<前編より続く>
第ニ幕 第一場
第一幕第二場での表現が結構練れていたのに比べると、
ダムローの演技や歌唱の表現にまだ発展途上中であるような印象を受けたのがこのニ幕と三幕。
完全に狂ってしまった状態で歌うのは第三幕とはいえ、この二幕こそ、
ルチアの精神が徐々に崩壊しつつある途上を表現しなければいけない大切な幕です。
しかも、一幕や三幕のように、ソロでの歌の飛び道具/大技はないので、
ある意味では、ルチア役のソプラノの地の表現力が試される難しい幕といってもいいかもしれません。
兄からの結婚の強要に対する怒りと失望、家を守るのは自分にかかっているというジレンマ、
エドガルドからの便りがなく、自分は本当に愛されていたのか?という焦燥感、
最も信頼するライモンドからあきらめることをすすめられ、泣く泣く至るあきらめの境地、
そして、エドガルドの帰還と何よりも彼からの罵倒によって受ける悲しみ、
昨シーズンのデッセイの歌と演技はこれらの要素が全てきちんと表現されており、
その彼女と比較されるのも気の毒ではありますが、
まずは、もっともっと体の動きに多様性が欲しいと思います。
ダムローの演技は少し時代を感じさせるというのか、基本的には、
腕をぶんぶんふりまわし、舞台を歩きまわる(まあ、時には床に倒れたりもしてくれますが、、。)
という、このワンパターンに集約されます。
同じ腕の動きでも、デッセイの方が無数の引き出しがあり、
その時々の歌唱に合うものを的確に引っぱりだしてくれます。
あそこまで芸達者になれ、というのは酷かもしれませんが、
もう少し、いろいろな手の角度、動かし方、歩き方のテンポや姿勢によって、
観客に伝わるものの違いを研究してほしい。
あと、デッセイとの最大の違いは、演技に大きな動きが入ったときに、
どれほど歌に影響するか、という点。
デッセイの場合、信じられないほど演技が歌に影響しない(というより、
むしろ演技が歌に貢献しているようにすら感じられるときがある。)のに対し、
ダムローの方は、体の動きが微妙に歌にネガティブに反映し、
そこから歌がしばらく微妙に崩れてしまう場合があり、
その後、立ち直るのに少し時間がかかる傾向にあるように思います。
これも前編で書いたことにまた戻っていくのでしょうが、鍛錬を重ねることで、
脆さがどんどん削り落とされていくはずで、これからに大いに期待したいと思います。
エンリーコによるアルトゥーロとの結婚の強制に、なんとか抵抗しようと試みるシーンも、
やはり腕ぶんぶんで、もう少し表現と芝居に陰影がほしい、、。
ここはストヤノフのやや一本調子な歌唱もあって、この公演の中で最もつまらなく感じました。
むしろ、ライモンドとの掛け合いの場面の方が、アブドラザコフの力もあり、面白かった。
よきルチアの相談相手としての善良な側面だけでなく、
彼自身も、利己的な理由から、ルチアにアルトゥーロとの結婚を引き受けさせたがっている、
という事実を強調した役作りで、彼の表現を見ると、
ふと、もしや、ライモンドも、エンリーコとノルマンノとは違うレベルであるとはいえ、
やはり、ルチアを追い詰める運命の歯車の一つではなかったかと思えてきます。
(例えば、本人は、自分の信頼できる人間に手紙を託したが、エドガルドから返事がなかった、
と言っていますが、一体、その”信頼できる人間”とはどれくらい信頼できる人間だったのか?
きちんと調査はしたのか?
