Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

LUCIA DI LAMMERMOOR (Sat Mtn, Oct 25, 2008) 後編

2008-10-25 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

第ニ幕 第一場

第一幕第二場での表現が結構練れていたのに比べると、
ダムローの演技や歌唱の表現にまだ発展途上中であるような印象を受けたのがこのニ幕と三幕。
完全に狂ってしまった状態で歌うのは第三幕とはいえ、この二幕こそ、
ルチアの精神が徐々に崩壊しつつある途上を表現しなければいけない大切な幕です。
しかも、一幕や三幕のように、ソロでの歌の飛び道具/大技はないので、
ある意味では、ルチア役のソプラノの地の表現力が試される難しい幕といってもいいかもしれません。

兄からの結婚の強要に対する怒りと失望、家を守るのは自分にかかっているというジレンマ、
エドガルドからの便りがなく、自分は本当に愛されていたのか?という焦燥感、
最も信頼するライモンドからあきらめることをすすめられ、泣く泣く至るあきらめの境地、
そして、エドガルドの帰還と何よりも彼からの罵倒によって受ける悲しみ、
昨シーズンのデッセイの歌と演技はこれらの要素が全てきちんと表現されており、
その彼女と比較されるのも気の毒ではありますが、
まずは、もっともっと体の動きに多様性が欲しいと思います。
ダムローの演技は少し時代を感じさせるというのか、基本的には、
腕をぶんぶんふりまわし、舞台を歩きまわる(まあ、時には床に倒れたりもしてくれますが、、。)
という、このワンパターンに集約されます。

同じ腕の動きでも、デッセイの方が無数の引き出しがあり、
その時々の歌唱に合うものを的確に引っぱりだしてくれます。
あそこまで芸達者になれ、というのは酷かもしれませんが、
もう少し、いろいろな手の角度、動かし方、歩き方のテンポや姿勢によって、
観客に伝わるものの違いを研究してほしい。

あと、デッセイとの最大の違いは、演技に大きな動きが入ったときに、
どれほど歌に影響するか、という点。
デッセイの場合、信じられないほど演技が歌に影響しない(というより、
むしろ演技が歌に貢献しているようにすら感じられるときがある。)のに対し、
ダムローの方は、体の動きが微妙に歌にネガティブに反映し、
そこから歌がしばらく微妙に崩れてしまう場合があり、
その後、立ち直るのに少し時間がかかる傾向にあるように思います。
これも前編で書いたことにまた戻っていくのでしょうが、鍛錬を重ねることで、
脆さがどんどん削り落とされていくはずで、これからに大いに期待したいと思います。



エンリーコによるアルトゥーロとの結婚の強制に、なんとか抵抗しようと試みるシーンも、
やはり腕ぶんぶんで、もう少し表現と芝居に陰影がほしい、、。
ここはストヤノフのやや一本調子な歌唱もあって、この公演の中で最もつまらなく感じました。

むしろ、ライモンドとの掛け合いの場面の方が、アブドラザコフの力もあり、面白かった。
よきルチアの相談相手としての善良な側面だけでなく、
彼自身も、利己的な理由から、ルチアにアルトゥーロとの結婚を引き受けさせたがっている、
という事実を強調した役作りで、彼の表現を見ると、
ふと、もしや、ライモンドも、エンリーコとノルマンノとは違うレベルであるとはいえ、
やはり、ルチアを追い詰める運命の歯車の一つではなかったかと思えてきます。
(例えば、本人は、自分の信頼できる人間に手紙を託したが、エドガルドから返事がなかった、
と言っていますが、一体、その”信頼できる人間”とはどれくらい信頼できる人間だったのか?
きちんと調査はしたのか?
そして、その後も、ルチアにアルトゥーロとの結婚を決心させるべく、
さりげなく誘導作戦を行っていることもわかります。)
後に続く婚礼のシーンでも、エドガルドが登場する場面で、
アブドラザコフのライモンドに、ルチアを心配する気持ちと、
自分の密かな計画が頓挫した失望が交錯して見え、
限られた登場場面しかないにしては、最大限に多面的な役作りに成功していたと思います。



