Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

DIE ZAUBERFLOTE (Mon, Oct 29, 2007)

2007-10-29 | メトロポリタン・オペラ
ここのところ、ありえないほどの高確率で素晴らしい演奏・公演にあたっていたために、
どんなに忙しくても、その興奮を熱いうちにおさめておきたい!と、
とり憑かれたように記事をあげまくってきた私ですが、
今日ははっきり言って、いやいやながら書いてます。すみません。

しかし、これだけ毎日公演があれば、素晴らしい公演がある一方で、その逆もあってあたりまえ。
そうでなければ、学校の数学の授業で、”確率”など教えるのはナンセンス!ということになるので、
まあ至極当然のことではあるのですが。。

『魔笛』は、私の中で現在、
モーツァルトの作品好きな順リストの最下位あたりを激しく『コジ』と争っているうえに、
ミュージカル、『ライオン・キング』で一躍有名になったジュリー・テイモアの新演出として
数年前に話題になって以来、何度かメトで鑑賞したこともあり、
今年は、フィリップ・グラスによる、ガンジーについてのオペラSatyagrahaとともに、
数少ない”今シーズン観にいかないリスト”に片足をつっこんでいたというのに、
1)指揮のぺトレンコが、ゲルギエフの弟子で、なかなかおもしろいらしい。
(当然、笑わせる、という意味ではなく、評判がいい、という意味です。)
2)夜の女王を歌うカーポラが、これまたなかなかすごいらしい
というこの二つの評判を耳にしてしまったために、
もしもその噂が本当だったとすれば、観なかったら、一生後悔してしまう!!との激しい脅迫観念に襲われ、
気がついてみれば、チケットを購入してしまっていたのでした。

月曜日の観客というのは、ややのりが悪い(というか、みんな週の頭で機嫌が悪い、ともいえる。)傾向にあるので、
ある程度は覚悟をしていたのですが、
序曲の間からすでに流れているこの冷ややかな空気はなんだ??

そんな空気にあてられたのか、それともその指揮に観客があてられたのか微妙なところですが、
ぺトレンコの指揮する序曲は、のっけからうきうき感に欠ける。
とてもこれから我々を神秘の世界に連れていってくれる音とは思えない。
『魔笛』では、オケの配置の仕方が最近観てきたイタリア・オペラと若干違っていて、
それにも一因あるかもしれないのですが、
音が一つにまとまってこないで、ばらばらのまま各パートが鳴っている感じがしてしまうのは、
それだけが理由ではないはず。
うーむ、厳しい。

タミーノを演じるカトラーは、昨シーズンの『清教徒』のアルトゥーロで聴いて以来。
あの時よりは、今日は声も出ているし、背が高くて大柄なので、舞台栄えもするのですが、
節回しがどこかイタリア・オペラ的のみならず、一つ間違うと下品になりかねない妙な発声の癖があって、
私が思う高貴なプリンスとしてのタミーノ像とはちょっと違う。というか、だいぶ違う!

そして、3人の侍女が、これまた、一体どうしたの、あなたたち!と叫びたくなるくらい、
コンビネーションが悪い。
名演だった土曜日の『蝶々夫人』で、スズキを歌ったZifchakが、
今日も第二の侍女として出演していたのですが、
むむむむむ。。。
彼女は少し、アンサンブルが苦手なんでしょうか?
今日もそのコンビネーションの悪さの一因は、彼女の歌唱にあったように思います。

パパゲーノを歌ったDegoutは、今シーズン『ロミオとジュリエット』のマキューシオを歌っていますが、
コミカルな役においても、”歌による芝居”という面ではとても達者。



声もよく通っていて、特に一幕の五重唱の前のHm! hm! hm!では、
ハミングでの声もオペラハウスいっぱいに広がる声でびっくり。
ただし、”演技による芝居”にもう少し改善の余地があるかな、とも思いました。
この役にはもっともっとつきぬけた抜けぶりが必要で、まだ理知的に見えすぎるのが残念。
(そういう意味ではマキューシオのような名家のぼん、という役の方が雰囲気にはあっている。)
その点、以前に見たネイサン・ガンは、鍛えぬいた体も人気の一つなのですが、
それを利用して、脳味噌まで筋肉でできていそうなパパゲーノ像で、ユニークでした。