そして、その後も、ルチアにアルトゥーロとの結婚を決心させるべく、
さりげなく誘導作戦を行っていることもわかります。)
後に続く婚礼のシーンでも、エドガルドが登場する場面で、
アブドラザコフのライモンドに、ルチアを心配する気持ちと、
自分の密かな計画が頓挫した失望が交錯して見え、
限られた登場場面しかないにしては、最大限に多面的な役作りに成功していたと思います。
このジンマーマンの演出は全体的に嫌いでない私ですが、たった一つだけ、
非常にわずらわしいのは、このルチアとライモンドのシーンで、
二人の歌がまだ終わっていない時点から、婚礼の場への転換が始まってしまうことです。
大きなセットの移動はなく、地面に降りていたシャンデリアにかかっていた白布がとりはらわれ、
するすると天井に上がっていき、召使役のエキストラが、
巻かれて舞台奥に置かれていた絨毯を足で舞台手前に広げていく、という程度のものなのですが、
照明の関係もあり、一気に華やかな部屋に早変わりするので、
客席からどよめきやら、そのアイディアに対して、感嘆するような笑いが起こったりしてしまいます。
そのため、歌が非常に聴こえにくくなってしまうのですが、ここの旋律は実に美しく、
また最後にルチア役のソプラノが高音を出せる場でもあり、
今日も、せっかくダムローが”確率40%”の、ものすごく綺麗な高音を出したというのに、
見れば、観客の注意が歌に十全に向かっていない。こういうのは本当に泣けてきます。
ふと、ジュリー・テイモア演出の『魔笛』が頭をよぎりました。
ショーン・パニカーのアルトゥーロは、第一声を発したときから、
声の美しさでは、個人的に、昨シーズンのコステロとは比べものにならないと思うのですが、
からっとした陽性な声ながら、きちんと役としての責任は果たしている歌唱ではありました。
声質がかなり独特で、将来、役を選ぶタイプの声かもしれません。
ベル・カントはちょっと違うかな、と思います。
ただ、あまりに男前な歌よりは、むしろ、これくらいの方がいいのかもしれません。
なぜならば、コステロのような歌だと、エドガルドがいまいちな場合
(いまいちをジョルダーニやフィリアノーティと読み替えても可。)、
完全にアルトゥーロの方が素敵に思えてしまうから。
まあ、今日の場合は、エドガルドが実力のあるベチャーラなので、
コステロがアルトゥーロでも、問題なかったですが、、。
エドガルドが登場してからのシーンは、あんなに声量のあるベチャーラが、
むしろ、抑えた歌唱をしていたのが印象深かったです。
昨シーズンのテノールたちは、ジョルダーニにしろ、フィリアノーティにしろ、
ここは大興奮!!とばかりに、ルチアを罵倒しまくっていましたが、
ベチャーラのエドガルドは、怒りよりも、”なぜ結婚証明書にサインをしたのか?”
という悲しみの方が強く表現されていて、ルチアを愛する気持ちが一瞬たりとも
消えていないところがせつなさを誘います。
順序が前後しますが、六重唱に合わせて舞台で進行するのが、
これまたこの演出で賛否両論事項の一つとなった、結婚写真の撮影。
今年は昨年よりも、写真屋を演じている男性が芸達者に見えます。
(俳優が違う人なのか、演技を変えただけなのか、は不明。)
アルトゥーロの横に無理矢理ルチアを座らせ、二人の手を握らせた後、
まわりに、アリーサやライモンド、エンリーコを置き、
最後に結婚の祝宴の招待客たちもまわりを取り囲むよう、この写真屋が仕切っていきます。
ライモンドが実に複雑な表情で、写真に加わるのは先に書いたとおりですが、
そのほかにも、エンリーコが、写真屋の手を振り払ったり(エドガルドが登場した苦々しさと、
エンリーコという人の人どなりを表現)、と、非常に細かい演技付けが一人一人に加えられていて、
これも演出の”お直し”の効果だと思われます。
また招待客全体が体を舞台上手を見るように斜めに向かい、しかも立ち位置の配置を
はっきりと舞台の上手半分にしたことで、ルチアの一族と、
下手側に一人で立っているエドガルドとの間の、断絶、亀裂をより明確に表現。
最後にルチアだけを緞帳の手前に残して幕が降りる部分は、
ルチアと周りの世界が断絶されたことを表現しているわけですが(つまり、
ゆっくりと進行していた狂気は、ここではっきりと姿形をとり、
ルチアはとうとう全身、”あちらの世界”の人になってしまうのである。)
この二つがより上手く呼応するようになったと思います。
ただ、六重唱の部分に話を戻すと、何度ルチアの手をアルトゥーロの手にのせても、
