【脱英雄譚】
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615
(↑)続きです。
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html
http://maouyusya2828.web.fc2.com/
(※既読者向けです)
■原型としての“英雄譚”
魔王「必要だったのだ。しかし、今や進むべき時が来た。
時を止めていたこの世界に、進むべき時が来た」
光の精霊「あ、え……。その……」
魔王「今、もう一度この言葉を言おう。
“それは出会いの一つの形だったのだ”と。
そして世界には
“いつか不必要になるために必要なモノ”があるのだ、と。
それはあるいは子供の外套のように、だ。
それがなければ私たちは成長することが出来ない。
冬の雪にやられて死んでしまうひ弱な存在に
過ぎなかった私たちは、その外套に守られて過ごした。
でも、やがていつの日か、この今日にでも。
その外套を脱ぎ捨てなければならない日は来る」
(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」13スレ目より)
どうも“何かを倒す物語”、ひいては“何かを救う物語”というのは「物語」の力場として、連作されて行く中でどんどんより大きなものを倒す、より大きなものを救うという話に発展して行く傾向があるみたいです。このインフレ感覚は、少なくとも子供向き物語の中で異論がある人は少ないでしょう。
付け加えると、この何かを倒す話と、何かを救う話は、ちょっと表裏一体の面があって……何かを救うは、この場合なにかを守ると言う方がいいですが、まず一番小さい自分を守る力を欲する。その力は(自我の拡散に合わせて?)より強大さを求め、その強大な力の担保として、より大きなものを守る→救う事を欲する。
自分の為に→得た力は→誰かの為に使いたい。と、まあ、大体こんな感じだと思いますが…このスパイラル(?)で、あれよあれよと、世界を、ひいては宇宙を救う話になって行くのでしょう。
しかし、このインフレというか昇華はかなり健全な人間の性質だと僕は思うんですけどね。…これとは別に、力の顕現を“悪”とみるような…抑える方向の力場もまた昔からあって、近代の日本ではその力場がけっこう強めの傾向があったように…思わなくもない。しかし、僕らは倒すべき悪を倒す事によって世界を救う物語は数限りなく観てきましたが、倒す力を介さずに世界を救う物語というのはかなりイメージしずらいというか……殊更に力の顕現を排除しようとすると、どかの某宗教団体が描いたような、うさんくさ~い感じの救世主譚になったりw
まあ、そういう境地というのは無いわけではない…在ると思うんですけどね。哲学宗教的に「世は凡て事もなく世界が救われる」話というのは、ぐるっと一周回って「自分が既に救われていた事に気づく」話になってくるか……というか、もー、なんつーか、ちょっと、むずいwそうそう分からないw(汗)
だから、世の中はもう少し分かりやい話、たとえば「悪魔に勝つ」話とか、「己に勝つ」話とかをはじめる。そして、そこには段々とより大きなものに勝っていこうとする「流れ」がある…と。そういうもののアーキタイプ(原型)が正に勇者が魔王を倒す英雄譚~神話の多くは勇者が竜を倒す話ですね~であって、この「魔王x勇者」はその構造そのものの言及にまで及んでいます。ちょっと変に回り道しちゃいましたが「勇者が魔王を倒す物語」というのは、そういう人間にとっての健全な、基礎的な物語として存るという事です。
しかし、実際の所、世界の在り様というのは“子供のおとぎ話”のままに戯画化されたまま通用する世界でもない。でも、その視点に達してしまうと元の「おとぎ話」はふつうに無視して「物語」はいきなり世界在り様に挑んでいたりするんですが、そうではなく「善が悪を倒す」という英雄譚を、まず解体してみせる。そうする事によって一足飛びじゃなく、階梯的に「世界を救う」という事の意味を「魔王x勇者」は突き詰めて行っているなと。
ちょっと今、分かりやすくするために、わざと“子供のおとぎ話”と言いましたが、この脱・英雄譚的な視点というのは一過性のものではなくって、むしろ繰り返し体験され得るものだと思います。言い方変えれば理想と現実の折り合いみたいな話だから。
あまり内面的(内宇宙的?)な話ではないと、思いつつ、ちょっと内面に寄った「読み」をしてみましたが、けっこうそういう色んな角度の視点に耐える「物語」になっていて、何か凄いなあ…と思ったりします。
