒る気にもなれないので、含まれません。

昨シーズンは、『椿姫』によって第一のパターンを経験し、脳震盪を起こすかと思うほどの
怒りに打ち震えた
ので、どうか二年続けてそんなことが起こりませんように、、と願っていたのですが。

さて、ここで宣言してしまうと、私、この『サロメ』という作品が、大、大、大好きなのであります。
この作品の、最も優れた録音として誉れ高いカラヤン指揮、ウィーン・フィルによる演奏
(サロメ役がベーレンス、ヨハナーン役がヴァン・ダム、ヘロデ王役がベーム、
ヘロディアスがバルツァ)
を聴くと、単なるショッキングなエログロ・オペラなんかでは決してなく、
これは、自らが信じるものと生き方を絶対に変えないサロメとヨハナーンの一騎打ちの闘いと、
そしてサロメの、恋に落ちた相手をやっと自分の手にしたときは
相手はもうこの世に存在しない、という、限りなく切ない恋愛を描いた作品であることがわかります。
16,7という年齢ゆえに、サロメ自身が戸惑っている、次々と生まれる激しいいろいろな感情を、
これ以上ないほど的確に、しかも艶っぽさを失わずに音に表現しきったカラヤンの指揮とオケ、
そして、キャストの力が素晴らしく、これ以上の名盤はもう絶対に絶対に現れないことでしょう。

これに比べたら、ショルティ盤は、ニルソンという一大サロメ歌いをキャストに抱えながら、
全く色気がなくて困ります。こんな演奏は、おっさんが頭で考えた少女の恋物語に過ぎない。
心なしか、ニルソンの歌もなんだかしゃちほこばっていて、これなら、
最後の場面しか聴けませんが、まだ、メトのビング・ガラでの歌唱の方が熱くて聴きごたえがあります。
それに引き換え、カラヤンの方は、あのナルシスティックなお面をひっぺがすと、
そこには少女が立っているのではないかと思うほど、
少女の恋物語そのものの演奏をこの盤で繰り広げています。
そして、少女の恋物語、という言葉に騙されてはいけない!
往々にして、子供が大人よりも残酷であるのと同様に、少女の恋は、少女であるゆえに、
大人の女性のそれよりも、残酷を極めるのであり、
それが、この作品をエログロと勘違いさせる一因になっています。

先にも述べたとおり、エログロはあくまで彼女が少女であることに起因している付随結果であり、
この作品が本当に描こうとしている核にあるのはそれではない、と考えます。

たとえば、しばしばこの作品で話題になる7つのヴェールの踊りとソプラノがどこまで脱ぐか、
云々といったエロティシズムは、
美男子ナラボートにそれまで視線すら投げかけることのなかったサロメが、
ヨハナーンに近づくために唯一利用できる人物が彼であることがわかった途端に
しなをつくる場面や(もうこの場面の表現の上手さは、カラヤン盤をお持ちの方はご存知の通り!)、
その後、サロメが言葉を尽くしてヨハナーンを口説きおとそうとする場面のエロティックさに比べると、
なんてことはありません。
特に後者については、もはや詩の世界であり、こんな美しい詩のような口説き文句を
恋愛相手にアドリブで言ってのけるとは、サロメ、美少女であるだけでなく、芸術センスにもたけてます。
この作品は、オスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳が、多少のカットや言葉の置き換え、
複数の人間によって語られる内容を一人の人間の言葉にしたり、と多少の変更は見られるものの、
ほとんどそのままと言っていいくらい忠実に用いられているので、
もちろんワイルドの力であるわけですが。

とにかくこのワイルドの戯曲を読むと、それ自体の出来が素晴らしく、
少女というものを実に巧みに捉えているのには驚かされます。
特に、ヨハナーンに、ヘロディアスを淫売呼ばわり(というか事実なわけですが)
されたそのすぐ後のサロメの言葉が奮ってます。
”もう一度しゃべって、ヨハナーン。私の耳に、あなたの声はまるで音楽のよう。”
実の母親が貶されているのに、話を聞いているんだか、聞いていないんだかのこの素っ頓狂ぶり!!
しかし。この部分を聴くといつも、私は高校時代の友人を思い出す。
まさに我々がサロメと同じ16,7歳だったころ。
私達の学校に、なかなか二枚目の、体育の先生がいらっしゃいました。
当然、女子生徒から絶大な人気があり、彼女もメロメロで、日ごろから、
何とかその先生と一言でもいいから、お話するチャンスを作りたい、と言い続けていたのですが、
いつかの体育の授業で、学校の規定どおりの体育服を着ていなかったか何か(今考えると
実にばかばかしい理由!)で、彼女がその先生から他の生徒全員の前でお小言を頂戴しました。
しかし、彼女を見ると、恥ずかしそうにするでもなく、ぽーっとしているではありませんか!!
私が、”ちょっと!叱られてるの、わかってるよね?”と言うと、
彼女が一言呟いたのです。”先生、もっと叱って、、、。”

こんな事言う人、大人になってから私は一人も見た事がないので、
まさに、思春期の少女特有の狂気の沙汰だと思うのですが、これって、まさにサロメではないですか!!

そして、この戯曲に、ほとんど神業と言ってよいような音楽をつけたシュトラウスの手腕!
本当に音が、サロメの気持ちを含め、全てをきちんと語ってくれている。
というわけで、そのシュトラウスが音符で表現してくれたこのワイルドの物語を
きちんとオケや歌手や演出が再現できているか、ということと、
それゆえに、7つのヴェールの踊りだけではなく、登場人物の会話そのものに
エロティックさが漂っていることがこの作品を舞台にかける時の絶対条件であり、
逆に言うと、それが出来ていない公演を私は許せない。

注:この公演はライブ・イン・HD収録日のものですので、これからライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)
にて当作品をご覧になる方は、その点をご了承の上、読み進めてくださいますようお願い致します。




そして、はっきり結論から言いましょう。
今日のこの公演、私は許せませんでした。
というか、この、ワイルドとシュトラウスによる素晴らしい作品を、
演出と指揮と一部の歌手がよってたかって滅茶苦茶にしてしまった。
私は激しい怒りと失望を感じています。

まず、この演出!これは一体何なんでしょう?
こんなトラッシー(trashy ごみのような、しばしば下品な、というニュアンスも含む)な演出が、
メトに存在しているという事実が信じられない!
映画『スカーフェイス』にも通じる、お金は持っているけど、
趣味良く使えない人たちの家のようなセットに、これまたチンピラのようないでたちの
宴の招待客たち。
これが、ヘロデ王の住む場所、、?!
『スカーフェイス』はまだその胡散臭さを極めつくした故の格好よさがあるけれど、
この『サロメ』の演出でのそれは極めつくしていないので、なおたちが悪い。
そして、みんなアル中なのか、良く飲む。
主だった登場人物が、いつもワインの瓶を片手に舞台を徘徊するのです。
私の連れが、”カクテル・バーのサロメ”とこの舞台を呼んでいるのも道理。

とにかく人の出入りの不自然で見苦しいこと、
セットの組み方(古井戸の位置が前すぎて、歌手たちが非常に限られたスペースで
歌い演じなければならない場面がある、など)の問題など、
あまりに自然な舞台進行を妨げる要因が多すぎて、何から語ればいいのやら。

どんな突拍子のない時代や設定の移し変えでもいいですが、物語の良さや
核になっている部分を捻じ曲げるような演出は絶対に許せん!!