すべり落ちて、それを”きーーっ!!”となって直す写真屋のおじさんの姿はユーモラスなのですが、
あの六重唱の美しいメロディーにかぶって客席から笑いが出るというのは、
かなり野心的な演出というのか、私も若干の違和感はあります。
なかには許せない!というベル・カント作品好きの人もいるかもしれません。
なので賛否両論、というわけです。
六重唱の歌唱に関しては、ベチャーラ、ダムロー、アブドラザコフのこの3人はよく声が聴こえてくるのですが、
ストヤノフとパニカーの声は埋もれてしまっており、アリーサ役のモルテンスの高音が汚いのにはがっかり。
第三幕 第一場
せっかくの、廃墟となったエドガルドの旧居城のシーンも、
とにかくストヤノフに凄みとか迫力がないので、
決闘も、これじゃエドガルド余裕で勝っちゃうね、、という感じ。
この場面は、エンリーコが頑張ってくれないと、とことん退屈な場面に成り下がってしまう。
今日はその典型パターン。
第三幕 第二場
男声合唱は、この演目については、昨年よりさらに良くなった気がします。
合唱にのせて歌うライモンドの歌唱がこれまたアブドラザコフ、なかなか上手い。
いよいよ狂乱の場。
ダムローの”狂う”ということへの理解は、やはりデッセイに比べると、
若干表面的な気がします。
このように空中に渡された長い廊下を歩いた後、
”彼の優しい声が Il dolce suono ”の冒頭を上の階で歌い終わった後、
次のフレーズに入る前に、ものすごい勢いで階段を駆け下りて来るのですが、
”間”的に無理があるし(なので、音楽的にもあまり美しくない。)
狂人だから突然に猛烈な行為に出る、という想定なんでしょうが、
狂った人がこんな走り方はしない、と思う。
この表面的な感じは、2006-7年のシーズンのネトレプコの『清教徒』の狂乱の場(これもDVDになってます。)と
少し共通する感じがあります。
狂う、という表現は、見た目を美しくまとめたいという欲を捨てられない限り、
決して本物に到達することは出来ないと私は思う。
それを捨てて、真に迫ったときに、はじめてそこに美しさが生じる、というパラドックスなのであり、
それを捨てられないときには、観客にこそばゆい思いをさせる、という曲者です。
演技の方はかなり改善の余地があると思いますが、
歌の方は、決して悪くなく、特に今シーズンがロール・デビューであることを考えると、
なおさらです。
彼女のイタリア語は、全体的に、言葉の最後の母音がやや短い(もしくはない)傾向にあって、
例えば、静かに!という意味のTaciという言葉も、”ターチ”というよりは、
英語のtouchなんかのchという音に近い感じだったりして、
ディクションが良くないと気になる、という方には気になるかもしれませんが、
しかし、それ以外の歌唱技術そのものは非常にしっかりしたものを持っています。
今半分ほどの確率で出ているあの本当に美しい声を毎回思いのままに出せるようになったなら、
他の”なんちゃってベル・カント”を歌う歌手たちなど目でない存在になれるはずです。
少なくとも、私が今まで彼女の声が金属的だ、と感じていたのは、
その逆の半分の方を聴いていたからで、実はそうでない実に綺麗な声も彼女が持っている、
ということを発見できたのは嬉しかったです。
次のメトの来日公演の『ルチア』では彼女がルチア役に予定されているらしい、という噂ですが、
このメトでのロール・デビューの成功でベル・カントのレパートリーでの自信もついたことでしょうし、
あと数年、彼女が他の歌劇場などでもこの役の経験を積むことで、もっと役作りが進化するはずで、
来日する頃には、かなり磨かれたものを見せてくれるのではないか、と期待しています。
第二幕 第三場
と、ダムローの頑張りもさることながら、しかし、やはり、私にとって、
この第一キャストの『ルチア』での最大の立役者はベチャーラでした。
『ルチア』は主役のソプラノが優れていればよい演奏になるような印象を持たれている節がありますが、
全然そんなことはなくって、そのソプラノとがっぷりと組めるテノールがいてこそ、
作品の良さが引き出されると思います。
そして、まさに今回のキャストがそのいい証だったと思います。
ベチャーラは、恵まれた声が根幹にあるからでしょうが、歌に度胸が感じられるところが良い。
よく言えば、もう少し歌に繊細さが加わるとさらにいいのですが、
しかし、今の彼ですら、太刀打ちできる現役テノールの数はそう数多くはないはずです。
(大体、他に誰でこのエドガルドを観たいか、と質問されたら、
何人の現役テノールの名前を挙げられるでしょう?)