■たとえ悪であっても世界を救うということ
魔王「そこで『俺が法だ!』とか『俺が神だっ!』とか
『俺がガンダムだっ!』とか云えたら、お前も
もうちょっと生きるのが楽なのになぁ……」
勇者「うるさいっ!!」
(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」1スレ目より)
まあ、それはそれとして。(←文脈関係なく、横道逸れてた!)“世界を救う物語”が描かれるためには、まず“世界の在り様”を詰める必要があって(その必要を思ってしまうのが近代の物語思考という事なんですが)、“世界の在り様”を詰めて行くと、人の心の在り様を単純化、総体化しただけの“世界を救う物語”は、その単純化できない在り様に、はたと、その歩みを止めてしまうと。
…で、「不殺」とか、「身近な者を救う」とか、そういう小さなレベル(?)に落とし込めば、どうやら“正しさ”は確保できそうだぞと判断して行ったのが前項の話。……実は「不殺」というのはともすると「世界を救う話」以上に強烈に、世界の在り様からの糾弾を受けるテーマで、それをテーマとした(設定として「不殺」を採用したのではなくテーマとしている)作品は、軒並み相当苦しめられているはずなのですが、それはここでは語りません。こっちはこっちで難しいのですが、仮に世界を救うのをあきらめたとしても“正しくある”事を目指したと。
これに対して、その後やって来たのは、「そうじゃない、あくまで世界を救いたいんだ!」と言う思い、それを特化して“たとえ悪であっても世界を救おう”とする話ですよね。この類型は「デスノート」(2003年~2006年、作・大場つぐみx小畑健)が有名ですが、「魔王x勇者」に対する有効な対比作品として「機動戦士ガンダム00」(2007年~2008年制作)と「コードギアス 反逆のルルーシュ」(2006年~2007年制作)を挙げたいです。
まず「ガンダム00」から取り上げますが、これは世界背景そのものはかなり「魔王x勇者」に近いと思います。いや…構造が近似というワケではないのですが「このまま…を変えよう」という訴求のある世界において、という事です。これは両作品を観た人ならおそらくピンとくるでしょう。また、魔王退治のおとぎ話から遡れば及ぶべくもありませんが、「ドラクエ」という伝説、あるいは善も悪も入り交じって戦いを繰り返す世界の描き、から考えるとそれを上回る繰り返しの歴史を持つ「ガンダムシリーズ」から来ている作品です。(「SEED」でも似たような事をしているワケですが、より突き詰めているのはこちらかなと思います)
世界各地で紛争が耐えない未来世界で、超機動兵器ガンダムを有するCB(ソレスタル・ビーング)が各紛争に対して無差別の武力介入を決行する……この世界での勇者=ガンダムが選択した事とは、「魔王x勇者」の中でも示唆試考され、かつ「それではダメなんだ」と言われた事と考える事ができます。
【物語三昧:ソレスタルビーイングの動機が分からないなぁ】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081219/p1
【「ガンダム00」チャット ソレスタル・ビーングの征く道】
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0090.html#529
【「ガンダム00」最終回チャット】
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0092.html#537
【「ガンダム00」最終回感想:コーラ、カコイイ(・∀・)!!】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/e8e02bc37c4ad5ec9ff5f185f485abb7
僕とペトロニウスさんは、「ガンダム00」という作品自体はともかく、CBの連中の行動には相当ダメ出しをしていたんじゃないかと思いますが、おそらく一つ「読み」違えというか「送り手」とこちらで、かなりギャップがある可能性が高い部分があって、それは何かというと「送り手」は「このまま争いを続ければ人類は緩やかに、あるいは急激な後退をする事は避けられない」と、そういう感覚であの世界を描いていた可能性はそれほど低くない…というか普通はそういう観方になる……かも?(汗)と。