この演出家がいかにこの作品のポイントを理解しそこねているかは、
ナラボートの扱いを見るとすぐにわかります。
このナラボート、ヘロデ王に、”美男子”と言われていることからもわかるとおり、
なかなかのイケメン青年なのですが、サロメには全く相手にされていない。
というか、これはこの物語の根幹に関わってくることですが、
サロメとヨハナーンは、人生の拠り所は全く違うけれども、極めて自分の行き方に忠実である、
という意味では、とっても似たもの同士でもあります。
その頑固さゆえに、ヨハナーンは首をはねられ、そしてサロメは苦い恋を知った後、
やはりヘロデ王の命のもとに命を落とすことになるのです。
ある意味は、あの、ドン・ジョヴァンニとも共通する、何を言われてもされても、
私は生きる道を、自分を、変えない!という二人なのです。

それに比べてこのナラボートという男はイケメンかもしれませんが、
いかにも小心者で、サロメを影からこっそり眺めては、いかに彼女が美しいかを讃えるばかりで、
それでいて、ヘロデ王の命にさからう度胸は一切ない。
こんな根性のない金魚の糞男がサロメに愛されるわけがないではありませんか!

だから、サロメは、リブレットを読むと、ヨハナーンと会わせてもらうため、
彼を利用しなければならないとわかるまで、
徹底徹尾彼を無視しまくっていることがわかります。
というか、彼に視線を投げかけることすらしないのです。
だからこそ、彼は、サロメの、ヨハナーンを古井戸から出して私に会わせてくれれば、
”明日、そっとヴェールの下からあなたのことを見てあげる。”
”もしかしたら、あなたに微笑んですらあげるかもしれない。”という言葉に陥落するわけです。

それを、あろうことか、この演出では、最初から、サロメはじろじろとナラボートを
なめまわすように見つめ、あげくの果ては、このヨハナーンのことをお願いする場面では、
足でナラボートを挟みうちしたり、抱きつく始末。

今すでにべたべたとやたらフィジカルなサロメに、なぜ今さら、
たった一瞥をもらうためだけに無理なお願いを聞く必要がナラボートにあるというのか?
おかしいでしょう。

これは、サロメを好色なティーンエイジャーと描いていることの証であり、
この舞台がとんでもない間違った方向に進まんとしていることが、これだけでわかるというものです。

サロメは実はそれとは正反対で、
むしろ、ヘロデ王やヘロディアスといつも一緒にいることが反面教師になっているのか、
ヨハナーンを一目見るまでは、セクシャルなことに嫌悪感すら持っている素振りが見られます。
だから、ヘロデ王に好色な目で見られると、むしずが走って外に飛び出してきてしまうし、
また、登場後すぐの、月について語る言葉は、彼女の処女性への絶対なる忠誠心が感じられます。
それが、ヨハナーンを目にして、一気に目覚めてしまう。
だけど、彼女自身、それを性的なものとはっきり認知していないし、
また、彼女のヨハナーンへの気持ちは、しばしば解説書などで書かれているような、
性的欲情だけではないとも、私は思います。

例えば、彼女が自分の名前と身分をヨハナーンに伝える場面で、
シュトラウスが与えたその音楽の美しさは、サロメのヨハナーンへの媚というよりは、
もっと素直な、”あなたとお話をして、もっとあなたのことをよく知りたいの。”という無邪気さを感じさせ、
この舞台でマッティラが表現したような性的にアクティブなサロメというのはおおよそ見当違いで、
ヨハナーンに拒否されるまでは、サロメはもっともっと少女らしく、無邪気な女性だったはずです。

ということで、ナラボートはあくまでサロメの少女らしさが引き起こす
残酷さを描くために必要な駒なのであり、
それ以上の意味合いを与えるのはナンセンスで、脇役中の脇役です。
このナラボート役を歌ったカイザーは、昨シーズンの『ロミオとジュリエット』で、
ロミオ役を歌った四テノールの一人で、脇役中の脇役を歌う実力は当然十分すぎるほど持っているので、
歌唱力は申し分ないものの、演出家の指示なのか、とにかく余計で意味のない、
それこそ、この役を真の脇役以上のものであるかのように見せるような芝居が本当に煩わしく、
ヨハナーンに言い寄るサロメに失望し、自害して、舞台から消えてくれたときにはほっとした次第です。

キャスト中、比較的、安定した歌唱を聴かせ、最も役作りの面でもわざとらしさがなく、
オーセンティックな表現を見せたのは、ヨハナーン役を歌った牛太郎(ユーハ・ウシタロウ)。
よく言えば、オケが大音響になる大事な聴かせどころで、もう少し声が抜けてくるとよいのですが、
声そのものはこの役に非常に合っており、安心して聴けました。
ただ、古井戸に戻っていく直前に大切な決め所、”Du bist verfulchut.
おまえ(サロメ)は呪われている!”の前に、
ズボンをずりあげる仕草はどうかと思う。衣装の係の人に言って、もう少しお腹周りをつめてもらいましょう。



このサロメとヨハナーンの会話の場面は、サロメの必殺口説き落としもさることながら、
彼女がヨハナーンに、”不実から生まれた娘よ。
君を助けられる人間はたった一人しかいない。(もちろんイエス・キリストのことを示唆している)
彼を探して、ひざまずき、罪の贖いを求めなさい。”
と言い放たれるシーンもなかなかせつないです。

預言者として、信仰の道を歩むヨハナーンが、サロメを一瞥もしないのは、
彼女を見てしまったら、、、と不安な気持ちがあるからで、
その意味ではヨハナーンも実はサロメに潜在的に魅かれていると私は思うのですが、
(なので、この作品が、サロメの一方的な思い込みによる、倒錯した性愛を描いたものである、
といったような説にはまったく同意できない。)
信仰の道を踏み外して、サロメに降参するわけには絶対にいかない、
その彼が、最大にサロメの側に歩み寄り、彼女のために彼が唯一発することが出来るのがこの言葉。
よって、唯一、この場面で、二人の世界がかろうじて接触するという大事な場面です。
しかし、イエス・キリストに罪を贖ってもらいなさい、という言葉で、サロメの恋心を退けるヨハナーン。
考えてみれば、サロメ、すごい失恋の仕方ではあります。

ヘロデ王を歌ったべグリーは声質も歌唱も個性が希薄で、
前半がサロメvsヨハナーン、後半がサロメvsヘロデ王という二本柱で進んでいく
この作品の片翼を担うにはやや力不足か。
好色な感じも、サロメがヨハナーンの首を望んでいるとわかってからの、
この期に及んでまだ小狡く、王としての威厳と小心者なキャラが交錯する様子をもっと描きだしてほしい。

むしろ、ヘロディアスを歌ったコムロジの方が声量は迫力あり。
彼女は、スカラ座の『アイーダ』でアムネリスを歌ったメゾ。
カラヤン盤のぴーんと張り詰めたようなバルツァのヘロディアスとは対照的で、
少し熱い感じのする歌唱ではあります。

7つのヴェールの踊りでのマッティラは、頑張りは買いますが、
その頑張って踊っている感じが観ていて辛い。
もうちょっと簡単な動きでもエロティックな表現をすることは可能だと思うのですが、、。



そのマッティラの歌唱は、予想していた通り、トップ(高音)にボディがなく、
今日のような歌唱を聴く限り、本来はこの役を歌えるような強さのある声ではないと思います。
また表現に繊細さがなく、それは、特にヘロデ王らが現れる前の、前半部分に顕著で、
ちょっとした言葉に魂が篭っていない感じを受けました。
それは、彼女だけの責任ではなく、そうすることを一層困難にさせている、
この見当違いな演出の責任も大きいとは思いますが。

どちらかといえば、7つのヴェールの踊りを境にした、後半の方が、
役作りにそれなりに面白い部分も観られました。
最後の場面の歌唱の、”私を一目見てくれれば!”と
子供が地団駄を踏むような必死さは、
この感じをもう少し膨らませていって役を作れば面白くなったかも知れないのに、、と思わされました。



サマーズの指揮は、オープニング・ナイトの『カプリッチョ』を聴いて、
もともとあまり期待していませんでしたが、いやー、これはひどい!!
はっきりいって、mess(ぐちゃぐちゃ)です。