このジンマーマンの演出は全体的に嫌いでない私ですが、たった一つだけ、
非常にわずらわしいのは、このルチアとライモンドのシーンで、
二人の歌がまだ終わっていない時点から、婚礼の場への転換が始まってしまうことです。

大きなセットの移動はなく、地面に降りていたシャンデリアにかかっていた白布がとりはらわれ、
するすると天井に上がっていき、召使役のエキストラが、
巻かれて舞台奥に置かれていた絨毯を足で舞台手前に広げていく、という程度のものなのですが、
照明の関係もあり、一気に華やかな部屋に早変わりするので、
客席からどよめきやら、そのアイディアに対して、感嘆するような笑いが起こったりしてしまいます。
そのため、歌が非常に聴こえにくくなってしまうのですが、ここの旋律は実に美しく、
また最後にルチア役のソプラノが高音を出せる場でもあり、
今日も、せっかくダムローが”確率40%”の、ものすごく綺麗な高音を出したというのに、
見れば、観客の注意が歌に十全に向かっていない。こういうのは本当に泣けてきます。
ふと、ジュリー・テイモア演出の『魔笛』が頭をよぎりました。



ショーン・パニカーのアルトゥーロは、第一声を発したときから、
声の美しさでは、個人的に、昨シーズンのコステロとは比べものにならないと思うのですが、
からっとした陽性な声ながら、きちんと役としての責任は果たしている歌唱ではありました。
声質がかなり独特で、将来、役を選ぶタイプの声かもしれません。
ベル・カントはちょっと違うかな、と思います。
ただ、あまりに男前な歌よりは、むしろ、これくらいの方がいいのかもしれません。
なぜならば、コステロのような歌だと、エドガルドがいまいちな場合
(いまいちをジョルダーニやフィリアノーティと読み替えても可。)、
完全にアルトゥーロの方が素敵に思えてしまうから。
まあ、今日の場合は、エドガルドが実力のあるベチャーラなので、
コステロがアルトゥーロでも、問題なかったですが、、。



エドガルドが登場してからのシーンは、あんなに声量のあるベチャーラが、
むしろ、抑えた歌唱をしていたのが印象深かったです。
昨シーズンのテノールたちは、ジョルダーニにしろ、フィリアノーティにしろ、
ここは大興奮!!とばかりに、ルチアを罵倒しまくっていましたが、
ベチャーラのエドガルドは、怒りよりも、”なぜ結婚証明書にサインをしたのか?”
という悲しみの方が強く表現されていて、ルチアを愛する気持ちが一瞬たりとも
消えていないところがせつなさを誘います。



順序が前後しますが、六重唱に合わせて舞台で進行するのが、
これまたこの演出で賛否両論事項の一つとなった、結婚写真の撮影。
今年は昨年よりも、写真屋を演じている男性が芸達者に見えます。
(俳優が違う人なのか、演技を変えただけなのか、は不明。)
アルトゥーロの横に無理矢理ルチアを座らせ、二人の手を握らせた後、
まわりに、アリーサやライモンド、エンリーコを置き、
最後に結婚の祝宴の招待客たちもまわりを取り囲むよう、この写真屋が仕切っていきます。
ライモンドが実に複雑な表情で、写真に加わるのは先に書いたとおりですが、
そのほかにも、エンリーコが、写真屋の手を振り払ったり(エドガルドが登場した苦々しさと、
エンリーコという人の人どなりを表現)、と、非常に細かい演技付けが一人一人に加えられていて、
これも演出の”お直し”の効果だと思われます。
また招待客全体が体を舞台上手を見るように斜めに向かい、しかも立ち位置の配置を
はっきりと舞台の上手半分にしたことで、ルチアの一族と、
下手側に一人で立っているエドガルドとの間の、断絶、亀裂をより明確に表現。
最後にルチアだけを緞帳の手前に残して幕が降りる部分は、
ルチアと周りの世界が断絶されたことを表現しているわけですが(つまり、
ゆっくりと進行していた狂気は、ここではっきりと姿形をとり、
ルチアはとうとう全身、”あちらの世界”の人になってしまうのである。)
この二つがより上手く呼応するようになったと思います。