いや、僕は「こんなん!平和的統合目前やん?」としか思わなかったし、今もそう思ってますけどねw(でも、そのギャップを変換すれば、この作品の観え方も少し…いや、大分違ってきます)
しかし、「世界が後退して行く」世界観を採用すれば、これはかなり「魔王x勇者」のはじまりの世界観と近くなってきます。だから「魔王x勇者」では選択されなかった、別の物語の可能性がかなり示唆された作品になるはずです。
…で終わってみたとき、いろいろ「読み」方があるとは思いますが、CBが手放しに正しい組織として描かれていないのは明白でしたし、「は~、やっぱ、世界を救うのは難しいっス!!」というため息が聞こえて来そうな(僕はそんな観方をしてしまうんですが)…そういう、終わり方としては、なかなか良い終わり方だったんじゃないかと思います。
そして「コードギアス」ですが(画像、二人とも目つき悪いなあ…ヤサグレてるよなあw)、これはCの世界でブリタニア皇帝との戦いを決着し、最終フェーズに入るルルーシュとスザクの対話が「魔王x勇者」とかぶります。ただし、事情は微妙に違う。この時の二人は、いわば“挫折した魔王”であるルルーシュと、“挫折した勇者”であるスザクの対話からはじまっている。
彼らは、世界の在り様に挑んで、敗れ去った物語を体現したと言ってもいいです。しかし、挫折したからこそ得た視点と答えに対し「じゃあ、どうするんだ?」と。その時、はじめて魔王と勇者が手を組む物語が始まり、その選択を為そうとするワケです。
【コードギアス反逆のルルーシュR2最終回~ウソに乗る話~】
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0089.html#515
「コードギアス」の世界において魔王(ルルーシュ)と勇者(スザク)は何をしたかというと………これは、この世に“本物の魔王”=絶対悪も、“本物の勇者”=完全善も居はしない。居ないからこそ、自分たちが絶対悪の魔王と完全善の勇者になって見せ、勇者が魔王を討ち果たす事で、この世界に一度善と悪の戦いの昇華をもたらす事を願ったという事なんです。
人間の世界の在り様は、そんなに単純ではない。でも、彼らは人間である事を止める事によって、ルルーシュ=魔王の魔力(ギアス)、スザク=勇者の絶対武力という超能力を解放させた。人間だからこそ掛かっていた制限をなくして、逆説的にこの“英雄譚”に到達しているんですね。
これは「魔王x勇者」という物語の結末にまで辿り着いた人なら「ああ、彼らはそういう選択をしたんだね」と感じる所があるんじゃないかと思います。
■「先の物語」ということ
「…でも、それって、別の意味では“頓智”みたいなものだよねw」とか、僕は言ったりもしていたんですけどね(汗)…いや、文章に書き起こしてみると頓智という言い草は酷かったかな?(汗)しかし、何が言いたいかというと「コードギアス」の最終回は、あの残り少ない話数の段階で、スパッとキレイに終われる選択としてはベストに近いもので、いろいろ不満やツッコミがある人がいても「だって、ルルーシュ、死んじゃったじゃん?だから、しょうがいないJAN?」……みたいな返しでw大半は返せるというか、座布団一枚的に“上手すぎる”終わり方だったんですよね。
何が言いたいかというと、彼ら(ルルーシュとスザク)は、人間としては魔王にも勇者にもなれなかった者だし、そもそも(人間として)世界の在り様に挑んで敗れ去った事は、そのまま放置されたままだ…とも言えるんですね。
この二人が「じゃあ、どうするんだ?」となった時に、あくまで人間としてやれる事に立ち返る選択もあり得たはずですし。エンターテイメント、劇的なるもの、である事を度外視すれば、それが結局一番、世界の在り様に立ち向かい肉迫できる話ではあると思うんです。その意味では上手く目先を変えてはいますが「ガンダム00」と同じく「世界を救うのは難しい」→「世界の在り様は難しい」という所で止まっている「物語」……という観方もできると思います。
しかし、斯く言う僕自身が最終フェーズの展開予想として、一瞬イメージしながら「それはない」と即座に切り捨てた展開でもあるんですよね。なんでって、残りの話数でまとめ切れないだろうって事もあるんですが、なにより「面白く」描かれるイメージをほとんど持ち得なかったから。
…というか、僕は今したり顔、どや顔で「やっぱ、難しいよねw」とか「それは頓智だよねw」とか批評しているのですが、じゃあ、お前には何かあるのか?と問われれば、それは何もない。思想や哲学として何か返せる事はあるかもしれませんが、それを「物語」(エンターテイメント)として昇華し得るビジョンがあるのか?と言われればこれは皆無。おたくがしたり顔で後出し評価をしているに過ぎません。