彼の、この『サロメ』の指揮での最大の問題点は、どの指示にも確信とか、
その指示を支えている根元にある感情の流れが感じられないことでしょうか?
少なくとも、オケのメンバーにそれが伝わっていない。
オケは指示通りに演奏しようとはしますが、結果、”なんとなく”遅い、とか、
”なんとなく”早い、
というようなことの繰り返しで、そこに必然性が何も感じられない。
また、かなりあからさまにオケをきっちりとまとめられていない個所も見られ、
きちんとこの作品を把握しているのか?という疑問も、、。
この人の今日の罪はかなり大きいです。

オケのサウンドそのものも、この作品の魅力にあまり合致していないようにも感じられました。
メト・オケのコンサートで、レヴァインが指揮をした際も、
決して『サロメ』の出来は良くなく、この作品、メト・オケのウィーク・ポイントといえるかもしれません。

オケの演奏に関していえば、今までメトで聴いた全てのオペラの全幕の公演の中でも、
かなり下の部類に入る演奏になってしまいました。

しかし、それでも多くの観客は熱狂的な拍手を送るのでした。
私の隣の中年男性は、友人と思われる女性に初オペラに連れてこられたようなのですが、
感想は、”いやー、あのサロメ役を歌った女性は、(カーテン・コールでの)気さくな感じがいいね。”
、、、歌の感想はないんですね。
そして、逆隣りのオペラヘッドと思しき女性は憮然として、拍手なし。
決して、熱狂的な拍手が、オペラハウス全体の意見ではなかったことを、付け加えておきたいと思います。

Karita Mattila (Salome)
Juha Uusitalo (Jochanaan)
Kim Begley (Herod)
Ildiko Komlosi (Herodias)
Joseph Keiser (Narraboth)
Lucy Schaufer (The page)
Keith Miller (First soldier)
Richard Bernstein (Second soldier)
Reveka Evangelia Mavrovitis (A slave)
Allan Glassman, Mark Schowalter, Adam Klein, John Easterlin, James Courtney (1st-5th Jew)
Morris Robinson, Donovan Singletary (1st/2nd Nazarene)
Reginald Braithwaite (Executioner)
Conductor: Patrick Summers
Production: Jurgen Flimm
Set/Costume Design: Santo Loquasto
Lighting Design: James F. Ingalls
Choreography: Doug Varone
Grand Tier B Even
OFF

*** R. シュトラウス サロメ R. Strauss Salome ***


東京国際映画祭で 『The Audition』 上映決定!

2008-10-10 | お知らせ・その他
誰かに、”このブログの一番のよいところは?”と聞かれたら、
私は間違いなく”コメント欄”と答えます。

このブログはもともと自分の鑑賞のメモがわりに、というような簡単な気持ちで始めたものですが、
おかげさまで、読者の方々に恵まれ、コメント欄に頂く情報、熱いオペラへの思い、
オペラを見始めた方の率直でそれゆえにはっとさせられるご感想、
皆さんからのつい笑ってしまうコメント 等々、
はっきり言って、本文よりもコメント欄の方が面白いし、勉強になる!

というわけなので、このブログを定期的にのぞいて下さっている方は、
コメント欄もチェックしていただいているはず!と確信しており、
コメント欄で頂いた情報については、特に新たに記事として本文にのせることはしない
方針にしているのですが、
このgooブログ、コメントの履歴の表示数が少なく、かつ一覧表示すらできないので、
しばらくブログにアクセスしないと、あっという間に過去のコメント歴が表示されなくなってしまいます。

今回、こちらの記事のコメント欄に映画『The Audition』についての貴重な情報を頂き、
この映画を強力にプッシュしている当ブログとしては、このコメントを見逃す方があってはならない!、
ルールは破られるためにある!というわけで、方針を今回に限りねじまげ、
あらためて当記事の中で、その情報をご紹介させていただくことにしました。

以前、『MOVIE: THE AUDITION』という記事の中でご紹介した、
ナショナル・カウンシルについてのドキュメンタリー映画が、
東京国際映画祭にて特別上映されることが決定しました!!
10/24(金)の午後1:30から、渋谷Bunkamuraオーチャードホールでの上映で、
邦題は、『The Audition ~メトロポリタン歌劇場への扉』となっています。
そして、私が死ぬほどうらやましく、私も日本に行きたい!!と歯軋りしたのは、
この映画の中で、素晴らしいCasta Diva (『ノルマ』からの”清き女神”)を聴かせている
アンジェラ・ミードが特別ゲストで会場に登場し、歌を披露する予定であること。
そのCasta Divaを歌ってくれる可能性もありそうです。



アンジェラ・ミードはNYでのプレビューの際も、ゲストとして登場し、
会場からの質問に答えてくれたりしましたが、この映画の広告塔として、
日本にまで飛んでくれるとは嬉しい限り!!

彼女は昨シーズン、メトの『エルナーニ』にラドヴァノフスキーの代役としてたまたま登場しましたが、
この映画の中でも触れられているとおり、
ナショナル・カウンシルは決してメトの本公演に直結したオーディションではありません。
(ナショナル・カウンシルにはメトがからんでいますが、
勝者に選ばれたとしても、シーズン中の本公演への登場を保障するものでは一切ありません。)
なので、メトの本公演の舞台に立つためのオーディションであるかのような
印象を与える作品紹介の文章(東京国際映画祭のものも松竹のものも)はやや正しくありません。
あくまで、最終選考がメトロポリタン・オペラのオペラハウスの”舞台”で行われる、という意味です。
(それだけでも、映画から伝わるとおり、歌う方にはものすごいプレッシャーになるわけですが。)

アンジェラ・ミードの歌も聴けるという、NYのプレビューでもなかった素晴らしい特典付きのこの上映。
平日の昼間、ということで厳しいスケジュールではありますが、首都圏にお住まいで、
何とかやりくりが付きそうな方は、どうぞ、足をお運びになってください。

東京には行けないなあ、、という方も落胆するなかれ!!
こちらのコメントで頂いたとおり、ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)上映の映画館で、
6月の上映が決定しているそうです。

出演歌手は、アンジェラ・ミードの他に、マイケル・ファビアーノ、アレック・シュレーダー、
ライアン・スミス、ジェイミー・バートン、アンバー・L・ワグナー、
キーラ・ダフィー、ディセラ・ラルスドッティル、ライアン・マッキニー、
ニコラス・ポーレセン、マシュー・プレンク。

上映をご覧になった方のご感想もお待ちしています!

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Oct 5, 2008)

2008-10-05 | 演奏会・リサイタル
以前、メト・オケの演奏会の記事で、その魅力の一つはプログラムの”何でもあり”さである、と書きましたが、
なんだか、いよいよもってその傾向は増し、今や誰も止められないはちゃめちゃ状態。
必ず一曲はレヴァインの個人的趣味が炸裂したピースがプログラムの中に鎮座し、
唯一の共通項といえば、歌であれ、楽器であれ、ソリストとの共演が行われる曲が一つは含まれている、
ということくらい。

今回のメト・オケ演奏会の場合、
前者が、メシアンの”われ死者の復活を待ち望む Et exspecto resurrectionem mortuorum ”、
後者が、クリスティアン・テツラフをヴァイオリンに迎える
ブラームスのヴァイオリン協奏曲にあてはまるわけですが、
前者に関しては、もう何と言っていいのやら、、、。

そして、そんな二曲の影にひっそり隠れるようにしてプログラムのオープニングを飾ったのは、
ベートーベンの大フーガ。

このブログで何度か書いたと思うのですが、
メト・オケは、一分も違わぬ精緻な演奏を身上とするようなオケではなく、
なので、そういった精巧さの必要な、構築度の高い曲を演奏した時には、
彼らの良さが出てこない場合があるように感じ、
また、オペラ・シーズンが始まった今のヘビー・スケジュールの中では、
それを克服し、徹底的に曲の完成度を高めるだけのリハーサルの時間も取れないのではと思われ、
この曲は、あまりこの定期演奏会に向いた作品ではなかったような気がします。

今日は、この曲だけに限らず、最後のブラームスのヴァイオリン協奏曲共に、
少し弦セクションがいつものシャープさを欠いており、”らしくない”演奏だったように思うのですが、
特にこの大フーガ、一生懸命に演奏している熱意は伝わってくるのですが、
アンサンブルの細かな乱れが、この曲の良さを損なう結果になっていました。
選曲ミス。

