マックンのメモ日記

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「ごん狐」の舞台の地にある彼岸花(曼珠沙華)!

2012-10-07 22:48:59 | 自然・環境問題・古生物
「ごん狐」(ごんぎつね)は、新美南吉作の児童文学です。南吉の代表作で、初出は「赤い鳥」1932年1月号。作者の死の直後に刊行された童話集『花のき村と盗人たち』に収載されたものだそうです。南吉の出身地である愛知県知多郡半田町は岩滑(やなべ)地区の矢勝川や、隣の阿久比町にある権現山を舞台に書かれたと言われています。筆者が村の老人から聞いた話という形をとっており、「城」や「お殿様」、「お歯黒」という言葉が出てくることから、江戸時代から明治ごろが舞台となっています。

物語のあらすじは村の茂平からの伝聞という形式になっています。て、両親のいない小狐「ごん」は村へ出てきては悪戯ばかりして村人を困らせていました。ある日「ごん」は兵十が川で魚を捕っているのを見つけ、兵十が捕った魚やウナギを逃すという悪戯をしてしまいます。それから十日ほど後、兵十の母親の葬列を見た「ごん」は、あのとき逃がしたウナギは兵十が病気の母親のために用意していたものだと悟り、後悔するのです。

母を失った兵十に同情した「ごん」は、ウナギを逃がした償いのつもりで、鰯(いわし)を盗んで兵十の家に投げ込みます。翌日、鰮屋に鰯泥棒と間違われて兵十が殴られていた事を知り、「ごん」は反省します。それから「ごん」は自分の力で償いをはじめたのです。しかし兵十は毎日届けられる栗や松茸の意味が判らず、加助の助言で神様のおかげだと思い込むようになってしまう。それを聞いて「ごん」は寂しくなるのです。

その翌日、「ごん」が家に忍び込んだ気配に気づいた兵十は、またいたずらに来たのだと思い、「ごん」を撃ってしまいます。兵十が「ごん」に駆け寄ると土間に、栗が固めて置いてあったのが目に留まり、はじめて、栗や松茸が「ごん」の侘びだったことに気づいたのです。「ごん、おまえ(おまい)だったのか。いつも、栗をくれたのは。」と問いかける兵十に、「ごん」は目を閉じたままうなずく。兵十の手から火縄銃が落ち、筒口から青い煙が出ているところで物語が終わります。

南吉が、この物語を執筆したのは、わずか17歳(1930年)の時だったそうです。この物語は、彼が幼少のころに聞かされた口伝を基に創作されたもので、南吉は4歳で母を亡くしており、孤独でいたずら好きな狐の話に深く影響されたとされています。そして口伝に登場する権は、「兵十の母の葬式を見て、悪さをしなくなりました」というところで終わり、撃たれておらず、それ以降の展開を南吉が創作したのではないかとも言われています。「ごん」が目を閉じたままうなずく、有名なラストシーンの草稿は「権狐はぐったりなったまま、うれしくなりました。」であり、登場人物の心情に立ち入った編集もされているそうです。出版段階で編集されたのですが、「ごん狐」は、元猟師の口伝として存在したオリジナルの「権狐」、新美南吉が口伝を物語にまとめた草稿の「権狐」及び、南吉の「権狐」を鈴木三重吉が子供用として編集したのが「ごん狐」であり、それぞれ存在するそうです。 国語の教材や絵本で一般に親しまれているのは「ごん狐」だそうです。

新美南吉の草稿「権狐」は文学的な別作品として、大日本図書より「校定新美南吉全集」第10巻に収録され、一般に公開されています。なお、小学校国語教科書の教材の定番ともいえる作品だそうで、1956年、大日本図書の国語教科書に採用されたのが最初だそうです。「ごん狐」の話って知っていました?私は今回初めてこの話を知ったのでした。

この新美南吉記念館のあるところの川の土手に、今、彼岸花、別名・曼珠沙華が満開になっていて大勢の人が訪れていました。土手の南斜面が赤色でいっぱいになって染まっていました。これは新見何吉の話とは関係はなく、戦争で多くの戦友が亡くなったのを供養する意味で元兵士の人が植えたのだそうです。今では半田の名所のようになっていて多くの人が訪れ、ウォーキングコースになっており、そのすぐそばに新美南吉記念館があります。


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