Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Oct 5, 2008)

2008-10-05 | 演奏会・リサイタル
以前、メト・オケの演奏会の記事で、その魅力の一つはプログラムの”何でもあり”さである、と書きましたが、
なんだか、いよいよもってその傾向は増し、今や誰も止められないはちゃめちゃ状態。
必ず一曲はレヴァインの個人的趣味が炸裂したピースがプログラムの中に鎮座し、
唯一の共通項といえば、歌であれ、楽器であれ、ソリストとの共演が行われる曲が一つは含まれている、
ということくらい。

今回のメト・オケ演奏会の場合、
前者が、メシアンの”われ死者の復活を待ち望む Et exspecto resurrectionem mortuorum ”、
後者が、クリスティアン・テツラフをヴァイオリンに迎える
ブラームスのヴァイオリン協奏曲にあてはまるわけですが、
前者に関しては、もう何と言っていいのやら、、、。

そして、そんな二曲の影にひっそり隠れるようにしてプログラムのオープニングを飾ったのは、
ベートーベンの大フーガ。

このブログで何度か書いたと思うのですが、
メト・オケは、一分も違わぬ精緻な演奏を身上とするようなオケではなく、
なので、そういった精巧さの必要な、構築度の高い曲を演奏した時には、
彼らの良さが出てこない場合があるように感じ、
また、オペラ・シーズンが始まった今のヘビー・スケジュールの中では、
それを克服し、徹底的に曲の完成度を高めるだけのリハーサルの時間も取れないのではと思われ、
この曲は、あまりこの定期演奏会に向いた作品ではなかったような気がします。

今日は、この曲だけに限らず、最後のブラームスのヴァイオリン協奏曲共に、
少し弦セクションがいつものシャープさを欠いており、”らしくない”演奏だったように思うのですが、
特にこの大フーガ、一生懸命に演奏している熱意は伝わってくるのですが、
アンサンブルの細かな乱れが、この曲の良さを損なう結果になっていました。
選曲ミス。

しかし、そんなことは、次のメシアンの曲の演奏の前には些細なことにすぎません。
この曲は、あらゆる意味でインパクトが強すぎて、何と解したものか、、。
私は、こういった現代音楽(に入るのだと思う)はこういう機会でもなければ滅多に聴かないので、
当然のことながら、この”われ死者の復活を待ち望む”も、
今回の演奏会のためのiPodによる予習で初めて耳にしたわけですが、
”まずいものに足をつっこんでしまった、、”というのが、第一印象。

推測ではありますが、おそらくメシアンは、この作品によって、
音楽を通した宗教的な体験を観客にしてもらいたいのではないか、というように感じました。
ただ、キリスト教などの特定の宗教に密着したものではなく、
かなりアジアなどの影響も感じられるため、非常に不思議な作品になっています。

法事で行ったおばあちゃんの家でお坊さんの読経を聞く、という感覚に近く、
音楽を聴くというよりは、何か他のものを耳にしているような、、。

宗教は西洋音楽の発展と切っても切れない関係にあるとはいえ、
この非西洋的な要素が混在した”宗教儀式”は、きわめてNYローカルの観客にはきつかったようです。
まあ、気持ちはわからないでもない。
通しで30分はかかる演奏時間中、あの『ファースト・エンペラー』を思わせる打楽器パート
(ということで、『ファースト・エンペラー』はメシアンのぱくりであったことも今日発見。)、
そして、禅寺のような鐘の音、そしてゴジラがこちらに向かって歩いてくるような金管楽器のフレーズ、
が交互に立ち代り現れる。

『ファースト・エンペラー』、鐘、ゴジラ、
鐘、ゴジラ、『ファースト・エンペラー』、ゴジラ、鐘、『ファースト・エンペラー』、



あ゛ーーーーーーっ!!!!気が狂う!!!!