しかし、そんなことは、次のメシアンの曲の演奏の前には些細なことにすぎません。
この曲は、あらゆる意味でインパクトが強すぎて、何と解したものか、、。
私は、こういった現代音楽(に入るのだと思う)はこういう機会でもなければ滅多に聴かないので、
当然のことながら、この”われ死者の復活を待ち望む”も、
今回の演奏会のためのiPodによる予習で初めて耳にしたわけですが、
”まずいものに足をつっこんでしまった、、”というのが、第一印象。

推測ではありますが、おそらくメシアンは、この作品によって、
音楽を通した宗教的な体験を観客にしてもらいたいのではないか、というように感じました。
ただ、キリスト教などの特定の宗教に密着したものではなく、
かなりアジアなどの影響も感じられるため、非常に不思議な作品になっています。

法事で行ったおばあちゃんの家でお坊さんの読経を聞く、という感覚に近く、
音楽を聴くというよりは、何か他のものを耳にしているような、、。

宗教は西洋音楽の発展と切っても切れない関係にあるとはいえ、
この非西洋的な要素が混在した”宗教儀式”は、きわめてNYローカルの観客にはきつかったようです。
まあ、気持ちはわからないでもない。
通しで30分はかかる演奏時間中、あの『ファースト・エンペラー』を思わせる打楽器パート
(ということで、『ファースト・エンペラー』はメシアンのぱくりであったことも今日発見。)、
そして、禅寺のような鐘の音、そしてゴジラがこちらに向かって歩いてくるような金管楽器のフレーズ、
が交互に立ち代り現れる。

『ファースト・エンペラー』、鐘、ゴジラ、
鐘、ゴジラ、『ファースト・エンペラー』、ゴジラ、鐘、『ファースト・エンペラー』、



あ゛ーーーーーーっ!!!!気が狂う!!!!

この曲、5つの楽章からなっているのですが、
私にはどれも同じように聴こえ、多分、楽章の順序を入れ替えて演奏されても、
絶対に気付かないと思う。

そして、スコアには、この楽章のそれぞれの合間に、long pauseという指示があり、
レヴァインがゆっくりと半瞑想状態で、ゆっくりとスコアを繰る間、
オケは何も演奏せずに待機(その間、一分近く!これは演奏会ではとても長く感じます。)という時間まであるのです。

第一楽章が終わって、レヴァインが微動だにせず、じーっとスコアを見つめているときには、
観客全員、手術後で体力の落ちている彼ゆえ、”何かあったのか?”
”死んでないよね?”と、騒然。
しかし、毎楽章、これが行われるのを見て、ああ、こういう作品なのね、とやっと悟るのでした。
しかも、その一分間の間に、レヴァインがいちいちスコアの表紙の下に置いた白いハンカチを取り出し、
額を拭き拭きした後、またその定位置に戻すのです。
何楽章か終わった頃には、観客から、”いい加減にしてくれ~”という妖気なものがじわじわ。
そして、第四楽章が終わっても、まだ曲が続くらしい、と気付いたとき、
ある男性の観客が一言、”Jesus Christ!"。
出てしまったのでした、罵りの言葉が・・・。
”宗教儀式”の最中に、、。

しかし、そんな観客を一旦おいて、舞台上を見ると、オケのメンバーのいかに一生懸命に演奏していることか!
演奏する人数が少なく(弦楽器は一切なしで、管楽器と打楽器だけで構成されている)、
かつ、それぞれが違う旋律やリズムを演奏することが要求される個所が圧倒的に多く、
しかも、”間”も大切な曲であるということで、
一人一人のエクスポージャーが高く、そのプレッシャーたるや大変なものです。

顔を真っ赤にしながらのロング・トーン、
客席にまで聴こえるほどのブレスを使って出される管楽器の大音響、
鐘(チューブラー・ベル)を含む打楽器の轟音に思わず耳を覆う管楽器の奏者たち、、、、
って、そんな、奏者の耳を犠牲にしてまで演奏しなくちゃいけないのかい!?

悲しすぎます!
なぜなら、私の目の前ではおばさまたちが激しく爆睡モードに。
オケのメンバーの苦労が一切報われていない。
眠っていない人からは、"Jesus Christ"とまで言われて、、。

この演奏会での、メシアンの作品の演奏について、
レヴァインの指揮に全く共感とか熱さが感じられない、という批評もありましたが、
しかし、この曲を選んだ時点で、半分この観客の反応は予想できたのではないか、という気がします。
むしろ、そういう意味では、レヴァインの指揮がよかろうと悪かろうと、あまり関係なかったのでは?

アメリカという国は、そして、最近では日本もそれに倣ってどんどん同じ方向に
流れているのではないかと私は危惧していますが、
今や、”より大きく、より早く、より多く、より効率よく”という考え方が
幅を利かせています。
メシアンがこの曲によって成し遂げようとしたことは、まさにそういった価値観からは、
”無駄”と切り捨てられても不思議でない。
何もないこと、”無”であることとか、”間”とか、少数の楽器が織り成す音を楽しむ、などという我慢は、
今日の観客を見る限り、苦痛以外の何物でない、という反応でした。
私も含め、聴く側に作品を受け入れる気持ちが希薄であったことは指摘しておかねばならず、
そんな環境においても曲の良さを引きずり出し、観客の心を掴むのが演奏者の側の仕事だろう、
といわれれば、レヴァインやオケの力不足ということで結論づけて終わらせることも出来るのでしょうが、
はっきり言って、観客からの熱狂度という意味では大失敗に終わったこの演奏、
その理由が、演奏者側の力不足、だけで説明できるものではないような気もしています。

もしもレヴァインが、今の私達が住む世界はこれでいいのか?という警鐘をならすために、
この曲を選んだとしたら、観客が全く退屈してしまい、それどころか、
苛立ちまで表現したというのは、実に皮肉なことです。

正直なところ、どのように演奏すれば、この曲が観客を魅了できる演奏になるのか、
私にはわかりません。
私だって、最初から最後まで覚醒して聴けた、というのがせいぜいのところで、
(それも、レヴァインや観客の様子が面白かったからで、純粋に音楽のせいと言えるかどうか、、)
何かをこの音楽から感じるところまでは、とても達しませんでしたから。

プレイビルによると、見事なステンド・グラスで名を知られるパリの教会、
サント・シャペルで行われたこの曲の初演時について、
メシアンは、”時は朝の11時で、はねかえる音に寄り添うかのように、
太陽の光がそこここに色を飛ばして、演奏の中で大きな役割を果たしていた。”と語ったそうです。
おそらくは、メシアンは、そのように、感覚全てで感じるような
ホリスティック(全体的、包括的)な体験としてこの曲を作り、
音楽はその一部を構成する部分に過ぎないのかも。
その音楽だけを取り出して、カーネギー・ホールのような場所で、
観賞用に作られた他の音楽作品と同じようなスタンスで聴くということ自体が、そもそも作曲家の意図を離れた、
不自然な行為になってしまっているのかもしれません。

いずれにせよ、このメト・オケの演奏会を構成している多くのオペラファンには、
非常に理解しがたい作品であったことは間違いありません。

さて、珍しくメト・オケ演奏会の観客がこのような地獄の拷問にも耐え、
誰もホールを去る人がいなかったのは、ひとえに、
最後のブラームスのヴァイオリン協奏曲、これを聴くため、だったに違いありません。

今日、メト・オケと共演をするのは、クリスティアン・テツラフ。
若い頃から、ドホナーニ、チェリビダッケ、ギーレンという錚々たる指揮者たちに認められ、
プレイビルによれば、”現代でもっとも重要なヴァイオリニストの一人”という肩書きが与えられているそうです。