ただ、六重唱の部分に話を戻すと、何度ルチアの手をアルトゥーロの手にのせても、
すべり落ちて、それを”きーーっ!!”となって直す写真屋のおじさんの姿はユーモラスなのですが、
あの六重唱の美しいメロディーにかぶって客席から笑いが出るというのは、
かなり野心的な演出というのか、私も若干の違和感はあります。
なかには許せない!というベル・カント作品好きの人もいるかもしれません。
なので賛否両論、というわけです。

六重唱の歌唱に関しては、ベチャーラ、ダムロー、アブドラザコフのこの3人はよく声が聴こえてくるのですが、
ストヤノフとパニカーの声は埋もれてしまっており、アリーサ役のモルテンスの高音が汚いのにはがっかり。


第三幕 第一場

せっかくの、廃墟となったエドガルドの旧居城のシーンも、
とにかくストヤノフに凄みとか迫力がないので、
決闘も、これじゃエドガルド余裕で勝っちゃうね、、という感じ。
この場面は、エンリーコが頑張ってくれないと、とことん退屈な場面に成り下がってしまう。
今日はその典型パターン。

第三幕 第二場

男声合唱は、この演目については、昨年よりさらに良くなった気がします。
合唱にのせて歌うライモンドの歌唱がこれまたアブドラザコフ、なかなか上手い。



いよいよ狂乱の場。
ダムローの”狂う”ということへの理解は、やはりデッセイに比べると、
若干表面的な気がします。
このように空中に渡された長い廊下を歩いた後、



”彼の優しい声が Il dolce suono ”の冒頭を上の階で歌い終わった後、
次のフレーズに入る前に、ものすごい勢いで階段を駆け下りて来るのですが、
”間”的に無理があるし(なので、音楽的にもあまり美しくない。)
狂人だから突然に猛烈な行為に出る、という想定なんでしょうが、
狂った人がこんな走り方はしない、と思う。
この表面的な感じは、2006-7年のシーズンのネトレプコの『清教徒』の狂乱の場(これもDVDになってます。)と
少し共通する感じがあります。
狂う、という表現は、見た目を美しくまとめたいという欲を捨てられない限り、
決して本物に到達することは出来ないと私は思う。
それを捨てて、真に迫ったときに、はじめてそこに美しさが生じる、というパラドックスなのであり、
それを捨てられないときには、観客にこそばゆい思いをさせる、という曲者です。



演技の方はかなり改善の余地があると思いますが、
歌の方は、決して悪くなく、特に今シーズンがロール・デビューであることを考えると、
なおさらです。



彼女のイタリア語は、全体的に、言葉の最後の母音がやや短い(もしくはない)傾向にあって、
例えば、静かに!という意味のTaciという言葉も、”ターチ”というよりは、
英語のtouchなんかのchという音に近い感じだったりして、
ディクションが良くないと気になる、という方には気になるかもしれませんが、
しかし、それ以外の歌唱技術そのものは非常にしっかりしたものを持っています。
今半分ほどの確率で出ているあの本当に美しい声を毎回思いのままに出せるようになったなら、
他の”なんちゃってベル・カント”を歌う歌手たちなど目でない存在になれるはずです。
少なくとも、私が今まで彼女の声が金属的だ、と感じていたのは、
その逆の半分の方を聴いていたからで、実はそうでない実に綺麗な声も彼女が持っている、
ということを発見できたのは嬉しかったです。



