かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

池上市民大学 5期・第3回講座 受講しました。

2010-12-22 | 池上本門寺・池上市民大学
2010年12月
池上市民大学 第3回講座、受講してきました。

13時 「長栄の間」 集合。
 本門寺客殿の「本院総受付」より入る。
 今回は、すこし早めに行きました。受講者名簿に記入するさい、ふと見ると、記帳している
 人たちの達筆なこと、内心びっくり。これは丁寧に書かなければ、とやや身がひきしまる。
 プロジェクタにノートパソコン、講師席の横にはスクリーン。よく見えるところでと、座った席
 は一番前。(になってしまった。)

担当の吉田住職(永寿院)より開講のご挨拶。
 そのあとに読経と唱題。
 今日は小冊子『おつとめ要典』が配られたので、それを見ながらでした。

大田観光協会事務局長・栗原洋三さんの講義(講演)。
 『大田区の観光まちづくり ''現状とこれから'' 』
 最近は、この手の話は聞いてないし、区報もさっと見るだけだったので、じっくり聞かせて
 もらい、たいへん勉強になりました。
 国際空港・羽田と地元・大田区の結びつきを、他へどうアピールしていくかが、いちばんの
 課題と受けとめました。
 個人的には「馬池洗(まいせん)まちあるき」がもっともっとポピュラーになるといいですね。

霊宝殿(霊寶殿)の拝観。
 安藤学芸員からの解説つきです。語り口が、なんともいいです。
 日蓮聖人の御遺文・自筆稿本は身延時代のものが大半で、鎌倉在住時のものは数が
 少ない。書風は晩年の大胆な筆使いが印象に強いが、当初はやや小さめの字をきっちり
 と書いていた、とのことです。
 もうひとつ、覚えておくべき特徴を話されたのですが、どうも出てこない。天台〇〇日蓮(?)
 確認ができたら、追加訂正をいれます。

万両塚の参拝。(芳心院殿妙英日春大姉墓所)
 ボランティア・ガイドさん(女性受講生、了解なしなのでYさん。)からの説明つきでした。
 千両、万両と、現代の貨幣価値との比較の話もありましたね。
 現地では言葉をはさみませんでしたが、「江戸検・かぶとん」基準は全く大雑把ですが、
 1両=10万円(もしくはインフレ時、20万円です。)ゆえに、万両とは、10億円、もしくは
 20億円です。
 資料としていただいた「池上永寿院 芳心院殿妙英日春大姉墓所 万両塚」のパンフレット
 は秀逸です。その中で「万両塚をめぐる系図」は、日頃わかったようでよくわからない
 芳心院の立ち位置がはっきりとわかります。
  芳心院(茶々姫) 1631(寛永8)-1708(宝永5)(78)
    鳥取池田家*初代藩主・池田光仲の正室
  父親 徳川頼宣(家康 10子) 紀州徳川家初代
  母親 中川氏
  養母 瑤林院(墓地・池上本門寺) 父・加藤清正 母・正応院(墓地・池上本門寺)
  祖父 徳川家康
  祖母 養珠院(お万の方)(墓地・池上本門寺) 家康側室
   ゆえに徳川光圀(水戸徳川家二代・水戸黄門)は従兄妹である。
   そして八代将軍・徳川吉宗(前・紀州徳川家五代)は甥っ子である。
 徳川家の菩提寺は上野・寛永寺と芝・増上寺です。
 吉宗が池上本門寺を公式参詣することはないのだが、鷹狩りと称して荏原へやって来て
 は、池上に立ちよっていた。(霊宝殿学芸員・金子さんの談話)
 私人として曾祖母・養珠院、祖母・瑤林院、叔母・芳心院の墓参りをしたのだろうか。
 そして吉宗の絵の師匠は、狩野派・狩野常信であり、のちに常信の孫・古信には絵の
 手ほどきをしていた、とのこと。墓地はいづれも池上本門寺です。

堤方権現台古墳と弥生時代住居跡の見学。

「池上永寿院」の拝観、堂内見学および講義(お話)。
 クラス担任の吉田住職、ここ池上永寿院のご住職です。万両塚をお守りしているお寺さん
 ですね。万両塚の整備、古墳と古代遺跡の整備についてのおさらいがありました。
 そして最後に一言、つけ加えます。手渡されたパンフレットについて。
 『そうだ! お寺に行こう お坊さんと共に学ぶ 仏教ひとまわりツアー』
 一月おきに、各宗派、日蓮宗・曹洞宗・浄土宗・浄土真宗・真言宗とお寺めぐりをする
 ツアーです。これって大きな心、寛大な心を持ってないと実現できない企画だなー、と
 内心、おおいに感銘したのでありました。