どちらかというと、繊細な演奏をするヴァイオリニストで、
第一楽章で初めてヴァイオリンが入ってくるところなど、
男っぽい演奏が好きな向き(私)にはちょっと優しすぎるように感じられもしたし、
あと、今日の演奏ではほんの少しピッチが不安定な個所が散見されたように感じたのですが、
とにかく、この人の、弱音で音を引っ張る部分での音色の美しさは筆舌に尽くしがたく、
また、各音色に違った表情があるのが素晴らしい。
上手い歌手が歌うベル・カント・オペラのようです。

オーバーレートされている、という意見をいう人もあるようですが、
聴く側の好みはあったとしても、きちんと彼らしさが演奏から感じられ、
間違いなく、演奏会に足を運ぶ価値のある演奏家です。
時にこちらが悶絶するような美しい音を紡ぎ出してくれます。

また、何よりもわざとらしくなく、自然に音楽と接しながら、
それでいて、きちんとした規律を感じさせるところが好ましく、
例えば、アンコールで弾いたバッハのパルティータからの一曲は、
生き生きとした素晴らしい演奏ながら、
最後の音で、ほんの少しピッチが甘く入るという極々軽微なミスがあったのですが、
それが自分で全く許せない様子で、カーテン・コールの挨拶に何度か現れた間も
すでに頭の中であのミスを反芻している様子が手に取るようにわかりました。

さて、話をブラームスのヴァイオリン協奏曲に戻すと、
とにかく彼の演奏が繊細なので、何度もレヴァインが、もう少し抑えて!と、
オケに指示していたにもかかわらず、それでも、これ以上オケの音が大きくなったら、
テツラフの旋律が埋没してしまうほとんどぎりぎりの線を走っていました。
もしかすると、彼が使っている楽器にも関係があるのかもしれませんが、
(以前はストラディヴァリウスを使っていたそうですが、
現在は、グライナーという方が、ガルネリのモデルを模して作られた新しい楽器を使っているそうです。)
演奏は非常に名人芸的であるので、オケの音が少し引いてくれると、
まぎれもない彼の演奏が立ち上ってくるものの、
少し、メトのオケの弦セクションと溶け込んでしまいやすい音色ではありました。

一緒に演奏しているオケ、ひいてはレヴァインまでもを興奮に巻き込んだ演奏は素晴らしく、
観客もこれにて、やっと、メシアンによる地獄の拷問から天上の世界に引き上げられたのでした。

最近のメト・オケ演奏会で記憶に新しい演奏家といえば、ピアノのビスで、
あの時は、これが現代の若手を代表するピアニストなのか、、と暗澹とした気持ちになったものですが、
同じ新しい世代にも(テツラフは1966年生まれ)、面白い存在がいる!と希望が生まれました。


The MET Orchestra
James Levine, Music Director and Conductor
Christian Tetzlaff, Violin

BEETHOVEN Große Fuge, Op. 133
MESSIAEN Et exspecto resurrectionem mortuorum
BRAHMS Violin Concerto
encore: BACH Gavotte en Rondeau from Partita No. 3 in E Major, BWV 1006

Carnegie Hall Stern Auditorium
First Tier Center Left Mid
OFF ON OFF

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ クリスティアン・テツラフ 
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra Christian Tetzlaff ***

Sirius: LUCIA DI LAMMERMOOR (Fri, Oct 3, 2008)

2008-10-03 | メト on Sirius
何日か前より、複数の情報源から、『ルチア』のリハーサルでの
ダムローの歌がすごい、という噂を得ていたので、実に楽しみに待っていた
今日のシーズン・プレミアの『ルチア』の公演。

昨シーズンのオープニング・ナイトで登場したメアリー・ジンマーマンの新プロダクションを
そのまま引き継いだ二年目のランです。
昨シーズン、タイトル・ロールを歌ったナタリー・デッセイの歌唱があまりに素晴らしく、
あれ以上にすごいものが聴けるなんてことがあるのだろうか?という観客の疑問と、
意外にも今日の公演が同役デビューとなるということで、
ダムローにとってはとてつもないプレッシャーに違いない、と思いきや、
そんな心配をくつがえすような圧倒的な歌唱にリハーサルの場にいた人からは驚嘆と
賞賛の嵐だったといいます。

今日の公演をオペラハウスで観たオペラ警察
(久しぶり!我がOperax3の私設警察です。)の話によれば、
珍しく、指揮のマルコ・アルミリアートも大緊張している様子だったとか。
昨年の、レヴァイン&デッセイという顔合わせによる公演のビッグ・サクセスと
比較されるのですから、ダムローのみならず、彼も大きなプレッシャーを感じていたようです。

そのアルミリアートが指揮するオケは、昨年のややシャープな線の立った音作りに比べると、
もっと朴訥とした温かい感じがします。
レヴァインの指揮が、最初から神経質にぴーんと”張っている”感じなのに比べると、
より穏やかな感じがしますが、ベル・カントのスタイルにより忠実な感じがするのは
このアルミリアートの指揮の方かもしれません。

ダムローは、さすがにプレッシャーからか、一幕の
”あたりは沈黙に閉ざされ Regnava nel silenzio ~ 
このうえない情熱に心奪われた時 Quando rapito in estasi”では、
少し声が固く、高音にも無理矢理引き出されているようなテンションが感じられました。

それから意外だったのは声の質感。
彼女に関しては、以前他の役やガラで聴いた際の印象から、
ほとんどきんきんとした金属的な声であったような記憶があったのですが、
この役で聴くと、思っていたよりも割と重たく、
暗さすら感じさせる、落ち着きのある声です。
デッセイの、ふわんとしたフェミニン(女性的)な声とはかなり対照的。

彼女に関しては、このルチアあたりの役でも、楽々と歌えそうな技術と声を持っていることに、
異論を唱える人は誰もいないが、
役の表現という面ではどうだろうか?という危惧がオペラヘッドの間で口にされて来ました。
確かに、彼女の歌は、常に、ややコントロールされすぎていて、
それが表現の点で障害になっている向きはあります。

今日のルチアに関しては、例えばデヴィーアのような、
100%純正のベル・カントの歌を聴かせる歌手に比べると、
若干個性的な部分もあるのですが(特に高音域での音の転がし方に少しクセがある。)
技術はしっかりしていて、ある意味では、これ以上ないほど優等生的は歌ではあります。
もしかすると、正確さという面ではデッセイの上を行っている部分もあるかもしれません。
しかし、デッセイがこのルチアという役の、何か根幹に関わる部分を
しっかりと掴んでいるのに比べると、
ダムローの歌には、音だけで聴いている限り、それが希薄です。
歌はものすごく上手だけど、デッセイの時のように胸倉をつかまれるような感触がない。
この印象が、実際にオペラハウスで公演を観るときには変わるのか、同じなのか、
今から楽しみです。

”このうえない情熱に心奪われた時 Quando rapito in estasi”の後に、
観客から温かい拍手と歓声が出た後は、少し落ち着いたようで、
ダムローの歌唱はこの後、ぐっとリラックス。
高音も、後の幕ほど、まろやかな音が出るようになっていました。

今日の公演でむしろ嬉しい驚きだったのは、ウォール街に転職希望の男、ベチャーラ
のエドガルド。
時に感情過多な歌い方に走りがちな危険な傾向がありますが、概ねは大変良い出来で、
やっと、まともなエドガルドが
メトのルチアに登場してくれた!と、私はとても嬉しい。

昨シーズンのコステロはともかく(しかも、彼がエドガルドを歌った日は、
ルチアがデッセイでなかった)、
ジョルダーニにしろ、フィリアノーティにしろ、
デッセイの素晴らしいルチアに対して、はっきり言って役不足でした。
しかし、このベチャーラは、きちんとダムローの歌と実力が均衡している。
声質や歌唱もこの役によく合っているし、とにかく、歌い崩さずに、
きちんとなすべきことを確実にこなしてくれるのが嬉しい。
彼の起用は大正解です。
私はむしろ、ダムローのルチアより、彼のエドガルドに小躍りした次第です。