次のメトの来日公演の『ルチア』では彼女がルチア役に予定されているらしい、という噂ですが、
このメトでのロール・デビューの成功でベル・カントのレパートリーでの自信もついたことでしょうし、
あと数年、彼女が他の歌劇場などでもこの役の経験を積むことで、もっと役作りが進化するはずで、
来日する頃には、かなり磨かれたものを見せてくれるのではないか、と期待しています。



第二幕 第三場

と、ダムローの頑張りもさることながら、しかし、やはり、私にとって、
この第一キャストの『ルチア』での最大の立役者はベチャーラでした。
『ルチア』は主役のソプラノが優れていればよい演奏になるような印象を持たれている節がありますが、
全然そんなことはなくって、そのソプラノとがっぷりと組めるテノールがいてこそ、
作品の良さが引き出されると思います。
そして、まさに今回のキャストがそのいい証だったと思います。



ベチャーラは、恵まれた声が根幹にあるからでしょうが、歌に度胸が感じられるところが良い。
よく言えば、もう少し歌に繊細さが加わるとさらにいいのですが、
しかし、今の彼ですら、太刀打ちできる現役テノールの数はそう数多くはないはずです。
(大体、他に誰でこのエドガルドを観たいか、と質問されたら、
何人の現役テノールの名前を挙げられるでしょう?)

そんな彼の力が思う存分出たのが、”我が祖先の墓よ Tombe degl'avi miei”。
このアリアのように繊細さよりもむしろパッションで勝負できるピースの方が、
彼の持ち味が発揮できるように思います。



今回のエドガルドで、NYのオペラファンの心をがっちり掴んだ感のある彼。
彼の方も、この熱狂ぶりを本当に喜んでくれているような様子でした。
この後も、『オネーギン』でのレンスキーと、『リゴレット』のマントヴァ公と二度もメトに
舞い戻ってくれる予定なので、楽しみです。


Diana Damrau (Lucia)
Piotr Beczala (Edgardo)
Vladimir Stoyanov (Lord Enrico Ashton)
Ildar Abdrazakov (Raimondo)
Sean Panikkar (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Ronald Naldi (Normanno)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Mary Zimmerman
Set Design: Daniel Ostling
Costume Design: Mara Blumenfeld
Lighting Design: T. J. Gerckens
Choreography: Daniel Pelzig
Grand Tier D Odd
ON

***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***

LUCIA DI LAMMERMOOR (Sat Mtn, Oct 25, 2008) 前編

2008-10-25 | メトロポリタン・オペラ
今日は今シーズンのルチアの第一キャスト最終日。
メトでルチアが次に上演されるのは来年2009年の1月から2月にかけての第二キャストによるもので、
ネトレプコ、ヴィラゾン、クウィーチェン、アブドラザコフというメンバーで4回の公演が予定されており、
ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)で上演されるのは、第二キャストの最終日、2/7の公演です。

というわけで、ダムローとベチャーラのコンビの『ルチア』を聴けるのは今日が最後。
今日に至るまでに、シリウスで3つの公演を聴きましたので(そのうち、初日の公演は記事にもしました。)、
電波で聴いたなりに、こんな感じの歌唱かな、というイメージはある程度持っているのですが、
それとどう同じで、どう違うか、というのを確かめられるのが、
シリウスで聴いた後で生の公演を観るときの一つの楽しみでもあります。

さて、新聞をはじめとするメディアでの公演評は初日が対象になることが多く、
今回の『ルチア』もその例に漏れなかったのですが、
ダムローの歌唱は絶賛され、このメトでの公演がロール・デビューだった彼女も、
ほっとしたことでしょう。
このジンマーマンの演出は、昨シーズン、デッセイによってプレミアを向かえたものですが、
そのデッセイの舞台上での歌唱と役作りにはこちらがうすら寒くなるほどの迫力があり、
まだ、その記憶も新しい観客の前で、同じ役を同じ演出で歌う、
そのプレッシャーはいかほどだったかと思います。
また、ダムローに負けずとも劣らず高い評価を受けたのがベチャーラ。
こんな歌い方で喉に無理はかかっていないのか?と危惧する声もありましたが、
しかし、(いい意味で)非常にスリリングな歌であるのは間違いない、というのが、
意見の一致するところでした。