そんな彼の力が思う存分出たのが、”我が祖先の墓よ Tombe degl'avi miei”。
このアリアのように繊細さよりもむしろパッションで勝負できるピースの方が、
彼の持ち味が発揮できるように思います。
今回のエドガルドで、NYのオペラファンの心をがっちり掴んだ感のある彼。
彼の方も、この熱狂ぶりを本当に喜んでくれているような様子でした。
この後も、『オネーギン』でのレンスキーと、『リゴレット』のマントヴァ公と二度もメトに
舞い戻ってくれる予定なので、楽しみです。
Diana Damrau (Lucia)
Piotr Beczala (Edgardo)
Vladimir Stoyanov (Lord Enrico Ashton)
Ildar Abdrazakov (Raimondo)
Sean Panikkar (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Ronald Naldi (Normanno)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Mary Zimmerman
Set Design: Daniel Ostling
Costume Design: Mara Blumenfeld
Lighting Design: T. J. Gerckens
Choreography: Daniel Pelzig
Grand Tier D Odd
ON
***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***
第ニ幕 第一場
第一幕第二場での表現が結構練れていたのに比べると、
ダムローの演技や歌唱の表現にまだ発展途上中であるような印象を受けたのがこのニ幕と三幕。
完全に狂ってしまった状態で歌うのは第三幕とはいえ、この二幕こそ、
ルチアの精神が徐々に崩壊しつつある途上を表現しなければいけない大切な幕です。
しかも、一幕や三幕のように、ソロでの歌の飛び道具/大技はないので、
ある意味では、ルチア役のソプラノの地の表現力が試される難しい幕といってもいいかもしれません。
兄からの結婚の強要に対する怒りと失望、家を守るのは自分にかかっているというジレンマ、
エドガルドからの便りがなく、自分は本当に愛されていたのか?という焦燥感、
最も信頼するライモンドからあきらめることをすすめられ、泣く泣く至るあきらめの境地、
そして、エドガルドの帰還と何よりも彼からの罵倒によって受ける悲しみ、
昨シーズンのデッセイの歌と演技はこれらの要素が全てきちんと表現されており、
その彼女と比較されるのも気の毒ではありますが、
まずは、もっともっと体の動きに多様性が欲しいと思います。
ダムローの演技は少し時代を感じさせるというのか、基本的には、
腕をぶんぶんふりまわし、舞台を歩きまわる(まあ、時には床に倒れたりもしてくれますが、、。)
という、このワンパターンに集約されます。
同じ腕の動きでも、デッセイの方が無数の引き出しがあり、
その時々の歌唱に合うものを的確に引っぱりだしてくれます。
あそこまで芸達者になれ、というのは酷かもしれませんが、
もう少し、いろいろな手の角度、動かし方、歩き方のテンポや姿勢によって、
観客に伝わるものの違いを研究してほしい。
あと、デッセイとの最大の違いは、演技に大きな動きが入ったときに、
どれほど歌に影響するか、という点。
デッセイの場合、信じられないほど演技が歌に影響しない(というより、
むしろ演技が歌に貢献しているようにすら感じられるときがある。)のに対し、
ダムローの方は、体の動きが微妙に歌にネガティブに反映し、
そこから歌がしばらく微妙に崩れてしまう場合があり、
その後、立ち直るのに少し時間がかかる傾向にあるように思います。
これも前編で書いたことにまた戻っていくのでしょうが、鍛錬を重ねることで、