ちょっぴり失望させられたのは、大事なエンリーコ役のストヤノフ。
声自体があまり印象的でないうえに、歌い方もまだまだ練れてない感のする個所が多く、
エドガルドが良くなったと思えば、エンリーコがこれか、、。
あちらが立てば、こちらが立たず、、とはまさにこのことです。
この役は、まだ昨シーズンのキーチェンの方がずっと良い。

そして昨シーズン、レリエーが歌ったライモンド役には、
シーズン開幕直前のパヴァロッティ追悼の『レクイエム』で、
ジェームズ・モリスに代わり、バス・パートを歌ったイルダル・アブドラザコフ。
丁寧に歌っていますが、声質もあって、ややソフトな歌い口。
レリエーのどっしりした歌声とはだいぶテクスチャーが違いますが、
これはもう好みの問題となるでしょう。

昨シーズン、コステロの歌唱のおかげで俄然魅力度がアップしたアルトゥーロ役、
今年、この役を歌うのは、ショーン・パニカーという若手テノール。
彼は、DVDにもなった昨シーズンの『マノン・レスコー』でエドモンド役を歌ったテノールです。
そのDVDでも、そのちょっとエキゾチックな容貌が目を引きますが、
スリ・ランカ系アメリカ人なんだそうです。
『マノン・レスコー』の公演よりも、今日の公演の方が、
声もよく伸びていて魅力的な歌を聞かせていました。
コステロより、芯の強いどしっとした声なので、ベル・カント系のレパートリーとは
違う方向に進んでいくのではないかと予想しますが、どうでしょうか?

カーテン・コールでの、ダムローへの観客の熱狂ぶりがすさまじかったですが、
私はむしろ公演全体のレベルで、昨年のそれと遜色ない出来になっていることを喜びたい。
ますます、実演を観るのが楽しみになってきました。

Diana Damrau (Lucia)
Piotr Beczala (Edgardo)
Vladimir Stoyanov (Lord Enrico Ashton)
Ildar Abdrazakov (Raimondo)
Sean Panikkar (Arturo)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Mary Zimmerman
ON

*** ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor ***


LA GIOCONDA (Thurs, Oct 2, 2008)

2008-10-02 | メトロポリタン・オペラ
2年前には、あと15年は上演されないのではないか、と予想したのに、
こんなに早くメトに帰ってきてしまった『ラ・ジョコンダ』。

プレイビルには、初演後、ながらく、”物語の設定があまりにも
イタリア・オペラしすぎている”と小馬鹿にされてきたが、
現在では、その飾りない情感とリリシズムが逆に観客にアピールしている、
云々といったことが書いてありますが、本当に?

私は正直、『ラ・ジョコンダ』は本当に上演するのが難しい作品だと思います。
というのは、作品全体の出来そのものがそれほど良くない。
まるで、ヴェルディの『仮面舞踏会』の安っぽいコピーに、
さらに欲張りにも、フランスのグランド・オペラの要素やら
ヴェリズモの要素も入れてみました、という感じで、
私と私の連れの間では、”ヴェルディのファイリーンズ版”という
ひどいニックネームで呼ばれている作品です。
(ファイリーンズとは、ブランド物の型落ち商品などを激安で売るアパレル系アウトレット店。)

人妻に恋する男という設定や舟歌の挿入などといった、
この『仮面舞踏会』との激似ぶりはどうでしょう!
ポンキエッリのこの恥知らず!
『仮面舞踏会』は実際『ジョコンダ』よりも先に初演されていますが、
こんなことだから、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』から、
その男には実は妹のように愛している恋人がいて、その彼女が嫉妬に狂い、、という設定を、
そしてまたまたヴェルディの『オテッロ』からイヤーゴのいやらしい性格まで、
バルナバ役にコピペしやがった!と勘違いしてしまうところでした。
この二作品は、『ジョコンダ』よりも後に作られた作品なので、
とんでもない言いがかりなのにもかかわらず。
まあ、そう勘違いされても無理のない作品なのだから仕方ありません。
そう、作品として完全に独自のものとして昇華しきっていないために、
なんだか他作品のコピーの寄せ集めみたいに聴こえてしまうのです。

私が聴くCDは、ガヴァッツェー二指揮で、
チェルクェッティ(ジョコンダ)、シミオナート(ラウラ)、デル・モナコ(エンツォ)、
シエピ(アルヴィーゼ)、バスティアニーニ(バルナバ)という物凄いキャストですが、
こんなキャストをもってしても、”、、、。”と、ついこちらを沈黙させ、
地蔵のように固まらせる個所があるんですから、(もちろん、歌唱面ではなく、作品として)
ある意味はとんでもない作品です。
二年前のレポートには台本が一番の問題だと思う、と書いていますが、
音楽の方も、ぎこちない所が随所にあって、思ったより問題は深刻です。

凄いキャストといえば、メトでは、1966年に、クレヴァ指揮で、
テバルディ、コレッリ、マクニール、シエピという、これもかなり豪勢な布陣のもとに、
新演出の公演がかかりました。
何とこの時のプロダクションが、今日まで使用されているということで、
今年で、42年の歴史を持つプロダクションということになります。

この1966年のメトの公演やCDに揃っているような超ド級のキャストで、
何とか聴いて楽しめるレベルになるこの作品、
ということで、そういうキャストでなかったら、その苦痛度は想像を絶するゆえ、
私は、正直、今日、とても恐れながら、メトに到着したわけです。
もはや、目を覚ましていられるのは、アンヘル・コレーラが踊る予定の
バレエ・シーンの”時の踊り”と、アリア”自殺! Suicido! ”だけかもしれない、、と、、。

ところが、今日のこの公演、予想していたよりはずっと良い出来で、
この作品でこれくらいのものが見れれば、まずは良しとせねばなりません。
少なくとも、私は、退屈で気絶しそうになることは一度もなかったですから。
ただし。私の隣の女性はニ幕の途中で玉砕し、思いっきり座席で船を漕いだ後、ご帰宅。
真後ろの女性も三幕中、落ち着きなくがさごそと動き続けた後、
インターミッション後(各幕の間に一度ずつ、計3回のインターミッションがあり、これがまた、公演が長くなる一因となっている。)に姿を消しました。
四幕のアリア”自殺! Suicido!”までたどり着いたのは、
多分もともといた観客の80%くらいでしょうか?
12時過ぎまでオペラハウスにいれないわ!と多くの方が四幕の前にご帰宅。
さすが、『ラ・ジョコンダ』。期待に違わぬパフォーマンスを見せています。

まず、今日の公演が私にとっては何とか持ちこたえた最大の貢献者は指揮者とオケ。
とにかくこのやっかいな作品に、最初から最後まで集中力を持って挑み、
そこここで、聴き応えのある個所を作り出した、
今シーズンメト初登場の指揮者、カレガリを讃えなければなりません。
今日でこの演目はシーズン・プレミアを含め、3回目の演奏になりますが、
オケの演奏に関しては、今日が今までで一番良かったという評判です。

DVD化もされているリセウ劇場2005年公演の『ジョコンダ』の指揮もしているようですが、
もしや”ジョコ専”?
そして、このリセウ劇場の公演、今日のメトの公演とかなりキャストがかぶっています。
ヴォイト、ポドレス、グエルフィ、、、

そして、今年発売されたヴィラゾンのアリア集のタイトルは、"Cielo e mar(空と海)"ですが、
これは『ジョコンダ』のニ幕のエンツォのアリアです。このアリア集の指揮者もカレガリ。
この指揮者、やっぱりジョコ専に違いありません。

歌唱陣の中で、意外にも最も真摯な歌を聴かせ、観客を沸かせたのは、
ヴォイトでもボロディナでもなく、ジョコンダの盲目の母(ラ・チエカ)役を歌ったポドレス。



特筆するほど豊かな声量を持っているわけではないし
(メトのような大きな劇場では決定的なマイナス要因となり得る)、
高音になると少し声が痩せ細りしたりする傾向もあるのですが、
極めて個性的で、はっきり彼女の声とすぐにわかるようなものすごく深い低声をもっていて、
自身のサイトでも、メゾではなく、コントラルトと称しています。
(コントラルトは、テノールとメゾの間の音域)