昨シーズンに、第二シーズン目を迎えたシャー演出の『セヴィリヤの理髪師』を観たときにも、
いろいろと細かい修整が演出に施されていて、おもしろいな、と思ったものですが、
『ルチア』の方にも、やはり同様の細かいお直しが入っていました。
全体的には、今年の方が良く練れているというか、その場面で演出家が何を伝えたいのか、
というポイントがよりはっきりしていたように思います。

第一幕 第一場

エンリーコを今シーズン歌うストヤノフはブルガリア出身のバリトン。
彼は調子が良いときは高音に独特の色気があって、私の嫌いなカラーの声ではないのですが、
(3回シリウスで聴いた中で、そんな絶好調の時が一度だけあった。)
問題は、その調子が良い日の確率があまりに低いような気がすること。
今日も、やはり”その日”ではなかったようで、やや高音に思い切りがたりない、とか、
あと、声量がメト・サイズのオペラハウスではこころもとなく、
オケがかぶってくるところでは、声が聴こえづらくなる場面が何度もありました。
ベル・カント作品のオケに声が消されているようではちょっぴり厳しいものがあります。
指揮者の意思の汲み取り方とか、ちょっとした間のとり方とか、
音楽性は決して低くないのに、この声自体のパワーのなさが、
一般の公演評でも、彼の歌唱の評価が低かった原因ではないかと思います。

パヴァロッティをしのぶ『レクイエム』で、もうちょっと歌に個性がほしいなどと、
失礼なブロガー(私)に書かれてしまったアブドラザコフのライモンド。
しかし、彼はオペラの全幕の方がぜんっぜん良いではないですか!?
演技もなかなかだし、歌唱でのちょっとした言葉へのニュアンスの込め方が上手いです。
昨シーズンのレリエーほど、低音に強さや迫力があるわけではなく、
それだけにもう少し低音に支えが出るといいな、という気がしなくはありませんが、
しかし、そのどちらかというと柔らかく耳あたりのいい自らの声質を生かした歌唱で、
何よりもライモンドの偽善的な側面を上手く役作りに取り入れていたのが印象に残りました。
その声の質のせいか、シリウスのような電波にのった状態で聴いていると
声のサイズがメトでは物足りないのではないか?という心配を持ちましたが、
声に独特の広がりがあって、ふわーんと充満するというのか、
実際にオペラハウスで聴いていると、声のサイズには全く不安を感じません。

こうしてつい昨シーズンの公演の記憶が新しいうちに、比較できる状態で聴くと、
やっぱり全然違うなあ、と感じるのがオケの演奏。
レヴァイン本人は、昨シーズンのラジオ放送なんかでも一生懸命否定していましたが、
私はやはり彼はあんまりベル・カントを指揮するのは好きではないのではないかな、と思う。
なんともぴりぴりした演奏で、まだこのルチアのような話の内容だからいいですが、
若干違和感を感じたものです。
(まあ、そんな話の内容だからぴりぴりしているんだろう、という議論も可能とはいえ、、。)

マルコ(・アルミリアート)の指揮はその点、どこかにのんびりとした”ぬき”があるのがいい。
この”ぬき”が、ベル・カントの作品には必要だと私は思うのです。
歌唱技巧へのフォーカスが猛烈に高いベル・カント作品で、
オケにまでギリギリと表現をつきつめられると、息苦しくなります。
(というか、音楽がそういう風にもかかれていないので、
そこから無理に何かを絞りだそうとするのは、”深読み”だと思う。)
また、今日の指揮はディテールにも本当に良く注意が払われていて、レヴァインの時には聴けなかった、
美しい旋律が個別の楽器から立ち上ってきた個所がありました。
ただし、オケがまたしてもお疲れモードなのか、ニ幕以降、
注意が散漫になりがちな個所が散見されたのは、とっても残念。