しかし、「魔王x勇者」は正にこういう選択から「物語」をはじめているんですよね。最初の1スレ目の冒頭の方は、楽しく読んではいたのですが、まあ、よくある魔王と勇者の対話のパロディの一つ……という感覚がないではなかった。その次の展開「じゃあ、どうするんだ?」で馬鈴薯(じゃがいも)の栽培、普及から話をはじめた時は、シビれました。
それは、上に挙げた作品だけではなく、様々な「物語」~この場合はインフレの性向を持つ英雄譚エンターテイメントと言うべきですね~が、挑み、世界の在り様の前に足踏みをしてきた事に対して、本気で真正面から挑んだ「物語」であり、その「どうするんだ?」に“願い”や“希望“に任せてしまうような幻想のない、具体的に「どうするか?」を描いて、それがエンターテイメントとして成立している所が凄いwその天元突破ぐあいが「先の物語」になっていると思うんです。
さて、上に挙げたような作品、「ガンダム00」や「コードギアス」などが何処に行こうとして、何処まで行けたか?という観方を深めて行くと、「魔王x勇者」という物語の感慨もまた深まるんじゃないかと言う話だったんですが、「魔王x勇者」がものすごい正解の話(?)として、他の作品が正解に到れなかった作品かというと……いや、まあ、僕はこの文章で“一面の観方”として、そう言っているんですが(汗)しかし、少しづつの前進が、その突破に到る道筋をつけていたとも思うんですよね。そこらへんは、次の章で「情報圧縮論」を絡めた話でしていたいな…と。予定ですが。
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615
(↑)続きです。
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html
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(※既読者向けです)
■原型としての“英雄譚”
魔王「必要だったのだ。しかし、今や進むべき時が来た。
時を止めていたこの世界に、進むべき時が来た」
光の精霊「あ、え……。その……」
魔王「今、もう一度この言葉を言おう。
“それは出会いの一つの形だったのだ”と。
そして世界には
“いつか不必要になるために必要なモノ”があるのだ、と。
それはあるいは子供の外套のように、だ。
それがなければ私たちは成長することが出来ない。
冬の雪にやられて死んでしまうひ弱な存在に
過ぎなかった私たちは、その外套に守られて過ごした。
でも、やがていつの日か、この今日にでも。
その外套を脱ぎ捨てなければならない日は来る」
(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」13スレ目より)
どうも“何かを倒す物語”、ひいては“何かを救う物語”というのは「物語」の力場として、連作されて行く中でどんどんより大きなものを倒す、より大きなものを救うという話に発展して行く傾向があるみたいです。このインフレ感覚は、少なくとも子供向き物語の中で異論がある人は少ないでしょう。
付け加えると、この何かを倒す話と、何かを救う話は、ちょっと表裏一体の面があって……何かを救うは、この場合なにかを守ると言う方がいいですが、まず一番小さい自分を守る力を欲する。その力は(自我の拡散に合わせて?)より強大さを求め、その強大な力の担保として、より大きなものを守る→救う事を欲する。
自分の為に→得た力は→誰かの為に使いたい。と、まあ、大体こんな感じだと思いますが…このスパイラル(?)で、あれよあれよと、世界を、ひいては宇宙を救う話になって行くのでしょう。
しかし、このインフレというか昇華はかなり健全な人間の性質だと僕は思うんですけどね。…これとは別に、力の顕現を“悪”とみるような…抑える方向の力場もまた昔からあって、近代の日本ではその力場がけっこう強めの傾向があったように…思わなくもない。しかし、僕らは倒すべき悪を倒す事によって世界を救う物語は数限りなく観てきましたが、倒す力を介さずに世界を救う物語というのはかなりイメージしずらいというか……殊更に力の顕現を排除しようとすると、どかの某宗教団体が描いたような、うさんくさ~い感じの救世主譚になったりw