脆さがどんどん削り落とされていくはずで、これからに大いに期待したいと思います。
エンリーコによるアルトゥーロとの結婚の強制に、なんとか抵抗しようと試みるシーンも、
やはり腕ぶんぶんで、もう少し表現と芝居に陰影がほしい、、。
ここはストヤノフのやや一本調子な歌唱もあって、この公演の中で最もつまらなく感じました。
むしろ、ライモンドとの掛け合いの場面の方が、アブドラザコフの力もあり、面白かった。
よきルチアの相談相手としての善良な側面だけでなく、
彼自身も、利己的な理由から、ルチアにアルトゥーロとの結婚を引き受けさせたがっている、
という事実を強調した役作りで、彼の表現を見ると、
ふと、もしや、ライモンドも、エンリーコとノルマンノとは違うレベルであるとはいえ、
やはり、ルチアを追い詰める運命の歯車の一つではなかったかと思えてきます。
(例えば、本人は、自分の信頼できる人間に手紙を託したが、エドガルドから返事がなかった、
と言っていますが、一体、その”信頼できる人間”とはどれくらい信頼できる人間だったのか?
きちんと調査はしたのか?
そして、その後も、ルチアにアルトゥーロとの結婚を決心させるべく、
さりげなく誘導作戦を行っていることもわかります。)
後に続く婚礼のシーンでも、エドガルドが登場する場面で、
アブドラザコフのライモンドに、ルチアを心配する気持ちと、
自分の密かな計画が頓挫した失望が交錯して見え、
限られた登場場面しかないにしては、最大限に多面的な役作りに成功していたと思います。
このジンマーマンの演出は全体的に嫌いでない私ですが、たった一つだけ、
非常にわずらわしいのは、このルチアとライモンドのシーンで、
二人の歌がまだ終わっていない時点から、婚礼の場への転換が始まってしまうことです。
大きなセットの移動はなく、地面に降りていたシャンデリアにかかっていた白布がとりはらわれ、
するすると天井に上がっていき、召使役のエキストラが、
巻かれて舞台奥に置かれていた絨毯を足で舞台手前に広げていく、という程度のものなのですが、
照明の関係もあり、一気に華やかな部屋に早変わりするので、
客席からどよめきやら、そのアイディアに対して、感嘆するような笑いが起こったりしてしまいます。
そのため、歌が非常に聴こえにくくなってしまうのですが、ここの旋律は実に美しく、
また最後にルチア役のソプラノが高音を出せる場でもあり、
今日も、せっかくダムローが”確率40%”の、ものすごく綺麗な高音を出したというのに、
見れば、観客の注意が歌に十全に向かっていない。こういうのは本当に泣けてきます。
ふと、ジュリー・テイモア演出の『魔笛』が頭をよぎりました。
ショーン・パニカーのアルトゥーロは、第一声を発したときから、
声の美しさでは、個人的に、昨シーズンのコステロとは比べものにならないと思うのですが、
からっとした陽性な声ながら、きちんと役としての責任は果たしている歌唱ではありました。
声質がかなり独特で、将来、役を選ぶタイプの声かもしれません。
ベル・カントはちょっと違うかな、と思います。
ただ、あまりに男前な歌よりは、むしろ、これくらいの方がいいのかもしれません。
なぜならば、コステロのような歌だと、エドガルドがいまいちな場合
(いまいちをジョルダーニやフィリアノーティと読み替えても可。)、
完全にアルトゥーロの方が素敵に思えてしまうから。
まあ、今日の場合は、エドガルドが実力のあるベチャーラなので、
コステロがアルトゥーロでも、問題なかったですが、、。
エドガルドが登場してからのシーンは、あんなに声量のあるベチャーラが、
むしろ、抑えた歌唱をしていたのが印象深かったです。
昨シーズンのテノールたちは、ジョルダーニにしろ、フィリアノーティにしろ、
ここは大興奮!!とばかりに、ルチアを罵倒しまくっていましたが、
ベチャーラのエドガルドは、怒りよりも、”なぜ結婚証明書にサインをしたのか?”
