2010年12月
池上市民大学 第3回講座、受講してきました。
13時 「長栄の間」 集合。
本門寺客殿の「本院総受付」より入る。
今回は、すこし早めに行きました。受講者名簿に記入するさい、ふと見ると、記帳している
人たちの達筆なこと、内心びっくり。これは丁寧に書かなければ、とやや身がひきしまる。
プロジェクタにノートパソコン、講師席の横にはスクリーン。よく見えるところでと、座った席
は一番前。(になってしまった。)
担当の吉田住職(永寿院)より開講のご挨拶。
そのあとに読経と唱題。
今日は小冊子『おつとめ要典』が配られたので、それを見ながらでした。
大田観光協会事務局長・栗原洋三さんの講義(講演)。
『大田区の観光まちづくり ''現状とこれから'' 』
最近は、この手の話は聞いてないし、区報もさっと見るだけだったので、じっくり聞かせて
もらい、たいへん勉強になりました。
国際空港・羽田と地元・大田区の結びつきを、他へどうアピールしていくかが、いちばんの
課題と受けとめました。
個人的には「馬池洗(まいせん)まちあるき」がもっともっとポピュラーになるといいですね。
霊宝殿(霊寶殿)の拝観。
安藤学芸員からの解説つきです。語り口が、なんともいいです。
日蓮聖人の御遺文・自筆稿本は身延時代のものが大半で、鎌倉在住時のものは数が
少ない。書風は晩年の大胆な筆使いが印象に強いが、当初はやや小さめの字をきっちり
と書いていた、とのことです。
もうひとつ、覚えておくべき特徴を話されたのですが、どうも出てこない。天台〇〇日蓮(?)
確認ができたら、追加訂正をいれます。
万両塚の参拝。(芳心院殿妙英日春大姉墓所)
ボランティア・ガイドさん(女性受講生、了解なしなのでYさん。)からの説明つきでした。
千両、万両と、現代の貨幣価値との比較の話もありましたね。
現地では言葉をはさみませんでしたが、「江戸検・かぶとん」基準は全く大雑把ですが、
1両=10万円(もしくはインフレ時、20万円です。)ゆえに、万両とは、10億円、もしくは
20億円です。
資料としていただいた「池上永寿院 芳心院殿妙英日春大姉墓所 万両塚」のパンフレット
は秀逸です。その中で「万両塚をめぐる系図」は、日頃わかったようでよくわからない
芳心院の立ち位置がはっきりとわかります。
芳心院(茶々姫) 1631(寛永8)-1708(宝永5)(78)
鳥取池田家*初代藩主・池田光仲の正室
父親 徳川頼宣(家康 10子) 紀州徳川家初代
母親 中川氏
養母 瑤林院(墓地・池上本門寺) 父・加藤清正 母・正応院(墓地・池上本門寺)
祖父 徳川家康
祖母 養珠院(お万の方)(墓地・池上本門寺) 家康側室
ゆえに徳川光圀(水戸徳川家二代・水戸黄門)は従兄妹である。
そして八代将軍・徳川吉宗(前・紀州徳川家五代)は甥っ子である。
徳川家の菩提寺は上野・寛永寺と芝・増上寺です。
吉宗が池上本門寺を公式参詣することはないのだが、鷹狩りと称して荏原へやって来て
は、池上に立ちよっていた。(霊宝殿学芸員・金子さんの談話)
私人として曾祖母・養珠院、祖母・瑤林院、叔母・芳心院の墓参りをしたのだろうか。
そして吉宗の絵の師匠は、狩野派・狩野常信であり、のちに常信の孫・古信には絵の
手ほどきをしていた、とのこと。墓地はいづれも池上本門寺です。
堤方権現台古墳と弥生時代住居跡の見学。
「池上永寿院」の拝観、堂内見学および講義(お話)。
クラス担任の吉田住職、ここ池上永寿院のご住職です。万両塚をお守りしているお寺さん
ですね。万両塚の整備、古墳と古代遺跡の整備についてのおさらいがありました。
そして最後に一言、つけ加えます。手渡されたパンフレットについて。
『そうだ! お寺に行こう お坊さんと共に学ぶ 仏教ひとまわりツアー』
一月おきに、各宗派、日蓮宗・曹洞宗・浄土宗・浄土真宗・真言宗とお寺めぐりをする
ツアーです。これって大きな心、寛大な心を持ってないと実現できない企画だなー、と
内心、おおいに感銘したのでありました。
16時 本日、終了。
* 鳥取池田家 因幡・伯耆国32万5千石
池田輝政と徳川家康の二女・督姫(良正院)の子、忠雄(ただかつ)の家系。
外様大名であるが松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格である。
幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄。
藩は、敬幕・尊王から尊皇派と親幕派の対立となり、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方についた。
[番外編]
映画『桜田門外ノ変』 関鉄之助について
関鉄之助 1824(文政7) - 1862(文久2)(39)
勤皇の志士(水戸藩改革派)。水戸藩脱藩浪士。藩在籍時は北部奉行所与力。北部務方。
井伊直弼襲撃(安政7年(1860))の実行部隊、指揮者。
襲撃実行前の安政5年(1858)、井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、鳥取藩にも遊説で赴いている。そして襲撃実行後の逃亡中、再度、鳥取藩を訪ねている(が、受け入れられず)。後、捕らえられて、日本橋小伝馬町において斬首さる。墓所、常盤共有墓地(茨城県水戸市)および小塚原回向院。維新後、贈従四位。
参考 関鉄之助 - Wikipedia