第一幕 第二場

井戸のシーン。ダムロー登場。

私は彼女について、何か非常につかみどころのないようなものを感じることが多く、
今までに、ガラやら、いくつかの違った公演で彼女の生の歌唱を聴いていますが、
”キンキンした耳障りな声だな”と思ったり、そうかと思えば、
”あれ?こんなにどしっとした声だっけ?”と思ったり、
印象が極端に違うことが多く、例えばデッセイなら、今すぐ頭で
彼女の声をシュミレーションすることが出来ますが、
ダムローの場合、はて?どんな声だっけ、、?となってしまうのです。

で、今日の『ルチア』の歌唱で多少その理由が推測できたような気がします。

彼女の歌唱技術は非常に高いものがあり、歌唱技術の全く伴っていない歌手と同じレベルで
話をしているのではない、ということはわかっていただきたいのですが、
極く、高度な話をすれば、彼女の歌は、同じ目的を試みたときに、
100%同じ結果が出る、というところにまで到達していないのではないか?という気がします。
簡単にいえば、声や歌唱のコントロールがまだ100%ではない、ということです。
いえ、100%などという歌手はまずいないので、彼女の実力からすれば潜在的に可能である
高いパーセンテージ(80とか90とか)にまだ達していない、と言い換えましょうか。
これは今回3度シリウスの放送を聴き、そしてこうして生の舞台を聴いて、
同じ個所で、高音がものすごく純度の高い音ですぱーっと綺麗に入るケースと、
かなり強引に声を引っ張り上げているのがわかるケースが見られたことでも明らかです。

彼女はその強引な歌い方でもなんとか聴かせてしまう力があるのが、また厄介なところなのですが、
このあたりのレパートリーを長く歌って行きたければ、いつも前者のような綺麗な音が出る、
という高みにまで鍛錬する必要があります。
それがベル・カントの厳しいところでもあり、だからこそ、それをなしとげた歌手には
最大級の敬意が払われるというものです。

今日の舞台を観た感触では、どんぴしゃ(音程の話ではなく、響きの、声の美しさや純度の話です。)
の美しい音が高音で聴かれる率は50%くらいでしょうか?
しかし、逆を言えば、半分はそんな美しい音が出せるわけで、これはすごいこと。
彼女が精進を積むなら、ベル・カント・ロールを”真に”(ここ、肝心。
最近はベル・カントを歌う技術が不足しているのにこの手の役に手をつける人が多いので、、。)
持ち役に出来る歌手になる可能性はおおいにあると思います。

彼女の歌唱について優れた点をあげるなら、弱音の扱い。
これは意外でした。私は彼女はいつもきんきんきんきんと声を張り上げているイメージがあったのですが、
実は彼女が一番長けているのは、柔らかい音に感情を込めること。
彼女が無理に声を絞りだしていない時には、とても響きがリッチで、
聴いていて本当に心地よい声が出てきます。

アジリタについては、頭の音にアクセントをつけて心持ち音を長めにしているのが
ややエキセントリックに私には聴こえた個所もありましたが、
素早さ、音の粒の均一さ、いずれも卓越したものがあると思います。

この演出では、ルチアが”あたりは沈黙に閉ざされ Regnava nel silenzio"の中で語る、
悲恋の末、井戸に身をなげる女性を亡霊として実際に舞台に登場させ、賛否両論を巻き起こしました。

デッセイがこの亡霊とからむシーンでは、すでにその亡霊が自分の半身であるというような、
つまり、自分の死への”予感”のようなものを強く感じさせる演技でしたが、
ダムローは、まるでその亡霊と対峙するような様子で、
(下の写真では、怪獣と闘うウルトラマンのようでもあります、、)
その後の、”このうえない情熱に心奪われた時 Quando rapito in estasi”も含め、
よりルチアの天真爛漫さにフォーカスした役作りで、デッセイのルチアよりも、
設定年齢が下のような感じがします。