16時 本日、終了。


* 鳥取池田家 因幡・伯耆国32万5千石
池田輝政と徳川家康の二女・督姫(良正院)の子、忠雄(ただかつ)の家系。
外様大名であるが松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格である。
幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄。
藩は、敬幕・尊王から尊皇派と親幕派の対立となり、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方についた。
[番外編]
映画『桜田門外ノ変』 関鉄之助について
関鉄之助 1824(文政7) - 1862(文久2)(39)
勤皇の志士(水戸藩改革派)。水戸藩脱藩浪士。藩在籍時は北部奉行所与力。北部務方。
井伊直弼襲撃(安政7年(1860))の実行部隊、指揮者。
襲撃実行前の安政5年(1858)、井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、鳥取藩にも遊説で赴いている。そして襲撃実行後の逃亡中、再度、鳥取藩を訪ねている(が、受け入れられず)。後、捕らえられて、日本橋小伝馬町において斬首さる。墓所、常盤共有墓地(茨城県水戸市)および小塚原回向院。維新後、贈従四位。

参考 関鉄之助 - Wikipedia



第5回江戸文化歴史検定の採点結果、届く。

2010-12-18 | 江戸検定
今日は、朝一番から馬込(大田区の)の高台からの、富士の眺望、よさそうな所巡り。
その足で、ゴルフ練習場へ行って、明日の競技会のための最終調整。
一度、家にもどり、午後一からの「池上市民大学」の講座、3回目の出席。
(今回、紹介したいこと江戸関連で学習し直したいこと等々いろいろあった。後日)
4時、池上本門寺の境内に出ると、風の冷たいこと。早く帰ろ、のところを本門寺からの夕焼けの富士を撮りたい!! と寒いなか、粘る。
身体が冷えてしまい、門前の蕎麦屋で酒の熱燗と天ぷらそば。温まる。

そうして家に戻ると(前置きが長くなりました。)、ポストには「江戸文化歴史検定」と印字された封書が入っていた。そうだ、今の時期だった、と一瞬にして苦い記憶がよみがえったのであります。
さて1級の中身。(いまいち、気がのらぬ。自己採点済みだもんね。)
得点の話は勘弁してね、という60点台。不適切問題が1問あって、1点増えたが大勢に
影響なしです。そして平均点は58.91点。
この封書の採点結果表からは、1級に合格したのは何名かわかりません。
江戸検公式ホームページでの発表待ちです。

  2010.12.20 追加
  そろそろ受検データ載ったかな、と江戸検ホームページをみると、出てました。
  数字を転載してみます。
   総受験者数  3,377名  内、1級受験者数 946名
   1級合格者   15名 (1.5%)
   準1級合格者 116名 (12.8%)
  やはり、うーん、と唸るばかりです。
  それにしても、1級合格の15名の方はすごいですね。


気を取りなおして、来年に思いをはせよう!?
第6回 今年のお題
『江戸名所~来日外国人を驚かせた庭園都市のすべて~』
どんな設問になるのか想像もつかないですね。


ちなみに不適切問題、とは。
28問 8代将軍吉宗 江戸城吹上の桜を移植したことに始まるとされる場所は、どこ?
  い)王子飛鳥山  ろ)品川御殿山  は)隅田川墨堤  に)中野花園

隅田川墨堤を正解としたが、飛鳥山も正解。結局、全員正解の措置となった。


    

東京タワーと富士山

2010-12-18 | 東京タワー
東京タワーは飽きない、と前にいったが、われながら感心するほどだ。
朝、起きたのはそれほど早くなかったのだが、天気はまあまあ、すぐ支度をすれば東京タワーの開場時間、9時にちょうどよい。で、出かけることにした。もちろん展望台からの、朝方の富士を見たいためだ。

あこがれの富士山。(拡大で強調しすぎかな。)


こちらは、実際の見た目に近い。(画像拡大あり)








どうしてもスカイツリーは外せない。



東京 芝「とうふ屋うかい」 この辺りで東京タワーを撮る。













芝大門


増上寺三門と東京タワー






『幕末維新懐古談』 高村光雲 2

2010-12-17 | 幕末
2. 私の子供の時のはなし

〇略歴(年明けまで) (数字)は数え年。
1852 嘉永5年2月18日(1852.3.8) 町人兼吉の子として、下谷源空寺門前(のちの下谷・北清島町*)に生まれる。本名、光蔵(みつぞう)。のちの徒弟時代、幸吉と呼ばれていた。
 1853 嘉永6年 米国の使節ペルリ(ペリー)が浦賀に来た。
 1854 安政1年 安政の大地震。
 1856 安政3年 大暴風。
 1860 万延元年 桜田の変。 (光雲、その時分の事をおぼろげに覚えているとの事。)
1861(10) 文久元年 母の里方、埼玉の東大寺へ奉公の下拵えに行く。(1年間)
1862(11) 文久2年 江戸に戻る。
 親類の奥州金華山の住職から寺にほしいという話がくる。
「父は無頓着で、当人が行くといえば行くも好かろうといっていましたが、母は、たった一人の男の子を行く末僧侶にするは可愛そうだといって不承知であったので、この話は中止となった。」
1863(12) 文久3年
 十二歳。当時の男の子は、十二になると奉公に出るのが普通であった。
「私は、生れつきか、鋸や鑿などをもって木片を切ったり、削ったりすることが好きで、(中略)親たちもそれに目を附けたか、この児は大工にするがよろしかろうということになった。」
「大工というものは職人の王としてあるし、職としても立派なものであるから、腕次第でドンナ出世もできよう、好きこそ物の上手で、俺に似て器用でもあるから、行く行くは相当の棟梁にもなれよう・・・」ということで、親類の大工の棟梁の家へ奉公に行くことになった。