まあ、そういう境地というのは無いわけではない…在ると思うんですけどね。哲学宗教的に「世は凡て事もなく世界が救われる」話というのは、ぐるっと一周回って「自分が既に救われていた事に気づく」話になってくるか……というか、もー、なんつーか、ちょっと、むずいwそうそう分からないw(汗)
だから、世の中はもう少し分かりやい話、たとえば「悪魔に勝つ」話とか、「己に勝つ」話とかをはじめる。そして、そこには段々とより大きなものに勝っていこうとする「流れ」がある…と。そういうもののアーキタイプ(原型)が正に勇者が魔王を倒す英雄譚~神話の多くは勇者が竜を倒す話ですね~であって、この「魔王x勇者」はその構造そのものの言及にまで及んでいます。ちょっと変に回り道しちゃいましたが「勇者が魔王を倒す物語」というのは、そういう人間にとっての健全な、基礎的な物語として存るという事です。
しかし、実際の所、世界の在り様というのは“子供のおとぎ話”のままに戯画化されたまま通用する世界でもない。でも、その視点に達してしまうと元の「おとぎ話」はふつうに無視して「物語」はいきなり世界在り様に挑んでいたりするんですが、そうではなく「善が悪を倒す」という英雄譚を、まず解体してみせる。そうする事によって一足飛びじゃなく、階梯的に「世界を救う」という事の意味を「魔王x勇者」は突き詰めて行っているなと。
ちょっと今、分かりやすくするために、わざと“子供のおとぎ話”と言いましたが、この脱・英雄譚的な視点というのは一過性のものではなくって、むしろ繰り返し体験され得るものだと思います。言い方変えれば理想と現実の折り合いみたいな話だから。
あまり内面的(内宇宙的?)な話ではないと、思いつつ、ちょっと内面に寄った「読み」をしてみましたが、けっこうそういう色んな角度の視点に耐える「物語」になっていて、何か凄いなあ…と思ったりします。
■たとえ悪であっても世界を救うということ
魔王「そこで『俺が法だ!』とか『俺が神だっ!』とか
『俺がガンダムだっ!』とか云えたら、お前も
もうちょっと生きるのが楽なのになぁ……」
勇者「うるさいっ!!」
(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」1スレ目より)
まあ、それはそれとして。(←文脈関係なく、横道逸れてた!)“世界を救う物語”が描かれるためには、まず“世界の在り様”を詰める必要があって(その必要を思ってしまうのが近代の物語思考という事なんですが)、“世界の在り様”を詰めて行くと、人の心の在り様を単純化、総体化しただけの“世界を救う物語”は、その単純化できない在り様に、はたと、その歩みを止めてしまうと。
…で、「不殺」とか、「身近な者を救う」とか、そういう小さなレベル(?)に落とし込めば、どうやら“正しさ”は確保できそうだぞと判断して行ったのが前項の話。……実は「不殺」というのはともすると「世界を救う話」以上に強烈に、世界の在り様からの糾弾を受けるテーマで、それをテーマとした(設定として「不殺」を採用したのではなくテーマとしている)作品は、軒並み相当苦しめられているはずなのですが、それはここでは語りません。こっちはこっちで難しいのですが、仮に世界を救うのをあきらめたとしても“正しくある”事を目指したと。
これに対して、その後やって来たのは、「そうじゃない、あくまで世界を救いたいんだ!」と言う思い、それを特化して“たとえ悪であっても世界を救おう”とする話ですよね。この類型は「デスノート」(2003年~2006年、作・大場つぐみx小畑健)が有名ですが、「魔王x勇者」に対する有効な対比作品として「機動戦士ガンダム00」(2007年~2008年制作)と「コードギアス 反逆のルルーシュ」(2006年~2007年制作)を挙げたいです。
まず「ガンダム00」から取り上げますが、これは世界背景そのものはかなり「魔王x勇者」に近いと思います。いや…構造が近似というワケではないのですが「このまま…を変えよう」という訴求のある世界において、という事です。これは両作品を観た人ならおそらくピンとくるでしょう。また、魔王退治のおとぎ話から遡れば及ぶべくもありませんが、「ドラクエ」という伝説、あるいは善も悪も入り交じって戦いを繰り返す世界の描き、から考えるとそれを上回る繰り返しの歴史を持つ「ガンダムシリーズ」から来ている作品です。(「SEED」でも似たような事をしているワケですが、より突き詰めているのはこちらかなと思います)
世界各地で紛争が耐えない未来世界で、超機動兵器ガンダムを有するCB(ソレスタル・ビーング)が各紛争に対して無差別の武力介入を決行する……この世界での勇者=ガンダムが選択した事とは、「魔王x勇者」の中でも示唆試考され、かつ「それではダメなんだ」と言われた事と考える事ができます。