夜の女王役のカーポラ。
声が期待していたより細い。
私が思うに、この夜の女王は軽く精神を病み気味なので、そのきーっ!!!とした雰囲気が声の中に出てほしい。
一声で、”なんか、この女の人、やだ。”と、観客に思わせるような。
その点、カーポラは、私がこの役に描く理想の声に比べると優しすぎるのです。
声そのものは、高音になるほどに透明感を増し、
むしろ中音域よりも、高音の方が本人は楽に発声しているのではないか?という気さえ起こさせるほど。
ただし、今日は初日ということで、緊張もあったのか、少し様子見的な歌いぶりだったのが残念。
湯がはられた風呂桶に、一気にざばん、とはいらず、足の指先だけちょちょい、と入れているような。
特に第一幕の”若者よ 恐れるな O zittre nicht, mein liever Sohn! ~
私は苦しむために選び出された者 Zum Leiden bin ich auserkoren”で、
その傾向が顕著で、
第二幕の”復讐の心は地獄のように燃え Der Holle Rache kocht im meinem Herzen”の後半で、
やっと彼女らしさの片鱗が見られたかな、という感じ。
というわけで、この一回で彼女の歌唱を判断するのはやめておきたいと思います。

パミーナを歌ったダムローは、今シーズン、このパミーナと、夜の女王の両方を歌うことで話題になっているようですが、
ルックスがパミーナにぴったりなので、そういった意味では女王はもったいない。



ただ、昨シーズンの『セビリアの理髪師』でも思ったのですが、
私は彼女の声があまり生理的に好きではないのかも。
高音にきーんとした響きが出るのが、やや耳障りに思えるのですが、
そういう意味ではもしかしたら、夜の女王でこそ、私の好みに合った歌を披露してくださるかもしれません。
ただし、彼女の舞台での存在感は、今日の他のキャストに比べて群を抜いていました。

ザラストロを歌ったハーゲンは、最近では、『アイーダ』のエジプト王を歌っていましたが、
低音にもう少し広がりがあるといいかな、と思います。
この役に必要とされる重厚な低音が出きっていなかった。

小さい役ながら、意外なコメディアンぶりで、健闘していたのは、
モノスタトス役のKerschbaum。
歌も堅実にこなしていたし、コミカルな演技は彼が今キャスト中、一番上手かったように思います。

ここまで、思いつくままに、歌唱を中心にいろいろ書いてきましたが、
しかし、今回、最もある意味、大発見だったのは、”テイモアの先にミンゲラあり”。
これです。
『蝶々夫人』でのミンゲラの演出について、私はこれまで何度となく記事のなかで不満を噴出させて来ましたが、
(あまりに何度もあるので、全部は載せられない。例えばこれ。)
その原型とも思われるものがこのテイモア版『魔笛』に見られたので書き留めておきたいと思います。

観客がある演出に極めて好意的な場合、客観的な判断をするのが非常に難しく、
私も以前テイモア版『魔笛』を見たときは、あまり意識しなかったのですが、
今日はある意味、この冷めた観客のおかげで、いろいろと客観的に見れました。

