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マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編(1)

2009年07月06日 | 思考の遊び(準備)
【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

続きです。今回は、善悪が逆転する話から“悪”と“悪役”の物語を考えてみたいと思います。前回の話でとりあげ、今回の話についても大きな影響を与えたであろう「サイボーグ009」のヨミ編は1966年発表作品ですが、これに近い時期、1967年に(おたく史観的に)もう一つ重要な作品が発表されます。「ウルトラセブン」がそれで、現在も特撮ヒーロードラマの最高傑作と言われる作品です。
「善悪逆転劇」という事に関しては解釈によっては前述の「009」で既に果たされている…とも言えるんですよね。言ってしまえば人間を守るために戦ってきたサイボーグ戦士たちは、その原因そのものが人間にある……つまり、人間こそが“悪”なのだと言われるしまうワケですから。しかし、描き方としては悪の象徴のようなもの(黒い幽霊)はそこにいて、009に倒されるし、またその指摘は「言葉で説明する」レベルに留められているとも言えます。…要するに、よくよく考えるとそう言っているのだけどハッキリキッパリとはそう表現していない、とも言えるんですよね。「ウルトラゼブン」もこの範疇の作品で、モロに“悪”と表現する所までは至っていない作品ですが、例えば以下のような、かなり際どい所をついたエピソードが散見さます。



第6話「ダーク・ゾーン」
宇宙空間に浮かぶ巨大都市“ペガッサ市”が航行制御不能に陥り、地球に対し「公転軌道を修正する」ように通信が送られてくるエピソード。ペガッサ市からは、一切の侵略的行動はとられる事はなく、軌道修正要望が送信されるのみ。しかし、公転軌道を修正するテクノロジーを持たない地球は防衛軍を派遣して“先制攻撃”によりペガッサ市を破壊して、地球との衝突を回避する。都市の滅亡を知ったペガッサの派遣工作員が、復讐のために地球の破壊を実行し、セブンはそれを阻止するという形で幕を閉じる。

第42話「ノンマルトの使者」
海底に建設された基地が次々に破壊される事件が相次ぎ、それは“ノンマルト”の仕業という事が一人の少年によって伝えられる。“ノンマルト”とはセブンの星では地球人を意味する言葉だった。主人公のダン、アンヌと知り合ったその少年はなおも話を続ける。今は海底に棲んでいるノンマルトこそが、ずっと以前から地球に棲んでいた者たちであり、人間こそが侵略者なのだと。地上を侵略してノンマルトを海底に追いやり、今またノンマルトから海底さえも奪おうとしているのだと。この話の終わらぬままノンマルトと防衛軍の戦いは始まり、ウルトラ警備隊のキリヤマ隊長の判断によってノンマルトの海底都市は撃滅された。少年は姿を消し、真相を確かめる術は永遠に失われてしまう。

こういった傾向のエピソードは他にもあり、様々な宇宙人の侵略ものを描く中で、人間=正義という構図に一石を投じています。何かと相対的に語られる現在と違い、当時、これらの踏み込みは相当な衝撃を視聴者に与え、今でも「ゼブン」は語りぐさとされる作品なんですよね。
また、このブログでもちょこっと扱ったりしたのですが、60年代後半~70年代初頭って、ある種の告発的な“暗さ”を持ったテレビドラマがけっこう集中している時期で、子供向き作品目線の僕から言っても、いわゆる“魔女っ子”でかわいい少女向きアニメのはずが何故か社会派ドラマな「魔法のマコちゃん」(1970年制作)とかw妖怪ブームを牽引しながら何故か公害汚染など社会問題を取り扱った第二期の「ゲゲゲの鬼太郎」(1971年制作)なんかwがあったりします。他にもいろいろそうなんですよね。ここらへん時代背景というか、僕が考えるに以下の事件が世相に与えた影響は大きいと思っています。

1.ベトナム戦争(1959年~1975年)
2.水俣病訴訟(1967年~1973年頃)
3.70年安保闘争及び学生運動(1968年~1972年頃)

3は1と2の影響をかなり受けて激化したものじゃないかと思うんですけどね。3に関連した象徴的な事件として「成田空港闘争」、「よど号ハイジャック事件」、「あさま山荘事件(というか山岳ベース事件)」などが挙げられるかと思います。「サイボーグ009」なんかは、正に戦争まっただ中のベトナムに乗り込んだりしていて、その影響はモロと言うべきですし、「ウルトラセブン」にしてもその後の制作の記事なんかを見ると、やはりその影響はあるようです。
…ここで“センゴ民主主義”が、なんちゃら~~とか言い出すと話が長くなりますし(汗)僕の領分の話ではないので止めますが、ともかく何か、正しいと思って行動したものに裏切られたり、正しくないと思ってもどうしようもない事を思い知らされたり、そういう体験を繰り返し味合わされる状況にあったように考えています。そして「サイボーグ009」や「ウルトラセブン」のように、暗喩というか婉曲に描かれているものが、次第に詰めよりモロに自らの“悪”に直面させられる、その臨界点を迎える事になります。