【物語三昧:ソレスタルビーイングの動機が分からないなぁ】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081219/p1
【「ガンダム00」チャット ソレスタル・ビーングの征く道】
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0090.html#529
【「ガンダム00」最終回チャット】
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0092.html#537
【「ガンダム00」最終回感想:コーラ、カコイイ(・∀・)!!】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/e8e02bc37c4ad5ec9ff5f185f485abb7
この設定の世界が、100年単位では「緩やかに地球統一に向かっている」こと、また「巨大な政治システムが3つ存在することで、2者の覇権争いによる全面的な最終戦争になりにくい成熟した政治状況であること」、さらに最後が重要だが、社会の進歩が閉塞しないための最大条件である「宇宙というフロンティアが存在している」ことがあげられる。(物語三昧:ソレスタルビーイングの動機が分からないなぁ)
ペトロニウスさんとは、けっこう長い事、「ガンダム00」については(局地的な小競り合いは在っても大局的に観て)「あの世界はどうみても、平和統一の道に向かっている世界に見える。なのに何故、あんな性急な事をしようとするのか?」って話をしていますね。(「ガンダム00」チャット ソレスタル・ビーングの征く道)
僕とペトロニウスさんは、「ガンダム00」という作品自体はともかく、CBの連中の行動には相当ダメ出しをしていたんじゃないかと思いますが、おそらく一つ「読み」違えというか「送り手」とこちらで、かなりギャップがある可能性が高い部分があって、それは何かというと「送り手」は「このまま争いを続ければ人類は緩やかに、あるいは急激な後退をする事は避けられない」と、そういう感覚であの世界を描いていた可能性はそれほど低くない…というか普通はそういう観方になる……かも?(汗)と。
いや、僕は「こんなん!平和的統合目前やん?」としか思わなかったし、今もそう思ってますけどねw(でも、そのギャップを変換すれば、この作品の観え方も少し…いや、大分違ってきます)
しかし、「世界が後退して行く」世界観を採用すれば、これはかなり「魔王x勇者」のはじまりの世界観と近くなってきます。だから「魔王x勇者」では選択されなかった、別の物語の可能性がかなり示唆された作品になるはずです。
…で終わってみたとき、いろいろ「読み」方があるとは思いますが、CBが手放しに正しい組織として描かれていないのは明白でしたし、「は~、やっぱ、世界を救うのは難しいっス!!」というため息が聞こえて来そうな(僕はそんな観方をしてしまうんですが)…そういう、終わり方としては、なかなか良い終わり方だったんじゃないかと思います。
そして「コードギアス」ですが(画像、二人とも目つき悪いなあ…ヤサグレてるよなあw)、これはCの世界でブリタニア皇帝との戦いを決着し、最終フェーズに入るルルーシュとスザクの対話が「魔王x勇者」とかぶります。ただし、事情は微妙に違う。この時の二人は、いわば“挫折した魔王”であるルルーシュと、“挫折した勇者”であるスザクの対話からはじまっている。
彼らは、世界の在り様に挑んで、敗れ去った物語を体現したと言ってもいいです。しかし、挫折したからこそ得た視点と答えに対し「じゃあ、どうするんだ?」と。その時、はじめて魔王と勇者が手を組む物語が始まり、その選択を為そうとするワケです。
【コードギアス反逆のルルーシュR2最終回~ウソに乗る話~】
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0089.html#515
ここに「絶対なる悪」となったルルーシュの前に「完全なる善」のゼロが現れた理由があります。
正当なる手順を踏んで世界を変えようとする者には、おそらくは到達不可能、ナナリーでさえ到達できなかった「無垢なる善」をデッチ上げるんです。“何の憎しみの連鎖も引き継いでいない”本物のホワイト・ナイトを出現させるんです。そして、彼に絶対悪のルルーシュを討たせるんです。
