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魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その5)

2010年07月12日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9463c36296d822054b9ae5a6abd241d7
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a5d7d212f714fa3587721b5cefaf7230
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その3)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/77c8668529ca2b47cda018dfbaaf85f2
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9bc39bf4df3c7027d268e14e470b3036

(↑)前回の続きです。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html

http://maouyusya2828.web.fc2.com/

(※既読者向けです)

まとめに入る前に、前回(その4)での方さんのコメントと僕のレスを(↓)再掲載しておきます。(多少、文章加工/修正しています)けっこうこの話の結論的な話になっていて、変に前振りの文章書くよりストレートに伝わる事もあるのではないか?と考えました。……まあ、あれですね。いや、『新英雄譚』っていう呼称はいいですねえw“群像劇”という言葉よりも伝わるものがあります。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)…レス】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/24075bf8fde30b7d9c94f77f0257c6c5


■世界への接続~終わりなき物語のはじまり



シャア「ちぃいい!!ならば私の同士となれ!アムロ!」

アムロ「断る!!」


(※画像「めぐりあい宇宙」、セリフ引用、ウソです(`・ω・´))


『英雄譚の引力』についての事例として『機動戦士ガンダム』の宇宙世紀シリーズ(最初のシリーズ)を上げておきたい。……というか、この『魔王x勇者』とこの宇宙世紀シリーズを引っ掛けて、何か記事を一本書く予定だったんですけどね。んんん…な~んか、この一連の記事だけでやたら時間がかかちゃってるからなあ…どうすっかなあ?orz(リアルロボット・ブームとは何だったのか?という話はいずれは、しなければならないと思っていますが…)

『魔王x勇者』の構造を分析している時に僕は『機動戦士ガンダム』(1979年制作)に近いものを感じたんですよね。…これはキャラ配置とか、ストーリーラインとか、演出法とか、そういうものではなく「ある『臨界』に対して出されて来た答え」としてです。
この一連の記事で散々書いていると思いますが、僕は『魔王x勇者』の物語を、物語外の物語作品を含めた“繰り返し戦いが行われて来た英雄譚”の一つの解答として観ています。それは『ガンダム』以前のスーパーロボット・ブームの中から『ガンダム』が出現してくる“流れ”と非常に似ている。

従来のスーパーロボットものと『ガンダム』がどう違ったか……というのは、なかなか一口に言えないものがあります。ドラマ、あるいは(善悪相対化などの)テーマか…というと、一概にはそうも言えない。長浜忠夫監督のロボットものは、既にロボットものの中に充分なドラマ性を盛り込んでいたし、冨野由悠季監督も善悪相対化/逆転的な物語を送り出してきた。(これらのものをより具体的に昇華したのが『ガンダム』だという言い方はある)
じゃあ、何が“違った”か?それは戦争の大義の存在(悪の理論の変化)と、そして一般兵士の描き(ザコ戦闘員の生命の変化)と、それから、弾薬/兵站の指摘~マチルダさんの補給隊ですね~だったのではないかと思う。それは従来のロボットものはキャラクターの深みは、ある一定以上のものに達していたのだけど『世界の在り様』が単純だった故に、動作もある程度、単純化されていた…という言い方もできるかもしれない。

これは勇者が魔王を倒す物語に、魔界の大義と人間界の経済均衡の考え方を持ち込んだ『魔王x勇者』の流れと非常に似ていると思う。…いや、踏み込んで言えば、それは(その4)で述べている『情報圧縮の顕現』によってそれを見せているという事じゃないかと考えますけどね。
こういう“世界の描き”って、パッとした思いつきというか、それだけで描けるように思っている人もいるかもしれませんが、そう簡単な話でもなくって。それ以前の作品を注意深く観ればわかるように、そこに行こうという動き自体はあるんですよね。それは大前提的に「難しい話をやめて面白い話をしないと観客は離れる」というものがあって、そこを踏み込むのは“冒険”で。…しかし、その“冒険”を超えて「難しい話を面白く語った」物語が、こういうエポック的な評価を得て行くんですよね。
とまれ、こういった『世界への接続』を『面白く』描く事を為した時点で、『ガンダム』、『魔王x勇者』は『世界への接続』を果たした作品という評価ができるのではないかと思います。