■海のトリトン(富野由悠季の描いた「悪」)



ポセイドン神像「や、やめよ…お前ごとき子供にオリハルコンの短剣の本当の使い方は分からぬ。オリハルコンには、お前たちトリトン族の言い伝え以上のおそろしい魔力があるのだ…!」
トリトン「それは、ポセイドン!あんたをやっつけるための力だ!正義の力だ!!」

「海のトリトン」(1972年制作)は、富野由悠季監督の初監督作品として、その衝撃のラスト共々有名な作品です。原作は手塚治虫先生なんですが…まあ、まったくの別ものですw7つの海を支配しトリトン族を討ち滅ぼす事を目論むポセイドン族と、トリトン族の生き残りトリトンとピピの苦難と闘争の物語。強い光を放って全てを打ち倒すオリハルコンの剣を携えて次第にポセイドン族を追い詰めて行きます。
そして遂にポセイドンの海底神殿で決戦の時を迎える。その時!!なんですが………………と、ここまで引っ張ってなんですが、僕、ちょっとここの話の内容、よく理解してないんですよね(汗)いや、なんか説明がややこしくて、多分、情報が不足している面もあって、何回聞いても正直分からない所があってね(汗)そんなワケで詳細はウィキとかそこらへん見てにゃ?(´・ω・`)という感じなんですが………つまりポセイドン族(真のポセイドン族というのがいるのですが)の正体は、かつてアトランティス人に皆殺しにされそそうになった一族の生き残りで、トリトン族というのはアトランティス人のいわば末裔みたいなんですよね。ポセイドン族はその復讐と自らを守るために戦い、遂にトリトン族(アトランティス人)を討ち滅ぼすのだけど、自分らを皆殺しにする力をもった最終兵器であるオリハルコンの剣を求めてなおもトリトン族を追い立てていた……って事みたいです。そしてトリトンはオリハルコンの剣とポセイドン神像の秘密を知らずに発動させてしまい、1万人はいたポセイドン族の生き残りを皆殺しにしてしまいます。

有名な最終回なんですが…、今、述べたようにちょっと説明不足というか…富野監督が周りに相談すると却下されると思って秘密/独断で最終回のコンテ切ったらしく、多少唐突で練られていない面がある事は否めないように思います。ただ、それでもトリトンと全滅したポセイドン族の長(?)の声を伝える法螺貝の言葉は今なお強い衝撃を与えるもので、おそらく、このセリフを言わせるためにこの最終回はあり、後の“辻褄”は正直どうでもいいんでしょうねw

法螺貝の声「ポセイドンの像を動かしたのもトリトン、お前だ!!我らポセイドン族を総て殺したのもトリトン、お前だ!!像を倒さぬ限り世界が破壊されるようにしたのもトリトン、お前だ!!」
トリトン「(狼狽えながら)ちがう!!みんなポセイドンが悪いんだ!!」

富野監督のこのシリアスな感覚は、その後「無敵超人ザンボット3」(1977年制作)→「伝説巨神イデオン」(1980年制作)と受け継がれて行きます。

※この頃の富野監督の表現って“シリアス”と“エンターテインメント”の2系統(ちょっと変な対比だけど…まあ、そんな感じ)があると思っていて「無敵鋼人ダイターン3」とか「戦闘メカザブングル」なんかは後者の配分が強い作品なんですよね。…で「機動戦士ガンダム」は特異点的です。「ガンダム」は特異点ゆえに監督に微妙に憎まれている…気に入られてない所があるんじゃないかという気もするんですが……それは富野由悠季論に入って行く話なので今回は止めておきます。

この「トリトン」の最終回と、「ザンボット3」の最終回を知っている人は分かると思うんですが、このラストに向けての“諸悪の根源”との対話って、正に「サイボーグ009」ヨミ編の“黒い幽霊”との対話なんですよね。ただし、言っている内容が違う。………よくよく聞くと、同じ事を言っているのですけどね。でも「009」における黒い幽霊と009の対話と、「トリトン」におけるポセイドン族とトリトンの対話を比較すれば、その踏み込み方の違いはハッキリと見てとれると思います。



コスモ「…こんな、こんな甲斐の無い生き方なんぞ、俺は認めない!!たとえそれがイデの力によろうともな!!」(「伝説巨神イデオン」より)