3. 安床の「安さん」の事

で、奉公に行く前日に、髪を結ってもらおうと町内の「安床」という床屋に行った。
「安床は、大工は、職人の王なれば、大工になるは好かろうと大変賛成しておりましたが」・・・
人から頼まれていたことを思い出す。
「その人は、高村東雲という方だが、久方ぶりに此店へお出でなすって、安さん、誰か一人好い弟子を欲しいんだが、心当たりはあるまいか、一つ世話をしてくれないかと頼んで行ったんだ。」
安さんの話をいろいろと聞いて、光蔵、その気になった。
『それじゃア小父さん、私は大工よりも彫刻師になるよ』
その夜、安床は父・兼吉を訪ね、それまでのいきさつを話し、兼吉も、彫刻の方がよかろうということになった。
そして翌日には安床は光蔵をともない東雲師匠宅へ出むいた。
 高村東雲。須原屋茂兵衛出版の『江戸名所図会』を専門に摺った奥村籐兵衛の倅、
 籐次郎。光雲の生まれた長屋と同じ下谷源空寺門前の出。
光蔵(のちの光雲)の一生の運命は、この安さんの口入れで決まったようなものだ。
「後年私はこの安さん夫婦の位牌を仏壇に祭り、今日でもその供養を忘れずしているようなわけである。」

1863(12) 文久3年亥年 3月10日、仏師・高村東雲のもとで徒弟となる。

1864(13) 元治元年(甲子年・きのえねどし) 師匠東雲は「大黒様」をたくさんこしらえた。
       徒弟2年目の幸吉(光蔵)は、まだその手伝いもできなかった。
1965(14) 慶応元年丑年12月14日 浅草の大火。
       浅草三軒町から出火。当時、師匠東雲の家は浅草諏訪町。焼失した。
1968(17) 慶応元年辰年5月15日 上野の戦争。当時、師匠東雲の家は浅草駒形町。
1874(23) 明治7年3月10日 年季を勤め上げ、年明け(今でいう卒業)となる。
       師匠東雲より、「光雲」の号を授与さる。
       師匠東雲の姉エツ(悦)の養子となり、中島から高村姓となる。


* 下谷・北清島町(下谷源空寺門前) 現在の東上野6か、松が谷2(?)



『幕末維新懐古談』 高村光雲 1

2010-12-15 | 幕末
『幕末維新懐古談』 高村光雲著 を読んで。

1. 私の父祖のはなし
前回の再掲載と、詳述。
〇光雲の父祖
中島重左エ門(高祖父) 因州公の藩中。
 鳥取藩士(池田家・松平)。
中島長兵衛(曽祖父) 髯の長兵衛、と呼ばれた。
中島富五郎(祖父) 町人となる。
 八丁堀で鰻屋をしていた。富本の上手な長女の急死で自棄になり、家運衰える。のち肴屋
 を始める。江戸の大火にあい、浅草の花川戸に移る。富本にのめりこみ、連で語るが、嫉み
 にあい、毒を飲まされ身体が利かなくなる(兼松、9歳の時)。
 文久3年(1863)、没(72)。(光蔵、師匠の家に弟子入りした年。)
中島兼松(父)
 9歳の時、奉公先の袋物屋をやめ家に帰ってきた。身体の悪い父親の一家を背負って立つ。
 弟が二人、妹が一人いた。
 『お父さん、何か拵えておくれ、私が売ってみるから』
 手先の器用な父親の作った玩具を縁日で売り、生計をたてる。
「幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏まったものにならなかったことでありました。」
「その中、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが、相更らず親をば大切にして、孝行息子というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負っていく。頭を剃って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。」
 明治32年(1899)、没(82)。

中島増(ます)(母) 埼玉下高野村の東大寺、修験の家の出。菅原道輔の次女。
「父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境遇に同情し、
充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。」
「兼松には先妻があり、それが不縁となって一人の男子もあった(注:光蔵の異母兄)。
(中略)その中へ、自ら進んで来てくれて、夫のため、舅のために一生を尽くした事は、私ども
に取っても感謝に余ることである。」
 明治17年(1884)、没(70)。
中島光蔵(みつぞう)(本人) 通称・幸吉 のちの高村光雲。
高村光太郎 光雲の長男。


〇感想 一言二言。 ” あの親ありて、この子あり。” ” 親を見て、子は育つ。”
兼松、そして増、光蔵(幸吉)の親子は、そのお手本かな。