……という事を踏まえると『魔王x勇者』のあり得た物語の展開として『機動戦士Zガンダム』(1986年)を考えてもいいかな?とか思うワケですw

先に断っておくと、僕は『Zガンダム』に対しては元から、そこそこ(笑)批判的な論調を持っています。そこを勘案して読んでくださいね。…とは言っても『新訳』でちょっと変わりましたけどね。(同時に「あ、やっぱり富野も『Z』気に入らないんじゃん!」とも思った)これはいずれ、再検証や別の視点の持ち込みで変わって行くこともあるかと思いますが。まあ、そういった話は今は細かく語るのを避けます。
ただ、まず『魔王x勇者』との比較の流れで述べると、この作品は「世界への接続を果たしたはいいけど、それをそのまま放置する(言葉は悪いですけど漫然と描くと)どうなるか?」という事を顕していると思うんですよね。具体的に言うと『Zガンダム』は最終回(物語の結論)をどう描けばいいのか分からない作品だったから(物語全体の文脈を踏まえた上で)“ああいう”最終回を迎えたのだと思っています。
これはある意味、当然なんですね。「最終回なんか無いのが世界の在り様」なんですから。それをそのままリアリティあるドラマだとか善悪混然一体だとか悦に入って放置したら“物語の結末”は霧散するというものです。(歴史ものは結果が分かっているからそこから逆算して結末らしき所を選ぶ)

ツイッターなんかでは『魔王x勇者』の戦争が終わらない世界と、『Zガンダム』で漫然と戦う世界が似ている…なんて話もしましたが、『ガンダム』で世界への接続を果たした時「じゃあ、どうするんだ?」という問いかけに対して、『Zガンダム』は明確な答えを持ち得なかった。…持ち得なかったから、とりあえず戦闘母艦に乗ってなんとなく逃げ回っている『富野メソッド』が展開されたワケですが、世界と接続してしまった『物語』は、すでに逃げまわるだけでは“明確な敵”も、“目指すべき未来”も、そして行動せずには居られない“差し迫った地球の危機”も与えてはくれなかったんですよね。

『Zガンダム』は「どうすればいいか分からないけど、戦っていなければ『物語』は楽しくないはず」という『引力』に引っ張られながらカミーユたちは戦い続け「戦ってばかりだと何も得られない事は分かるけど、じゃあどうすればいいのか?…は分からない。でも、戦ってばかりの、戦いを楽しむ奴は許せない。(こいつが戦わなくていい戦いも拡散させる)だからとりあえずそいつを“戦って倒す”!!……シロッコ覚悟!!!(`・ω・´)…ああ!でも俺も同じ穴のムジナやん!?」…というのが、まあ『Zガンダム』の大雑把な結末になっている……はずw

※ そうして『ガンダム』という文脈を富野監督自身が無視して、半ば強引に『英雄譚』(スーパーロボットもの)に引き戻ろうとして…まあ、上手く行かずwなんとなく『Zガンダム』力場に戻った『ガンダムZZ』(1987年制作)と、そうではなく『ガンダム』という文脈を尊重して、かつ、『英雄譚』に戻ろう~その為に集約すべきは、やはりシャアとアムロの対決なんだろう~という『逆襲のシャア』(1988年制作)があると観ています。…が、だいぶ長くなってるので割愛。(´・ω・`)

これは『Zガンダム』が(生地『ガンダム』と接続するだけに)すごく如実なんだけど、やはり多くの近代の子供向き『英雄譚』たちが止まってしまった場所でもあるんですよね。
これに対して『魔王x勇者』はやはり“戦いに拠らず戦いを無くす方法”を明確に示した。…しつこいようですが“馬鈴薯”!!の事ですね。どうやってもカミーユたちはそんなダサくて地味な事ははじめそうにないので強調したいwまた、話し合う事、和平する事のダイナミズムというかエンターテイメントを描いた。それも『面白く』描いたからこそ!だと思うんですが。まあ、僕はその描きの部分を『先の物語』と言っているワケです。