一幕の "天使の声か Voce di donna o d'angelo"での、
一フレーズ一フレーズに気持ちのこもった、かつ指揮者の意図を汲み取った
歌唱は素晴らしく、オケの音が良い方向に一気に加速したのも、
この歌唱がきっかけだったかもしれません。

はじめのうちは、かなり大芝居なテイストだと思われた演技も、
オペラが進むにつれて、説得力を持ち出し、三幕の最後、エンツォの運命しか
頭にないジョコンダが、母親を置き去りにしたまま走り出してしまうなか、
盲目なゆえに階段でつまずいて転び、まるで魚のようにばたばたと手足を無様に動かす
体当たりの演技に、他の歌手たちが完全にかすんでしまうほどでした。



逆に今日のキャストの中で、最も弱い鎖の輪になってしまったのは、
2年前にも同じエンツォ役を歌ったテノールのマチャド。
このビジュアル世代によくぞ生き残っている、と思われるほどの、
頭が大きく、背が低く、太っている、の三拍子。
しかも、ものすごく顔が下ぶくれなので、三幕目に(下に続く写真で
ヴォイトがつけているような)
黒いマスクをして現れたときには、まるでのらくろのようでした。



しかし、彼がキャスト中最も弱いのは、彼がのらくろだからなわけではない。
私は、ことオペラ歌手のルックスに関して極めて寛大な人間であることは、
このブログで何度も強調してきたとおり。
彼の、このエンツォ役での最大の問題点は、彼の声質にあると思います。
声量はあるように思うのですが、質感が軽い。軽すぎる。
この役は、それこそ、デル・モナコのような、声量がありつつ、
どしーっと腰が座っている声質こそ向いています。
マチャドの、空気に溶けてふわーっと流れていってしまうような感触の歌唱では、厳しい。
よって、”空と海 Cielo e mar ”に関しても、特筆したくなることは何もなし。

ラウラ役のボロディナはまずまずでしたが、彼女の最上の役だとは思いません。
彼女のややスモーキーでまったりした歌声よりは、
もう少し硬質でエレガントさを感じさせるメゾの方が
この役には向いているような気がします。



ボロディナとジョコンダ役のヴォイトは、限りなく直立不動に近い状態で歌い続け、
ほとんど演技らしいものも何もないのですが、特にひどいのはヴォイト。
歌うたびに背を縮めたり伸ばしたりして、手だけ前に行ったり横に行ったりする、
リサイタルなんかでよく見られる歌い方。
それこそ、リサイタル、そして演技での要求度が低かった
これまでのメトでのワーグナー作品ではこれでも何とかなったかもしれませんが、
『ラ・ジョコンダ』のような半分ヴェリズモの息がかかった作品を演じるのに、
それはないでしょう、あなた、です。
せめて、もう少し、リアリズムのある演技を心がけてほしい。



ヴォイトについては、昨シーズン、イゾルデや、サロメの抜粋などを聴きましたが、
いつもどこか、ブレーキがかかっているようで、はじけきれていないような雰囲気が
あるのが本当にもどかしい。
特にこのジョコンダ役は、声の質的には決してそう的外れではなく、
歌い方、演じ方によっては、もっともっとよくなる気がするのだけれど、
まず、彼女の歌唱があまりイタリア・オペラ的でなく、
フレージングや声のカラーに、どこかワーグナーやシュトラウスの作品を歌う時と
アプローチが同じなため、
このジョコンダ役や以前に聴いたトスカのような、ヴェリズモ的側面がある役では、
あまりに冷めて聴こえ、歌唱全体が”まあまあ”な印象に終わってしまっているのは残念。

”自殺! Suicido! ”については、マリア・カラスやエレナ・スリオティスの歌のような、
崖っぷちさが欲しいです。
なんといっても、自分は自殺するしかないんだわ!と思いつめるシーンなのですから。
余談になりますが、マリア・カラスが亡くなった際、彼女の部屋から、
紙に自筆で、このアリアの詞の最初の部分を書いたものが見つかっており、
カラスヘッドにとっては、彼女が亡くなる間際、
まさにこのジョコンダのような心境であったのか、と、特別な思いのあるアリアでもあります。



イヤーゴもびっくりな邪悪男、バルナバを演じたグエルフィは、
昨シーズンのメトの『オテッロ』で、やはり、そのイヤーゴを歌っていました。
『オテッロ』の時もそうだったのですが、彼の悪役系諸役は、はじめのうち、
好感が全く持てない。
悪役でも、かっこよくて、最初から観客を魅了するタイプとは反対に、
はっきり言って、むちゃくちゃ勘にさわるタイプです。
しかし、段々とこちらが引き摺りこまれる不思議な歌唱と演技なのです。
気が付けば、ああ、こういうのもありかも、と思わせる。
イヤーゴの時は、図らずもそうなったものか、彼が意図してそうなったのか、
少しわかりにくかったのですが、今日のバルナバの歌唱を聴いて、
間違いなく意図的、計画的犯行であることを確認。
それは、彼の歌声の変化でわかります。
冒頭、彼はちょっと程度が過ぎるのではないかと思えるほど、
嫌らしいネチネチした声でこの役を歌うのですが、
段々物語が本題に入って、いよいよバルナバの邪悪さが絶好調に達する頃には、
むしろまともで、オーソドックスとも思える歌唱を聞かせます。
最初は鬱陶しくてたまらなかったはずなのに、なぜか、
気が付けばすっかり首まで浸かっているという、まるで蟻地獄のような歌を聴かせますので、要注意です。
下手をすると、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いものに終わってしまう可能性のある
難しいこのバルバナ役を、きちんとこなしていたのはあっぱれです。
決してスタイリッシュとか、極端に歌の上手い歌手というわけではないので、
個人で喝采をさらう、というタイプの人ではないのですが、
いつもユニークな役作りで、面白い歌手ではあります。

アルヴィーゼを歌ったアナスタソフは、背が高くがっしりした体型で、舞台姿が綺麗、
見た目にはこの役にぴったりなのですが、声に重みがないというか、
登場した瞬間から、尻すぼみで存在感が薄くなってしまった感じ。
この役のための鬘だと思われる、肩までの長さのソバージュ・ヘアが気になって
仕方がないのか、ひっきりなしに髪を束ねる仕草を舞台で続ける姿も見られました。
彼の最大の欠点は、舞台や作品にどこか自分を没頭しきれていない点。
オペラの幕や歌の最中に、歌手の地がちらちら見えることほど、
こちらが冷めることはありません。



”時の踊り”でのコレーラの踊りは、彼の一番調子のよいときや、
二年前の超人的な踊りと比較すると、すこし精彩を欠いており、
珍しくサポート時の足の動きがもたもたしたり、リフトでふらふらしたり、と、
やや彼らしくない部分もありましたが、それでも最後のターンはきっちりとこなし、
何より、彼の存在そのものがこの公演の目玉であったことは間違いありません。
彼の明るいキャラクターが、アルヴィーゼ宅で開かれる舞踏会という
華やかなシーンに貢献しているし、ジュリアーニも、堅実な踊りを見せていましたが、
振り付けの中で現れる、二人揃って、時計の針を模して腕を動かす場面での
コレーラのコミカルさは素晴らしく、優れたダンサーというのは、
大技以外の、たった数秒の動きで、そうとわかるものだと実感。

本当にこのバレエ・シーンは、あらゆる意味で気分が沈みがちな当作品において、
一服の清涼剤のようになっているのですが、
こうも観ていて快いシーンになったのは、オケの演奏のせいもあります。
メト・オケの弦セクションを、カレガリが的確な指示で引っ張り、
優美でありながら、甘ったるくない、理想的な演奏で、
こんな”時の踊り”の演奏をバックに、コレーラの踊りを見るとはなんという贅沢か!