という悲しみの方が強く表現されていて、ルチアを愛する気持ちが一瞬たりとも
消えていないところがせつなさを誘います。
順序が前後しますが、六重唱に合わせて舞台で進行するのが、
これまたこの演出で賛否両論事項の一つとなった、結婚写真の撮影。
今年は昨年よりも、写真屋を演じている男性が芸達者に見えます。
(俳優が違う人なのか、演技を変えただけなのか、は不明。)
アルトゥーロの横に無理矢理ルチアを座らせ、二人の手を握らせた後、
まわりに、アリーサやライモンド、エンリーコを置き、
最後に結婚の祝宴の招待客たちもまわりを取り囲むよう、この写真屋が仕切っていきます。
ライモンドが実に複雑な表情で、写真に加わるのは先に書いたとおりですが、
そのほかにも、エンリーコが、写真屋の手を振り払ったり(エドガルドが登場した苦々しさと、
エンリーコという人の人どなりを表現)、と、非常に細かい演技付けが一人一人に加えられていて、
これも演出の”お直し”の効果だと思われます。
また招待客全体が体を舞台上手を見るように斜めに向かい、しかも立ち位置の配置を
はっきりと舞台の上手半分にしたことで、ルチアの一族と、
下手側に一人で立っているエドガルドとの間の、断絶、亀裂をより明確に表現。
最後にルチアだけを緞帳の手前に残して幕が降りる部分は、
ルチアと周りの世界が断絶されたことを表現しているわけですが(つまり、
ゆっくりと進行していた狂気は、ここではっきりと姿形をとり、
ルチアはとうとう全身、”あちらの世界”の人になってしまうのである。)
この二つがより上手く呼応するようになったと思います。
ただ、六重唱の部分に話を戻すと、何度ルチアの手をアルトゥーロの手にのせても、
すべり落ちて、それを”きーーっ!!”となって直す写真屋のおじさんの姿はユーモラスなのですが、
あの六重唱の美しいメロディーにかぶって客席から笑いが出るというのは、
かなり野心的な演出というのか、私も若干の違和感はあります。
なかには許せない!というベル・カント作品好きの人もいるかもしれません。
なので賛否両論、というわけです。
六重唱の歌唱に関しては、ベチャーラ、ダムロー、アブドラザコフのこの3人はよく声が聴こえてくるのですが、
ストヤノフとパニカーの声は埋もれてしまっており、アリーサ役のモルテンスの高音が汚いのにはがっかり。
第三幕 第一場
せっかくの、廃墟となったエドガルドの旧居城のシーンも、
とにかくストヤノフに凄みとか迫力がないので、
決闘も、これじゃエドガルド余裕で勝っちゃうね、、という感じ。
この場面は、エンリーコが頑張ってくれないと、とことん退屈な場面に成り下がってしまう。
今日はその典型パターン。
第三幕 第二場
男声合唱は、この演目については、昨年よりさらに良くなった気がします。
合唱にのせて歌うライモンドの歌唱がこれまたアブドラザコフ、なかなか上手い。
いよいよ狂乱の場。
ダムローの”狂う”ということへの理解は、やはりデッセイに比べると、
若干表面的な気がします。
このように空中に渡された長い廊下を歩いた後、
”彼の優しい声が Il dolce suono ”の冒頭を上の階で歌い終わった後、
次のフレーズに入る前に、ものすごい勢いで階段を駆け下りて来るのですが、
”間”的に無理があるし(なので、音楽的にもあまり美しくない。)
狂人だから突然に猛烈な行為に出る、という想定なんでしょうが、
狂った人がこんな走り方はしない、と思う。
この表面的な感じは、2006-7年のシーズンのネトレプコの『清教徒』の狂乱の場(これもDVDになってます。)と
少し共通する感じがあります。
狂う、という表現は、見た目を美しくまとめたいという欲を捨てられない限り、
決して本物に到達することは出来ないと私は思う。
それを捨てて、真に迫ったときに、はじめてそこに美しさが生じる、というパラドックスなのであり、
それを捨てられないときには、観客にこそばゆい思いをさせる、という曲者です。
演技の方はかなり改善の余地があると思いますが、