ただ、そこを描いたとしても、世界と接続されてしまった『物語』は終わりが来ないままというか…。(まあ、キリの良い所で終われるっちゃあ終われるんですがw)拡散されたそれぞれの物語をもう一度、締め直す“一手”として、二度目の『祭壇』は現われると言えると思うんです。
つまり、最初の『祭壇』は物語を世界に接続させるために出現し、二度目の『祭壇』は物語を終わらせるために出現している…という事です。これは元型としての対話型『祭壇』が持っている役割を二つに分解した……という観方もできると思います。


■勇者の死すべき力場



#maoyu_heat 勇者退場のイメージは僕も持ちました。それも狙撃で。ヤン・ウェンリーのイメージだけど(汗)色々考えて行くと、少なくとも手っ取り早く託す退場はそれだったと思う。でも、そうはならなかった。それは凄く良かった事だと思う。
http://twitter.com/LDmanken/status/14681014478

(↑)上は僕が『魔王x勇者』の議論ついてつぶやいたコメントです。僕は『魔王x勇者』の物語を読み進めていく内に“勇者の退場”という展開が観えてきた所があって、それはどうなるかなあ?と注視していたりしました。
それは展開予想とはちょっと違うんですけど……物語を読んで行った時に“丘の向こう”という話は、魔王と勇者が平和な世界(?)のようなものに皆を導いて行くという話ではなくて、救世主の物語ではなくって、もっと、救世を望む者たち一人一人の意識を変えて行く、彼ら一人一人が自らの意志を確かに自らの物語を紡いで行く覚悟のようなものを促す物語である事を感じてきていたと。

…でも、物語の構造上、魔王と勇者が“その話”を始めて、魔王と勇者が“その話”の結末を目指して『物語』を紡ぐ以上、魔王と勇者が皆を救ったんだ(変えたんだ)という物語から逃れられないよね……とも思ったんですよね。
それは「光と闇の愚劣な物語」(←その4から)である事を止めて、もっと世界の在り様を受け入れた『物語』をはじめよう……と言っても光(勇者)と闇(魔王)が導く以上は「光と闇の物語」だよねというか。レスで書きましたよね。英雄譚(光と闇の物語)を脱しようとしても、“英雄”がそれを為す以上は、“英雄譚を脱しようとする英雄譚”である事は逃れられないんじゃないか?という話です。

これを回避する方法自体は比較的、楽に思いつきます。実際にそれをするかどうかは『引き返す引力』がはたらくでしょうけど。何かというと“英雄”を“英雄”でなくすればいいんですよね。そして“英雄”ではなくする一番てっとり早い方法は『物語』の結末とは関係なく、突然の死を与えて退場させる事です。(この場合、魔王もそうしなくていいの?と意地悪を言う人もいるかもしれませんが、そこらへんは『物語』の不思議というか、急所の人間一人外せばテーマは顕現されるはず)
キツい展開ではありますが、勇者がいなくなって何ができるか?は、テーマの追求として有り得べき事態なんですよね。そして『魔王x勇者』は、今僕が上げた選択とは別の選択で、見事にそれを為してくれている。その解法は、今さらネタバレは気にしてませんが、必要もないので細かくは書きませんw…が、僕は「ああ、そうきたか!」と手を打ちました。