「コードギアス」の世界において魔王(ルルーシュ)と勇者(スザク)は何をしたかというと………これは、この世に“本物の魔王”=絶対悪も、“本物の勇者”=完全善も居はしない。居ないからこそ、自分たちが絶対悪の魔王と完全善の勇者になって見せ、勇者が魔王を討ち果たす事で、この世界に一度善と悪の戦いの昇華をもたらす事を願ったという事なんです。
人間の世界の在り様は、そんなに単純ではない。でも、彼らは人間である事を止める事によって、ルルーシュ=魔王の魔力(ギアス)、スザク=勇者の絶対武力という超能力を解放させた。人間だからこそ掛かっていた制限をなくして、逆説的にこの“英雄譚”に到達しているんですね。
これは「魔王x勇者」という物語の結末にまで辿り着いた人なら「ああ、彼らはそういう選択をしたんだね」と感じる所があるんじゃないかと思います。
■「先の物語」ということ
「…でも、それって、別の意味では“頓智”みたいなものだよねw」とか、僕は言ったりもしていたんですけどね(汗)…いや、文章に書き起こしてみると頓智という言い草は酷かったかな?(汗)しかし、何が言いたいかというと「コードギアス」の最終回は、あの残り少ない話数の段階で、スパッとキレイに終われる選択としてはベストに近いもので、いろいろ不満やツッコミがある人がいても「だって、ルルーシュ、死んじゃったじゃん?だから、しょうがいないJAN?」……みたいな返しでw大半は返せるというか、座布団一枚的に“上手すぎる”終わり方だったんですよね。
何が言いたいかというと、彼ら(ルルーシュとスザク)は、人間としては魔王にも勇者にもなれなかった者だし、そもそも(人間として)世界の在り様に挑んで敗れ去った事は、そのまま放置されたままだ…とも言えるんですね。
この二人が「じゃあ、どうするんだ?」となった時に、あくまで人間としてやれる事に立ち返る選択もあり得たはずですし。エンターテイメント、劇的なるもの、である事を度外視すれば、それが結局一番、世界の在り様に立ち向かい肉迫できる話ではあると思うんです。その意味では上手く目先を変えてはいますが「ガンダム00」と同じく「世界を救うのは難しい」→「世界の在り様は難しい」という所で止まっている「物語」……という観方もできると思います。
しかし、斯く言う僕自身が最終フェーズの展開予想として、一瞬イメージしながら「それはない」と即座に切り捨てた展開でもあるんですよね。なんでって、残りの話数でまとめ切れないだろうって事もあるんですが、なにより「面白く」描かれるイメージをほとんど持ち得なかったから。
…というか、僕は今したり顔、どや顔で「やっぱ、難しいよねw」とか「それは頓智だよねw」とか批評しているのですが、じゃあ、お前には何かあるのか?と問われれば、それは何もない。思想や哲学として何か返せる事はあるかもしれませんが、それを「物語」(エンターテイメント)として昇華し得るビジョンがあるのか?と言われればこれは皆無。おたくがしたり顔で後出し評価をしているに過ぎません。
しかし、「魔王x勇者」は正にこういう選択から「物語」をはじめているんですよね。最初の1スレ目の冒頭の方は、楽しく読んではいたのですが、まあ、よくある魔王と勇者の対話のパロディの一つ……という感覚がないではなかった。その次の展開「じゃあ、どうするんだ?」で馬鈴薯(じゃがいも)の栽培、普及から話をはじめた時は、シビれました。
それは、上に挙げた作品だけではなく、様々な「物語」~この場合はインフレの性向を持つ英雄譚エンターテイメントと言うべきですね~が、挑み、世界の在り様の前に足踏みをしてきた事に対して、本気で真正面から挑んだ「物語」であり、その「どうするんだ?」に“願い”や“希望“に任せてしまうような幻想のない、具体的に「どうするか?」を描いて、それがエンターテイメントとして成立している所が凄いwその天元突破ぐあいが「先の物語」になっていると思うんです。
さて、上に挙げたような作品、「ガンダム00」や「コードギアス」などが何処に行こうとして、何処まで行けたか?という観方を深めて行くと、「魔王x勇者」という物語の感慨もまた深まるんじゃないかと言う話だったんですが、「魔王x勇者」がものすごい正解の話(?)として、他の作品が正解に到れなかった作品かというと……いや、まあ、僕はこの文章で“一面の観方”として、そう言っているんですが(汗)しかし、少しづつの前進が、その突破に到る道筋をつけていたとも思うんですよね。そこらへんは、次の章で「情報圧縮論」を絡めた話でしていたいな…と。予定ですが。