※ちなみにトリトンの声は当時、子役だった塩屋翼さん、「イデオン」の主人公・コスモの声も塩屋翼さんだ!m9(`・ω・´)

(↑このセリフはヒロインの一人であるカーシャが死んだ事が知らされた時のもの。お別れのシーンもなく戦闘中にそういう通信だけが来るんですよね)そして「イデオン」ですが……おそらく富野由悠季という人の一つの到達点であるこの作品は“悪”と“悪役”の事を語ろうという今回の話題からは外れるものなんですが、重要な作品ですし一応、“善悪”の視点含めて僕なりの言葉で「イデオン」をまとめると、これは“人類たち”が神様に見捨てられて滅ぼされてしまう物語なんですよね。(様々な解釈が有ると思うんですけどね……でも、戦いの果てに双方滅びてしまったトリトン族/ポセイドン族と本質的には同じ構造なんですよね)お前たちは失敗作ですねって事で、イデと呼ばれる意志を持った無限の力=神、によってリセットボタンを押されてしまう。
「なぜだ!?本当に俺たちは滅ぶべき存在なのか!?」という登場キャラクターたちの悲痛な叫びが最大の“泣かせ所”です。(泣かずにはおられん……だって、そこには僕らと全く同じ感情を持った人々が正にいるんだもの…)どうも戦争をやっていると“イデさん”にダメ出しされるみたいなんですが……でも、僕はイデの善悪の基準というのがよく分からなくって、なにより何をすれば善だったのか?善になると何が起こるのか?が全く語られていない物語なんですよね。多分、僕らは善き力の発動というのを見せられても「ああ、これか。これのためには僕らは滅びなければならなかったんだ…」と納得させられる事は決して無いと思っています。
それは“善と悪との戦い”など最早関係なく、“善悪”などという人間の作った分別などお構いなしに全てをを呑込んで全滅させた物語がそこに在るだけになっているって事です。

そして「イデオン」のこの臨界突破を以て(善悪が解体されてしまった)80年代がスタートしているんですね。おたく史観的には!wそれは単純に最初から「善悪の無い(あるいは曖昧な)物語」から描かれた物語という事ではなく、富野喜幸が「善悪を以て戦う物語」を描いて行く中で「トリトン」から「ザンボット3」を経て“悪”とは何か?というテーマを突き詰めて行ったからこそ到達した臨界突破なんだと言う事は言っておきたいです。
この「イデオン」の衝撃により派生した“ルート”は、最終的に「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年制作)に到達して総べてを解体し尽されるのですが……先ほど言ったように“悪”の話と大分、乖離がはげしくなっているので、別の機会としたいです。

ただ、ちょっと「ザンボット3」のラスボス・ガイゾックについて一言。このガイゾック(=コンピュータ・ドール8号)は、僕は前回の話で取り上げた白イタチ・ノロイに匹敵する“絶対悪”だと思っています。…設定的に言えば「トップをねらえ!」(1988年制作)の“宇宙怪獣”と、まあ大体同じ物なんですけどね。しかし、同時に“天災”に留まらない“邪悪”をも体現した名悪役だと思っています。ただ、僕が取り上げたかったのは、ガイゾックが“そういう存在”であると言う事は、主人公が戦いの果てにガイゾックと“対話”をしてはじめて分かるという部分です。主人公の勝平は彼らが“悪”であるという解釈を止める事はないのですが、ガイゾック自体はもう善とか悪とかを超えて“そういう物”でしか無いんですよね。これが「トップをねらえ!」になると、宇宙怪獣との対話というものはありません。人類が勝手にそう想像する。「向こうは何らかの理由で、且つ相応に正当な理由で、自分ら(人類)を“悪”であると認識したんだろうなあ…ふむふむ淡々」…と思いながら、でも、「んなの(善とか悪とか)関係あるか!」と。…ここは敢えていいますがw「“イデの意志”がどうあれ、俺たちは生き残るよ?」というのが「トップをねらえ!」という物語(これは「イデオン」ルートというよりむしろアンチテーゼ)になっていますねw……まあ、そういう、対話を通してはじめて相手(敵)が“そういう物”である事が分かる物語と、対話せずともそれを知っている物語は、正に「イデオン」の臨界を挟んで分けて起こっている現象となっています。


う~ん、気がついたらこんな文字数に……orz 二つに割ります。(↓)続きです。

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/29ad97d6a163f7575a66e3e9b0bed5a9



(その他)