歌の方は、決して悪くなく、特に今シーズンがロール・デビューであることを考えると、
なおさらです。
彼女のイタリア語は、全体的に、言葉の最後の母音がやや短い(もしくはない)傾向にあって、
例えば、静かに!という意味のTaciという言葉も、”ターチ”というよりは、
英語のtouchなんかのchという音に近い感じだったりして、
ディクションが良くないと気になる、という方には気になるかもしれませんが、
しかし、それ以外の歌唱技術そのものは非常にしっかりしたものを持っています。
今半分ほどの確率で出ているあの本当に美しい声を毎回思いのままに出せるようになったなら、
他の”なんちゃってベル・カント”を歌う歌手たちなど目でない存在になれるはずです。
少なくとも、私が今まで彼女の声が金属的だ、と感じていたのは、
その逆の半分の方を聴いていたからで、実はそうでない実に綺麗な声も彼女が持っている、
ということを発見できたのは嬉しかったです。
次のメトの来日公演の『ルチア』では彼女がルチア役に予定されているらしい、という噂ですが、
このメトでのロール・デビューの成功でベル・カントのレパートリーでの自信もついたことでしょうし、
あと数年、彼女が他の歌劇場などでもこの役の経験を積むことで、もっと役作りが進化するはずで、
来日する頃には、かなり磨かれたものを見せてくれるのではないか、と期待しています。
第二幕 第三場
と、ダムローの頑張りもさることながら、しかし、やはり、私にとって、
この第一キャストの『ルチア』での最大の立役者はベチャーラでした。
『ルチア』は主役のソプラノが優れていればよい演奏になるような印象を持たれている節がありますが、
全然そんなことはなくって、そのソプラノとがっぷりと組めるテノールがいてこそ、
作品の良さが引き出されると思います。
そして、まさに今回のキャストがそのいい証だったと思います。
ベチャーラは、恵まれた声が根幹にあるからでしょうが、歌に度胸が感じられるところが良い。
よく言えば、もう少し歌に繊細さが加わるとさらにいいのですが、
しかし、今の彼ですら、太刀打ちできる現役テノールの数はそう数多くはないはずです。
(大体、他に誰でこのエドガルドを観たいか、と質問されたら、
何人の現役テノールの名前を挙げられるでしょう?)
そんな彼の力が思う存分出たのが、”我が祖先の墓よ Tombe degl'avi miei”。
このアリアのように繊細さよりもむしろパッションで勝負できるピースの方が、
彼の持ち味が発揮できるように思います。
今回のエドガルドで、NYのオペラファンの心をがっちり掴んだ感のある彼。
彼の方も、この熱狂ぶりを本当に喜んでくれているような様子でした。
この後も、『オネーギン』でのレンスキーと、『リゴレット』のマントヴァ公と二度もメトに
舞い戻ってくれる予定なので、楽しみです。
Diana Damrau (Lucia)
Piotr Beczala (Edgardo)
Vladimir Stoyanov (Lord Enrico Ashton)
Ildar Abdrazakov (Raimondo)
Sean Panikkar (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Ronald Naldi (Normanno)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Mary Zimmerman
Set Design: Daniel Ostling
Costume Design: Mara Blumenfeld
Lighting Design: T. J. Gerckens
Choreography: Daniel Pelzig
Grand Tier D Odd
ON
***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***