この曲、5つの楽章からなっているのですが、
私にはどれも同じように聴こえ、多分、楽章の順序を入れ替えて演奏されても、
絶対に気付かないと思う。

そして、スコアには、この楽章のそれぞれの合間に、long pauseという指示があり、
レヴァインがゆっくりと半瞑想状態で、ゆっくりとスコアを繰る間、
オケは何も演奏せずに待機(その間、一分近く!これは演奏会ではとても長く感じます。)という時間まであるのです。

第一楽章が終わって、レヴァインが微動だにせず、じーっとスコアを見つめているときには、
観客全員、手術後で体力の落ちている彼ゆえ、”何かあったのか?”
”死んでないよね?”と、騒然。
しかし、毎楽章、これが行われるのを見て、ああ、こういう作品なのね、とやっと悟るのでした。
しかも、その一分間の間に、レヴァインがいちいちスコアの表紙の下に置いた白いハンカチを取り出し、
額を拭き拭きした後、またその定位置に戻すのです。
何楽章か終わった頃には、観客から、”いい加減にしてくれ~”という妖気なものがじわじわ。
そして、第四楽章が終わっても、まだ曲が続くらしい、と気付いたとき、
ある男性の観客が一言、”Jesus Christ!"。
出てしまったのでした、罵りの言葉が・・・。
”宗教儀式”の最中に、、。

しかし、そんな観客を一旦おいて、舞台上を見ると、オケのメンバーのいかに一生懸命に演奏していることか!
演奏する人数が少なく(弦楽器は一切なしで、管楽器と打楽器だけで構成されている)、
かつ、それぞれが違う旋律やリズムを演奏することが要求される個所が圧倒的に多く、
しかも、”間”も大切な曲であるということで、
一人一人のエクスポージャーが高く、そのプレッシャーたるや大変なものです。

顔を真っ赤にしながらのロング・トーン、
客席にまで聴こえるほどのブレスを使って出される管楽器の大音響、
鐘(チューブラー・ベル)を含む打楽器の轟音に思わず耳を覆う管楽器の奏者たち、、、、
って、そんな、奏者の耳を犠牲にしてまで演奏しなくちゃいけないのかい!?

悲しすぎます!
なぜなら、私の目の前ではおばさまたちが激しく爆睡モードに。
オケのメンバーの苦労が一切報われていない。
眠っていない人からは、"Jesus Christ"とまで言われて、、。

この演奏会での、メシアンの作品の演奏について、
レヴァインの指揮に全く共感とか熱さが感じられない、という批評もありましたが、
しかし、この曲を選んだ時点で、半分この観客の反応は予想できたのではないか、という気がします。
むしろ、そういう意味では、レヴァインの指揮がよかろうと悪かろうと、あまり関係なかったのでは?

アメリカという国は、そして、最近では日本もそれに倣ってどんどん同じ方向に
流れているのではないかと私は危惧していますが、
今や、”より大きく、より早く、より多く、より効率よく”という考え方が
幅を利かせています。
メシアンがこの曲によって成し遂げようとしたことは、まさにそういった価値観からは、
”無駄”と切り捨てられても不思議でない。
何もないこと、”無”であることとか、”間”とか、少数の楽器が織り成す音を楽しむ、などという我慢は、
今日の観客を見る限り、苦痛以外の何物でない、という反応でした。
私も含め、聴く側に作品を受け入れる気持ちが希薄であったことは指摘しておかねばならず、
そんな環境においても曲の良さを引きずり出し、観客の心を掴むのが演奏者の側の仕事だろう、
といわれれば、レヴァインやオケの力不足ということで結論づけて終わらせることも出来るのでしょうが、
はっきり言って、観客からの熱狂度という意味では大失敗に終わったこの演奏、
その理由が、演奏者側の力不足、だけで説明できるものではないような気もしています。

もしもレヴァインが、今の私達が住む世界はこれでいいのか?という警鐘をならすために、
この曲を選んだとしたら、観客が全く退屈してしまい、それどころか、
苛立ちまで表現したというのは、実に皮肉なことです。

正直なところ、どのように演奏すれば、この曲が観客を魅了できる演奏になるのか、
私にはわかりません。
私だって、最初から最後まで覚醒して聴けた、というのがせいぜいのところで、
(それも、レヴァインや観客の様子が面白かったからで、純粋に音楽のせいと言えるかどうか、、)
何かをこの音楽から感じるところまでは、とても達しませんでしたから。

プレイビルによると、見事なステンド・グラスで名を知られるパリの教会、
サント・シャペルで行われたこの曲の初演時について、
メシアンは、”時は朝の11時で、はねかえる音に寄り添うかのように、
太陽の光がそこここに色を飛ばして、演奏の中で大きな役割を果たしていた。”と語ったそうです。
おそらくは、メシアンは、そのように、感覚全てで感じるような
ホリスティック(全体的、包括的)な体験としてこの曲を作り、
音楽はその一部を構成する部分に過ぎないのかも。
その音楽だけを取り出して、カーネギー・ホールのような場所で、
観賞用に作られた他の音楽作品と同じようなスタンスで聴くということ自体が、そもそも作曲家の意図を離れた、
不自然な行為になってしまっているのかもしれません。