逆にこういう経験をしてしまうと、やはりバレエというのは、
元々こういう全感覚が一体となったものになるはずで、
やっぱりあのABTオケのような演奏は、本当に痛い!と思わざるを得ない。
一度でいいから、ABTのバレエの全幕公演を、メト・オケとコラボしてほしいものです。

さすがに1966年から受け継がれて来た化石的なプロダクションだけあって、
何のひねりも読み替えもなく、演技ですら、歌手にお任せ状態のプロダクションですが、
私はこの作品についてはこんな演出も一つの存在の仕方かな、とは思います。
なぜならば、この作品が唯一輝くのは、素晴らしい、いえ、それどころではなく、
ほとんど超ド級のキャストから超ド級の歌唱を得られた時だけで、
とにかく歌唱に最大のポイントが置かれねばなりません。
どんな演目でも歌唱にポイントは置かれなければならいのですが、
この作品はその歌唱への依存度が極端に高い。
それゆえ、それ以外にどんな小手先の技を施したところで、
公演のクオリティを上げることにはなりません。
なので、この公演が大成功の出来であったとすれば、
それは絶対に歌唱がすばらしいはずで、そこまでの歌唱が出る時には、
この1966年からの書割セットでも十分に感動的なものであるはずで、
決して演出にひねりがあったからでも、
セットが今風にアップグレードされたからでもないはずです。
ということで、新演出にお金をかけても失敗したらただの無駄、
成功したとしても、それは必ずしもその新演出のおかげではないはずなので
やはり無駄遣い、、、ということで、この際は、
化石さを売りに、このセットを守り続けていった方が得策ではないかと思います。

ただし、ヴェニスが舞台のゆえ、ゴンドラが登場するシーンもいくつかあるのですが、
あのあまりに水平なゴンドラの動きは、寂れた遊園地のお化け屋敷で
客が押し込められる乗り物のようで悲しく、興ざめ。
特にゴンドラが、この作品ではポイントとなるシーンで使用されているので、
(エンツォとの逢引のためにラウラが現れるシーンや、最後にジョコンダが
二人をヴェニスから逃がすシーンなど。)
もう少し大事に、波で揺られる雰囲気なんかを出してほしいものです。

Deborah Voigt (La Gioconda)
Aquiles Machado (Enzo Grimaldo)
Olga Borodina (Laura Adorno)
Carlo Guelfi (Barnaba)
Orlin Anastassov (Alvise Badoero)
Ewa Podles (La Cieca)
Ballet: Angel Corella & Letizia Giuliani
Conductor: Daniele Callegari
Production: Margherita Wallmann
Set/Costume Design: Beni Montresor
Lighting Design: Wayne Chouinard
Grand Tier A Odd
ON

*** ポンキエルリ ポンキエッリ ラ・ジョコンダ Ponchielli La Gioconda ***



Sirius: SALOME/DON GIOVANNI (Sep 30/Oct 1, 2008)

2008-10-01 | メト on Sirius
衛星ラジオ、シリウスでの鑑賞二連発。

① 9/30 『サロメ』
びっくりした、本当に。
仕事で帰宅がやや遅くなり、開演に少し遅れてスイッチを入れたら、『サロメ』とは別の演目かと思うような
オケの演奏が聴こえてきた。
今日は開演が遅い日だっけ?と思って、よーくスピーカーに耳をそばだてて聴いてみたら、
やっぱり、それは『サロメ』からの旋律だった。
ええええっ!!!!???何これ、、?
演奏に、全っ然、この作品特有の怪しさも緊張感もなくて、
一瞬、ベル・カント・オペラの作品か何かの演奏かと勘違いしそうになりました。
何の断りもなく、いきなり、予定されていたミッコ・フランクが指揮をキャンセルし(理由不明)、
パトリック・サマーズが代役をつとめるとは聞いていましたが、
あの、オープニング・ガラで彼が振った、味のないするめのような
『カプリッチョ』
(同じくリヒャルト・シュトラウスの作品)の演奏が、危険な雰囲気を醸し出していたとはいえ、
それにしても、ここまで、、。
来週の土曜日にはライブ・イン・HDにものってしまうというのに、こんなのでいいのか?!
いや、良くないと思う。

さらに、昨シーズンの『マノン・レスコー』で、この声で本当にサロメが歌えるのだろうか、、と、
私を心配させていたカリタ・マッティラですが、今日の歌唱を聴く限り、かなりきつそうだなあ、と感じました。
というのは、彼女の声は、本来は繊細で綺麗な点が持ち味で、
どちらかというと線が細い声だと思うのですが、
(声量があるないとは関係なく、声のテクスチャーの問題)
この役にマッチしていると判断されやすい、やや鋭い響きが声にあることと、
たまたまこの役を歌って歌えなくはないスタミナや度胸(なんせ、裸で踊らなきゃいけないんですから、
たいていのソプラノは尻込みするってもんです。)があるために、
現役ではこのサロメ役の第一人者のようになってしまっていますが、
歌い方を聞くと、かなり無理をしているのは明らかです。
高音はもはや、ただただ根性で絞り出すようにひっぱっていて、ガッツはある人だな、とは思うのですが、
もともと無理な発声をしているので、音が短めになりがちで、余裕というものが全くないです。

もちろん、ラジオでは音しか聴こえないので、ビジュアル面のこと、
また声とビジュアルのバランスや統合の仕方、ということについて、
ここで語るのはフェアではなく、来週に実際の舞台を観るのを待つべきなのでしょうが、
一点だけ言うなら、歌に表情をつけるために、かなり強引な声のカラー、
いえ、もうこれはカラーという範疇を越えて、許容できるか微妙なほどに、
どすの利いた声やだみ声が多用されているのも気になりました。
私は、歌はまず歌でなくてはならず、語りや雄たけびになってはならない、という主義で、
この点、かなりコンサバであるとはいえますが、それにしても、彼女のこの役における歌唱は、
かなり個性的であるとはいえると思います。
ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)はどんなことになるのだろうか、、どきどきしてきました。

(冒頭は、オスカー・ワイルドによる『サロメ』原作に挿入されているビアズレーのイラスト。
この怪しく淫靡な世界の、どこをどうすれば
ベル・カント・レパートリーの伴奏のようなオケになってしまうのか、サマーズ、、。)

② 10/1 『ドン・ジョヴァンニ』
オケの演奏が緩いことではこちらも負けてません!って、そんなこと競うな!って感じですが、
もう出だしのすかしっ屁のような数音を聞くだけで、がっくり来ます。
先週土曜の舞台では、ビジュアルや演技の面からの不満もあった私ですが、こうやって音だけ聴くと、
ラングレの指揮とそれに合わせて演奏しているオケがかなり公演自体を
生ぬるいものにしていることがよくわかります。
かと思えば、奇妙にテンポ設定が早すぎて、歌手がそんな速さできちんと歌えるわけなかろう!
と叫びたくなる個所もいくつかあるし、、、もうちょっとまともに振れる人はいないのか?


(ドン・ジョヴァンニ役のシュロットとツェルリーナ役のレナード)

ストヤノーヴァの歌うドンナ・アンナによる
”今こそ判ったでしょう Or sai chi l'onore ”の今日の出来はなかなかで、
その後に続く、ポレンザーニの歌うドン・オッターヴィオの ”彼女こそ私の宝
Dalla sua pace ”と合わせて、今日のハイライトでした。
ストヤノーヴァは、本来の調子の時は、コロラトゥーラの技術が極めて正確なのが気持ち良い。
(だから、彼女のコンディションがよいときの『椿姫』が素晴らしくても、
何の不思議もない。)
この”今こそ~”の下降音階も、今日はどの音もおろそかにせず、
音程、音の粒の大きさ、ともに綺麗に決めていたし、
(当たり前ということなかれ!これが出来ていないこの曲の歌唱のいかに多いことか!)
特になぜだか、よく知られた個所やアリアで早めに振りたがるラングレのテンポで
これが出来るのだから、やっぱり技術がしっかりしています、彼女は。