このオペラ、いやほとんど全てのベル・カント・オペラの難しいところは、
”繰り返し”の部分ではないかと思います。
ぐっと気分を盛り上げたのに、また一から(しかも歌詞まで)同じフレーズの繰り返し、、。
両方で同じ歌い方をするのも間抜けで芸がないし、
下手をすると、せっかく盛り上がった観客の心を盛り下げてしまう結果にもなりかねない。

この葛藤を、演出家や演出家助手のアイディアか、それともダムロー自身のアイディアなのかは
定かではありませんが、ユーモラスに演じることで切り抜けていた個所がいくつかありました。

この『ルチア』のような基本的には陰鬱で凄惨な内容のオペラで、
ユーモアを入れるのは、危険な賭けではあるのですが、
一幕二場のエドガルドとの二重唱で、二人が一緒に歌う最後のVerranno a te ~の直前、
まさに旅立たんと背を向けるエドガルドの後ろで、
”どうしよう、どうしよう”とちょっぴりぶりっ子な素振りを見せた後、彼に抱きつき、
誘惑に負けたエドガルドが、(実際には、繰り返しを歌うために、なわけですが)
どんどん背景が朝焼けの色になる中、出発を遅らせるという風に、
この個所を、旅立つ恋人を引き止めたい微笑ましい乙女心として描き、
それがきちんと観客にも伝わっていたのは面白い試みだと思いました。



ユーモアといえば、”このうえない情熱に心奪われた時 Quando rapito in estasi”では、
最後に盛り上がって超絶技巧を繰り広げるダムロー=ルチアに向かって、
マルテンス演じる友人のアリサが各フレーズ毎に、”しーっ!しーっ!”と、
声を静めてくれ!という仕草をするのですが、
これも、エンリーコや家来に知られたら恐ろしい結果になるのを、
アリサが仲介役となってエドガルドとルチアの秘密の逢瀬をとりもっているという状況と、
ルチア役のソプラノが超絶技巧部で声を張り上げなければならないという矛盾を
上手く逆手にとったアイディアだと思います。
昨シーズン、このような演技付けがあった記憶がなく、あったとしても、
全く観客に意図が伝わっていなかった。
今年の”お直し”効果が功を奏した例の一つです。
歌に集中したい人には、”なんだよ、これ?”かもしれませんが、私は面白いと思いました。

順序が後になってしまいましたが、エドガルドを歌うベチャーラは、
シリウスで聴いてイメージしていた以上に声量が豊かでびっくり。
独特のちょっと泣き節が入ったような声で、好き嫌いはわかれるかもしれませんが、
歌唱は本当に安定しています。
欲をいうなら、もう少し繊細さが出てくるともっともっと役に深みが出るとは思います。
彼のこの押しの強い歌唱は、しかし、ある意味ではエドガルドの若さを観客に
認識させる効果も持っているので、さじ加減の難しいところではあります。

そう。ルチアについては、”なんで兄さんにもう少しきちんと順序立てて物を説明できないかな?”とか、
”なんでエドガルドが結婚の許可をもらいにお兄さんのところに行くよ、と言ったときに
同意しなかったんだろう?”とか、
エドガルドについては、”ルチアに、この恋は今のところ秘密にしておいて、と
いわれたくらいで、
なぜに簡単に引き下がる?”とか、
”なんであとでライモンドに神に祝福されていない結婚は結婚とはいわない、とまで
いわれてしまうようなちゃちな二人きりの結婚を井戸端でやってしまうのか?”