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67

のぼうの城

2009年07月02日 | マンガ


……あ、今、気付いたけど、帯には主人公が描かれているけど、帯をとったら表紙には誰も描いていないんだ。「のぼうの城」を買ってきました。スピリッツで連載している時に面白かった…というのと「美味しんぼ」の花咲アキラ先生の愛嬌のある絵がけっこう好きなんですよね。「学研まんが人物日本史」とかを集めている僕としては、けっこうそれに近い感覚で…。軍記物や歴史絵巻を描くのに合っているような気がします。
「のぼうの城」は、豊臣秀吉が天下統一の最後の詰めである小田原攻めにおいて、北条氏につき、小田原城が落ちるまで抵抗し続けた忍城の戦記です。もう、ほとんど……というか、確実に豊臣秀吉の天下は見えているのに、何をそんなに意地になったのか?というのは、衆目も不思議とする所で、それが後世の軍記作家の想像をかき立てるらしく、女傑・甲斐姫の伝説などが添えられていますね。山田風太郎先生の「風来忍法帖」の舞台もこの話を模したものですね。

いや、小田原攻めの時の秀吉は、小田原城のすぐそばに一夜城を築いたり、…どうも忍城の水攻めも石田三成の計略というよりは、秀吉の指示によるものだったようで。それは天下統一事業の有終を飾るものとして、かなりパフォーマンス重視というか、天下統一後の諸将に対するにらみを利かせる示威行為こそが本題の戦(いくさ)というか……この頃の秀吉はまだ気を抜くような間抜けではなかったでしょうが、要するに空前の大勢力で包囲し、負けるはずのない戦で相当に驕っていたのは間違いない所なんですよね。(作中では敵将・石田三成は好漢として描かれていますが、でもやはり彼の行動も驕っていたと思う)

人の命のやり取りをする戦争で、一方的に相手を弄ぶ事しか考えていない者へのムカつき…っていうんですかね?w理屈を言えば、絶対に勝てない事が分かりきった相手で、しかも、降伏すれば所領安堵され、抗戦すれば皆殺しもあり得る。理屈で言えばね。誰がどう考えても正しくない、馬鹿なその一言を、“のぼう”(でくのぼうの意)と言われる男が口にするから燃えるんですよねw



「二万の兵で押し寄せ、さんざに脅したあげく、和戦いずれかを問うなどと申す!そのくせ降るに決まっておるとたかををくくってる!そんな者に降るのはいやじゃ!いやなものは、い、や、な、の、だ!武ある者が、武なき者を足蹴にし、才ある者が、才なき者の鼻面をいいように引き回す!それが人の世か!ならばわしはいやじゃ!」

アホな男が無理矢理戦を起した…と思う人もいるかもしれませんけどね。…でも、ねえ。今は、憲法や法律が、あたりまえのように自分の権利や、自由や、財産を守ってくれるのですけど、この時代はそうではなく。自分を対等に扱わぬ者には“死んでも”頭を下げないという馬鹿な意地がないと、それは何一つ手に入らないものだったんですよね。…手に入れる代わりに死ぬかもしれませんけどねwやっぱりアホですかねw
でも、みんな“のぼう”が出した「戦いまする」というその言葉に乗るんですよね。最初、戦にならなくて良かったと言わんばかりに降ろうとしていた“のぼう”がそう言ったのなら、それは「今、あいつらに頭を下げたら駄目だ!」と言う事だと。それが皆に伝わったんでしょうね。そしてその意地は、頭が良いとか武辺に優れるとか関係なく宿り得るものであり、また、無くし得るものなんですよね。

余談ですけど、群馬県周辺のあの土地(忍城は正確には埼玉県ですが)は、昔から城の一つ一つが、北条や上杉、武田などの大勢力に対して駆け引きし、独立…というか意地を通し抜いた土地なんですよね。有名所では、徳川家康、徳川秀忠の両者に苦渋を舐めさせ、日本史上屈指の軍略家と名高い真田昌幸(上田城は長野県ですが…勢力は群馬県方面に伸ばしています)や、武田信玄を六度にわたり撃退し、遂に存命中の攻略は諦めさせたと言われる長野業正なんて武将も、あんまり有名じゃないですが居ます。そして、太閤秀吉に最後まで抵抗した忍城の成田氏と、東国は有力な戦国大名がひしめき合っていた激戦区なんですが、それ故か、偶然か、天下人とそれに準ずるような武将に意地を見せ続けた小勢力が集中している土地なんですよね。
まあ、頭を下げない話をしていたんですが、上述した真田昌幸なんかは様々な大勢力と結び離れ、頭の下げ時、意地の張り時の判断に絶妙の感がある人物ですね。…そりゃあ、いつまでも頭を下げなかったら、殺されちゃいますからねwそれは本末転倒というか……本質的に、彼らは、死なない為に死んでも頭を下げない決断をするワケで……矛盾していますが、だからこそ、そのギリギリの判断というのが、僕は好きなんでしょうね。