池上市民大学 第3回講座、受講してきました。
13時 「長栄の間」 集合。
本門寺客殿の「本院総受付」より入る。
今回は、すこし早めに行きました。受講者名簿に記入するさい、ふと見ると、記帳している
人たちの達筆なこと、内心びっくり。これは丁寧に書かなければ、とやや身がひきしまる。
プロジェクタにノートパソコン、講師席の横にはスクリーン。よく見えるところでと、座った席
は一番前。(になってしまった。)
担当の吉田住職(永寿院)より開講のご挨拶。
そのあとに読経と唱題。
今日は小冊子『おつとめ要典』が配られたので、それを見ながらでした。
大田観光協会事務局長・栗原洋三さんの講義(講演)。
『大田区の観光まちづくり ''現状とこれから'' 』
最近は、この手の話は聞いてないし、区報もさっと見るだけだったので、じっくり聞かせて
もらい、たいへん勉強になりました。
国際空港・羽田と地元・大田区の結びつきを、他へどうアピールしていくかが、いちばんの
課題と受けとめました。
個人的には「馬池洗(まいせん)まちあるき」がもっともっとポピュラーになるといいですね。
霊宝殿(霊寶殿)の拝観。
安藤学芸員からの解説つきです。語り口が、なんともいいです。
日蓮聖人の御遺文・自筆稿本は身延時代のものが大半で、鎌倉在住時のものは数が
少ない。書風は晩年の大胆な筆使いが印象に強いが、当初はやや小さめの字をきっちり
と書いていた、とのことです。
もうひとつ、覚えておくべき特徴を話されたのですが、どうも出てこない。天台〇〇日蓮(?)
確認ができたら、追加訂正をいれます。
万両塚の参拝。(芳心院殿妙英日春大姉墓所)
ボランティア・ガイドさん(女性受講生、了解なしなのでYさん。)からの説明つきでした。
千両、万両と、現代の貨幣価値との比較の話もありましたね。
現地では言葉をはさみませんでしたが、「江戸検・かぶとん」基準は全く大雑把ですが、
1両=10万円(もしくはインフレ時、20万円です。)ゆえに、万両とは、10億円、もしくは
20億円です。
資料としていただいた「池上永寿院 芳心院殿妙英日春大姉墓所 万両塚」のパンフレット
は秀逸です。その中で「万両塚をめぐる系図」は、日頃わかったようでよくわからない
芳心院の立ち位置がはっきりとわかります。
芳心院(茶々姫) 1631(寛永8)-1708(宝永5)(78)
鳥取池田家*初代藩主・池田光仲の正室
父親 徳川頼宣(家康 10子) 紀州徳川家初代
母親 中川氏
養母 瑤林院(墓地・池上本門寺) 父・加藤清正 母・正応院(墓地・池上本門寺)
祖父 徳川家康
祖母 養珠院(お万の方)(墓地・池上本門寺) 家康側室
ゆえに徳川光圀(水戸徳川家二代・水戸黄門)は従兄妹である。
そして八代将軍・徳川吉宗(前・紀州徳川家五代)は甥っ子である。
徳川家の菩提寺は上野・寛永寺と芝・増上寺です。
吉宗が池上本門寺を公式参詣することはないのだが、鷹狩りと称して荏原へやって来て
は、池上に立ちよっていた。(霊宝殿学芸員・金子さんの談話)
私人として曾祖母・養珠院、祖母・瑤林院、叔母・芳心院の墓参りをしたのだろうか。
そして吉宗の絵の師匠は、狩野派・狩野常信であり、のちに常信の孫・古信には絵の
手ほどきをしていた、とのこと。墓地はいづれも池上本門寺です。
堤方権現台古墳と弥生時代住居跡の見学。
「池上永寿院」の拝観、堂内見学および講義(お話)。
クラス担任の吉田住職、ここ池上永寿院のご住職です。万両塚をお守りしているお寺さん
ですね。万両塚の整備、古墳と古代遺跡の整備についてのおさらいがありました。
そして最後に一言、つけ加えます。手渡されたパンフレットについて。
『そうだ! お寺に行こう お坊さんと共に学ぶ 仏教ひとまわりツアー』
一月おきに、各宗派、日蓮宗・曹洞宗・浄土宗・浄土真宗・真言宗とお寺めぐりをする
ツアーです。これって大きな心、寛大な心を持ってないと実現できない企画だなー、と
内心、おおいに感銘したのでありました。
16時 本日、終了。
* 鳥取池田家 因幡・伯耆国32万5千石
池田輝政と徳川家康の二女・督姫(良正院)の子、忠雄(ただかつ)の家系。
外様大名であるが松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格である。
幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄。
藩は、敬幕・尊王から尊皇派と親幕派の対立となり、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方についた。
[番外編]
映画『桜田門外ノ変』 関鉄之助について
関鉄之助 1824(文政7) - 1862(文久2)(39)
勤皇の志士(水戸藩改革派)。水戸藩脱藩浪士。藩在籍時は北部奉行所与力。北部務方。
井伊直弼襲撃(安政7年(1860))の実行部隊、指揮者。
襲撃実行前の安政5年(1858)、井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、鳥取藩にも遊説で赴いている。そして襲撃実行後の逃亡中、再度、鳥取藩を訪ねている(が、受け入れられず)。後、捕らえられて、日本橋小伝馬町において斬首さる。墓所、常盤共有墓地(茨城県水戸市)および小塚原回向院。維新後、贈従四位。
参考 関鉄之助 - Wikipedia