まあ、ねえ……w罪なき人々も巻き込んで勝利を拾おうとする蒼魔の刻印王に対してね…「おおおっ!!“招嵐颶風呪”っ!」とか突然、唸りだして自前のマクー空間作ってそこに引きずり込んで、これで回りの被害は出ません!とか、言い出しちゃえる『スーパーヒーロー』がいる状態で、どうしても犠牲が出てしまう事に唇を噛み締めながらも、それでも“正しい事”を積み上げて行こうと懸命に生きる様を描くのはなかなか難しいですよw
全てを解決してしまえる『スーパーヒーロー』がいるなら(しかも、定期的に出現する事が保証されているなら)、その存在に全てを任せてしまう事の方が、合理的ですらあるんですよね。しかし、この『物語』は、そんな都合のいい答えはない、という観点から編まれているわけで、その世界の理解の階梯的な存在として元型『英雄』であるところの勇者は選ばれたんだけど、そこから先は“託して”去る事がもっとも正しい選択に思えます。

作者のままれ先生が、どういうイメージでプロットを選択していたかは分かりません。しかし少なくとも「受け手」の僕からは、上記の観点で、勇者を殺さないために『祭壇』は出現したと『読む』事ができます。そうして情報圧縮体である『祭壇』を出す事によって魔王と勇者の物語と、託された人間たちの物語を見事に分離を果たし、一度融合した『英雄譚』と『世界の在り様』の双方を満足させる結末が与えられています。

それは「“英雄譚から脱しようとする英雄譚”から脱っしたみんなの物語」(群像劇…というより、みんなの物語の方が自分のイメージは伝わるかと考えました)となった事を意味しています。二段発射というかディバイディング・ドライバーの後にゴルディオンハンマーというか(←また言ってる)…ともかく二度の『祭壇』の出現で「結局『英雄譚』である」という『引力』からも脱しているんですよね。


■祭壇~人間の精神の発達の圧縮

え~っとまあ、大体、言いたいことは書きましたね。まあ、元々『祭壇』というのは“難しい話”をかいつまんでするための装置の意味があると思うのですが、それが「“英雄譚から脱しようとする英雄譚”から脱っしたみんなの物語」などという入り組んだ物語を解いて説くには、二段階の『祭壇』が必要だったね…という話になりますね。
まあこれ、人によってはやはり『英雄譚の引力』を大きく捉え「“英雄譚から脱しようとする英雄譚”から脱しようとする英雄譚」…って捉え方になるかもしれないけど。(実際、ラストシーンは勇者たちが締めますしね)そこは、どちらでもいいかなという気がします。今まで述べている『英雄譚』を(光と闇の)“単純化”と捉えるなら、複雑である世界の認識と、単純化は常にスパイラルなものだと思うので。



実は、この世界の『英雄譚』から観た世界の在り様への接続モデルは(子供向け)『英雄譚』の歴史的経緯を凝縮している図であると同時に、人間の階梯的な世界認識(理解)を凝縮した図でもあります。
この話は、人によってはこの記事で取り上げた『ガンダム』の経緯、あるいはスーパーロボットものからリアルロボットものに移行して行く経緯で説明する方が理解しやすいかもしれません。…その方向での話もいずれしたいとは思っています。

でも『魔王x勇者』は、この角度で観たときこの図をそのままワン・ストーリーに収めた美しさを持っているんですよねえ。『ガンダム』でも数作を要したのに…。いや、それはやっぱり突然何の事由も無くできることじゃなくって、相応の時間を経ての『文脈』と『ツール』の整備、それから『臨界』(時機)の存在が不可欠な事だったとは思うんですけどね。

そんな所で、この記事終わりたいと思います。予想外に長い記事になってしまいまして、その割にあんましまとまってないんですが…(汗)書きたい事は大体書けたかと思いますので、自分としては満足だなあ~と。(´・ω・`)それでは。


以前の記事です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)…のレス

2010年07月12日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9bc39bf4df3c7027d268e14e470b3036

(↑)この記事での方さんと僕のレスを(その5)の記事の引用用に再掲載しておきます。

■方さんのコメント

このエントリの論調で、まおゆうを敢えて言葉で表せば、

[「"英雄譚の克服"を成し遂げた英雄」を描いた英雄譚]