『魔笛』に関しては、フリーメーソンの教義や、善悪のねじれ、など、
いろいろ興味深い内容が含まれ、
作者&作曲者がそこまで意図していたかどうかはいざしらず、
試みようと思えば、いろいろと深い解釈もできるのですが、
このテイモア版は、そういった一切の深遠な解釈を捨て去って、
ひたすらエンターテイメントに徹した演出といえるのではないかと思います。
黒子があやつる、布でできた巨大な熊、
インドネシアの人形芝居を思わせる冒頭の大蛇のシーン、
空を横切る三人の童子。
どれも、はじめてみると、”きゃー!かわいい!””ひゃー、すごい!”と思えるのですが、
幾度とない鑑賞に堪えうるものか?その答えは微妙です。
そして、今日の観客の冷ややかさはまさにそこにあったのではないかと思うのです。
数年前は、これらの仕掛けに大喜びの観客でしたが、
今日の観客は、どこか、ディズニーランドを冷めた目で見つめるヨーロッパ人の視線に通じるものがありました。
これらの仕掛けは、一度オペラハウスで鑑賞したことのある人はもちろんのこと、
映像や写真で目にしたことがある人なら、すでにもう同じ驚きを持ってみることはできないものであり、
同じ演目を何度も同じ観客に見てもらうためには、演出の中に、
一過性のもの以上を提供できる何かがないといけない、と私は思うのです。

これらの仕掛けが、まさしく『蝶々夫人』の提灯&さくら吹雪、文楽の人形、
日本(風)舞踊に対応するものである、という意味で、
”テイモアの先にミンゲラあり”なのです。

また、この『魔笛』の演出で大変私個人的に不愉快に感じるのは、
演出が音楽に貢献していないこと、です。

例えば、モノスタトスの一味が襲いかかろうとしてきたところに、
タミーノが魔法の笛をとりだして吹き始めると、彼らの気が萎えて、踊りだし、退散してしまう、というシーン。
ここも、その振付けがあまりにくだらなくて、笑ってしまうので、目立たないのですが、
しかしなんともいえない居心地の悪さに、それは、全くモーツァルトの音楽からかけ離れたところで笑いをとっているからだ、ということに気付かされます。
『魔笛』の中に、いきなりドリフが飛び込んできたような違和感。
決してドリフが悪い、と言っているのではありません(いや、むしろ、ドリフは、私は好きなくらい。)。
『魔笛』の中にドリフがあるのはおかしい、と思うだけです。

また、もっと極端な例を持ち出すと、第二幕のザラストロによるアリア、”この神聖な殿堂には In diesen heil'gen Hallen”。
このアリアは、私は、このオペラの転換点となる大事な曲だと思うのです。
つまり、このアリアによって、パミーナは、ザラストロに対する見方、母親(夜の女王)に対する見方、を転換し、
すべてはみかけでない、ということを知るのです。
その、このオペラの中で最も大事なアリアともいえるこの箇所で、
なんと、その前のモノスタトスに言い寄られるパミーナをザラストロが救うシーンからの、
大きなセットの転換が、ザラストロが歌う後ろで、がたがたと行われるのです。
このセットの転換自体は、いかにも気が利いているような感じがするのですが、
しかし、気が利いているからといって、ザラストロのアリアの後ろで、
がたがたがた。。。と大音響を立てながら変わるセット。アリアが台無し。。

テイモア版『魔笛』から感じられるのは、
”このアイディア、いけてるでしょ?”
”このセット、すごいでしょ?”というお仕着せがましいほどの演出家の自己主張。
でも、彼女は本当にこの『魔笛』というオペラの音楽を聴きこんでこの演出を考えたんだろうか?
演出というものは、もっと、セットの移動、歌手の扱い、といったものを含めて、
音楽と音楽が言わんとしていることに貢献すべきはずなのに、という思いが払拭できないのです。

ギミック重視の、”ギミッキー”な演出の先祖がこんなところにあったのでした。
しかも、『蝶々夫人』にまで、卵を産み付けて。。
これ以上繁殖しないことを望みます。

Eric Cutler (Tamino)
Diana Damrau (Pamina)
Stephane Degout (Papageno)
Anna-Kristiina Kaappola (Queen of the Night)
Reinhard Hagen (Sarastro)
Dietmar Kerschbaum (Monostatos)
Wendy Bryn Harmer/Maria Zifchak/Wendy White (First/Second/Third Lady)
Monica Yunus (Papagena)
Conductor: Kirill Petrenko
Production: Julie Taymor
Grand Tier C Odd
OFF

***モーツァルト 魔笛 Mozart Die Zauberflote***

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