これらの疑問は、いつものベル・カント作品特有のご都合主義的という側面もあるにはあるのですが、、
”彼らの若さ”ということで、かなり説明がつくことがわかります。

昨シーズン、ジョルダーニとかフィリアノーティとか、ものわかりのよいエドガルドを
観たせいで、とても新鮮に感じましたが、
このベチャーラのエドガルドは、とにかく若い。
家という不幸な縛りのために結ばれない大人の二人、ではなく、
『ロミオとジュリエット』とも通じる、若さと家ゆえに引き裂かれる二人、なのでした。

今日の公演で非常に見ていて気持ちが良かったのは、ダムローとベチャーラ二人が、
歌唱のみならず、体の動きすらシンクロしてしまうほどに、息が合っていたこと。
舞台での二人を見ているだけで、お互いへのリスペクトが伝わってくる、
こういう舞台を見るのは本当に観客も嬉しいものです。

今日のインターミッションでは、グランド・ティアーに飾られているシャガールの絵を見るために、
平土間から上がってきたのよ、という70代の女性と、その絵の真下でテーブルをシェアして
お茶することになりました。
しかし、残念なことに、絵いっぱいに幕がかかっていて絵が見えません。
”天気の良い日は太陽の光が絵をいためないように、ということで、
カバーがかけられるのだけど、いつもならこの時間には幕が取り払われているし、
今日は曇っているもの。おかしいわ、、、係の人が忘れたのかしらね。”と残念そう。
インターミッションにシャガールの絵をぼーっと眺めることを楽しめるなんて素敵、、と、
今まで、絵に幕がかかっていたことがあったことすら気の付かなかった私などは思ってしまうのでした。

このおばさま、昔は美人だったに違いないと思わせる整った顔立ちに、今でも眼光の鋭さがあるのが格好いい。
黒いセーターにショールをお洒落にこなしていて、お化粧もとっても上手。
ファッション関係の人かな?と思ったら、案の定、”私は昔ファッション関係に身をおいていたのだけど、
最近の人は色物を身につけなくなったわね。ほら、(と、窓の外のテラスにいる人たちを指差し)、
みーんなニュートラルな色の洋服ばかり、、”
私も黒っぽいいでたちだったので、”色物は髪や肌の色との組み合わせも難しいですから、、”と
自己弁護すると、
”そうそう。あのマケイン大統領候補の妻の、、、シンディだったかしら、?
この間、シャトルーズ色(少し黄味のかかった明るい緑色)のスーツを着てたのよ。
シャトルーズなんて、最も身につけるのが難しい色なのに!
髪の色にも肌色とも全く合ってなかったわ。なんであんな服着たのかしらね?”とばっさり。
あまりにおかしかったので、”ではペイリン副大統領候補のファッションセンスについては?”と聞くと、
身の毛もよだつ!という様子で、”やめてちょうだい!!”
”さっき、女性トイレに入ったら、案内係の女性ともう一人の女性客と私の三人しか中にいないのに、
この二人がペイリンの話なんかし出すのよ!やめてほしいわ!!!!本当に!!
彼女の服のセンスも彼女という人も、ただただhorrifying(身の毛もよだつほど恐ろしい)、の一言よ!!”

NYの、特に芸術やファッション業界に身を置く人の間では、圧倒的に民主党への支持が強く、
この強烈なペイリン・アレルギーも決して特別なものではありません。
次の幕の始まりの知らせに、テーブルを離れるおばさまの足元のおぼつかない様子を見て、
ああ、そうだ、70代っておっしゃってたんだわ、、と思い出したくらいで、
お話している間は、全くそれを忘れるお元気さ。素敵すぎます!!

後編に続く>


Diana Damrau (Lucia)
Piotr Beczala (Edgardo)
Vladimir Stoyanov (Lord Enrico Ashton)
Ildar Abdrazakov (Raimondo)
Sean Panikkar (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Ronald Naldi (Normanno)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Mary Zimmerman
Set Design: Daniel Ostling
Costume Design: Mara Blumenfeld
Lighting Design: T. J. Gerckens
Choreography: Daniel Pelzig
Grand Tier D Odd
ON

***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***