ということになるのでしょうか。こう書くと言葉遊びみたいですね。
古い英雄譚から抜けだしてより新しい、より世界の在り様に即した英雄譚に接続する過程を描いた物語、とか、そんな感じなのか。
英雄譚→相対化→現代劇
と発展させるのでなく、
英雄譚→相対化→新英雄譚
と発展させるのが、つまり「先の物語」ということだ、という主張だと解釈したのですが、それでいいんでしょうか。

「光と闇の愚劣な物語」という言い回しが嫌いだというのは、わかる気がします。結局まおゆうも英雄譚という形態に着地する以上は「愚劣」を内包することになってしまうわけですが、愚劣さとは力強さでもあるわけで。伝える強さのためにある程度の愚劣を許容するというか、妥協点を見つけて前よりは聡明にやる、みたいな落しどころが現実的なんじゃないかなと(割り切りすぎてるとそれはそれで酷いw)。

■LDのレス

>[「"英雄譚の克服"を成し遂げた英雄」を描いた英雄譚]

素晴らしい(感)これは僕がまとめの言葉にしようと用意していた言葉とほぼ同じです。一応、脱・英雄譚という説を用いているので“脱する”という言葉を基軸にしたんですが…

“英雄譚を脱しようとする英雄譚”を脱っした群像劇

…という言葉を準備していました。…方さんの方がセンスがいいですね(汗)これに「あるいは“英雄譚を脱しようとする英雄譚”を脱した英雄譚…と解する人もいるかもしれない」と添える予定でした。“群像劇”なんて言葉でしめるのは、言葉の遊びとしては面白味がないのですがw(汗)僕としては『魔王x勇者』は(旧来の?)英雄譚を脱したと思うので、脱した意味で、別の言葉を添えたかったんですよね。同時にあくまで、これも一つ位の英雄譚の形であると考える事もできるとは思っていて、それはスパイラルな『引力』というものなんでしょうけど…。

ただし、勇者=英雄、メイド姉たち=新英雄、とするならば“新英雄譚”と添えるのもアリに思えます。

…その場合、より正確に述べるならば「“英雄譚を脱しようとする英雄譚”の継承によって脱・英雄譚を果たした新英雄譚」…と、ややこしい!ですねw……なるかと思います。

話がさらにややこしくなるので伏せていましたが、僕は実は勇者は英雄(ヒーロー)ではなく『スーパーヒーロー』にカテゴライズしていて、それが本来の英雄(ヒーロー)の物語に落ち着く話なんですよね。これは勇者=神話英雄の時代が終りを告げ、メイド姉たち=歴史英雄の時代が到来した…という言い方ができるかもしれません。

> 英雄譚→相対化→新英雄譚
> と発展させるのが、つまり「先の物語」ということだ、という主張だと解釈したのですが、それでいいんでしょうか。

…“先”って目の前の先も、ず~っと先も、同じ“先”なんですよねw……ちょっと方さんの言葉を借りて、僕が群像劇ともとれる英雄譚とも取れると解したその結末を『新英雄譚』と言わせてもらいますと、この『新英雄譚』という結末のあり方は、僕の視界にある“先”をはみ出しているものでした。だから“先”は“先”かもしれないけど、もうこの物差しで測るのは適当でない……というのが率直な感想です。

いや、こういうと『先の物語』じゃないと言っているみたいですが、そんな事はなくって(汗)ただ、方さんの言うところの→現代劇の接続、その描き方の時点で『先の物語』は果たしているよ、と僕は考えているって事です。
その“先”(?)の『新英雄譚』あるいは『祭壇』が二度現われる事は…“先”なのか?というか……後から来た『物語たち』が「英雄譚を脱する英雄譚」である事に困る(?)なら…ああ、この『物語』は二回突破したんだ…“先の先”へ行ったんだ…というか?まあ、自分でも言っている事、よく分かりませないが?(´・ω・`;)そんな感覚を持っています。
とりあえずその部分は単にこの『物語』の『形』として捉えて「情報圧縮論からみた構造」の語りに置いた感じです。


……んんん、なんかこのレスで残りの言いたいことまとめちゃった気もしますが(汗)後日、まとめの記事書きます。