いずれにせよ、このメト・オケの演奏会を構成している多くのオペラファンには、
非常に理解しがたい作品であったことは間違いありません。

さて、珍しくメト・オケ演奏会の観客がこのような地獄の拷問にも耐え、
誰もホールを去る人がいなかったのは、ひとえに、
最後のブラームスのヴァイオリン協奏曲、これを聴くため、だったに違いありません。

今日、メト・オケと共演をするのは、クリスティアン・テツラフ。
若い頃から、ドホナーニ、チェリビダッケ、ギーレンという錚々たる指揮者たちに認められ、
プレイビルによれば、”現代でもっとも重要なヴァイオリニストの一人”という肩書きが与えられているそうです。



どちらかというと、繊細な演奏をするヴァイオリニストで、
第一楽章で初めてヴァイオリンが入ってくるところなど、
男っぽい演奏が好きな向き(私)にはちょっと優しすぎるように感じられもしたし、
あと、今日の演奏ではほんの少しピッチが不安定な個所が散見されたように感じたのですが、
とにかく、この人の、弱音で音を引っ張る部分での音色の美しさは筆舌に尽くしがたく、
また、各音色に違った表情があるのが素晴らしい。
上手い歌手が歌うベル・カント・オペラのようです。

オーバーレートされている、という意見をいう人もあるようですが、
聴く側の好みはあったとしても、きちんと彼らしさが演奏から感じられ、
間違いなく、演奏会に足を運ぶ価値のある演奏家です。
時にこちらが悶絶するような美しい音を紡ぎ出してくれます。

また、何よりもわざとらしくなく、自然に音楽と接しながら、
それでいて、きちんとした規律を感じさせるところが好ましく、
例えば、アンコールで弾いたバッハのパルティータからの一曲は、
生き生きとした素晴らしい演奏ながら、
最後の音で、ほんの少しピッチが甘く入るという極々軽微なミスがあったのですが、
それが自分で全く許せない様子で、カーテン・コールの挨拶に何度か現れた間も
すでに頭の中であのミスを反芻している様子が手に取るようにわかりました。

さて、話をブラームスのヴァイオリン協奏曲に戻すと、
とにかく彼の演奏が繊細なので、何度もレヴァインが、もう少し抑えて!と、
オケに指示していたにもかかわらず、それでも、これ以上オケの音が大きくなったら、
テツラフの旋律が埋没してしまうほとんどぎりぎりの線を走っていました。
もしかすると、彼が使っている楽器にも関係があるのかもしれませんが、
(以前はストラディヴァリウスを使っていたそうですが、
現在は、グライナーという方が、ガルネリのモデルを模して作られた新しい楽器を使っているそうです。)
演奏は非常に名人芸的であるので、オケの音が少し引いてくれると、
まぎれもない彼の演奏が立ち上ってくるものの、
少し、メトのオケの弦セクションと溶け込んでしまいやすい音色ではありました。

一緒に演奏しているオケ、ひいてはレヴァインまでもを興奮に巻き込んだ演奏は素晴らしく、
観客もこれにて、やっと、メシアンによる地獄の拷問から天上の世界に引き上げられたのでした。

最近のメト・オケ演奏会で記憶に新しい演奏家といえば、ピアノのビスで、
あの時は、これが現代の若手を代表するピアニストなのか、、と暗澹とした気持ちになったものですが、
同じ新しい世代にも(テツラフは1966年生まれ)、面白い存在がいる!と希望が生まれました。


The MET Orchestra
James Levine, Music Director and Conductor
Christian Tetzlaff, Violin

BEETHOVEN Große Fuge, Op. 133
MESSIAEN Et exspecto resurrectionem mortuorum
BRAHMS Violin Concerto
encore: BACH Gavotte en Rondeau from Partita No. 3 in E Major, BWV 1006

Carnegie Hall Stern Auditorium
First Tier Center Left Mid
OFF ON OFF

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ クリスティアン・テツラフ 
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra Christian Tetzlaff ***