明治2年(1868)5月15日(旧暦) 西暦では1868年7月4日
戊辰戦争(戊辰の役)のうち、上野戦争。この日、彰義隊は壊滅した。
我が、かぶとんブログ、2年目に入ってから少したった。
思うに、内容の巧拙はいちおう脇においといて、興味・関心事をできるだけ取り上げてきた。再度、ブログにのせたい題材が(とくに季節ものは)2度目として時々でてくると思う。そのときは、もう少しアカデミック(風)(?)にいきたいのだけれど、そうもいかないかな。
で、彰義隊のこと。
前回は杉浦日名子(さん)の『合葬』にからめて、すこし載せた。今回は区教育委員会の説明文をしっかりと読んだうえで、いちおうの基礎はおさえた(つもりの)ところから先へすすめたい。
彰義隊の墓
十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おがわ おきさと)らは、慶応4年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
彰義隊奮戦之図(上の案内板の左側部分)
小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられている。
彰義隊の墓(台東区有形文化財)
台東区上野公園一番
江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸隠居後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏麿らによって当地で荼毘に付された。
正面の小墓石は、明治2年(一八六九)寛永寺支院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死の墓」の字を大きく刻む。
平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
台東区教育委員会
〇小川興郷(おがわ おきさと)
〇南千住円通寺 (箕輪(三ノ輪)円通寺)
〇寒松院・護国院
参考 HP 『上野の杜から―しのばず自然観察会&彰義隊』のうち、「上野彰義隊」
じっくり読ませていただきました。彰義隊・小川(椙太)興郷のご子孫の方々が、今日にいたるまで、ずっと彰義隊の顕彰につとめ、墓所の管理をされてきたのですね。今は都の管理ということですが、頭がさがる思いです。