今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

ファクトの世界

2009年06月13日 | 物語愉楽論
【絶対視思考と相対視思考】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/06fb37c8864a033a789f1a794f41dd07

【言い張り可能な世界(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/1d78cda9dd4bffd2aced1dfc281eafb1

【言い張り可能な世界(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/27376fb92115e5ca89dcbdd7166e6a26



(↑)上で「物語愉楽論」の足場というか「遊ぶ」場所の話として「言い張り可能な世界」について述べたんですが、その前振りに使った「ファクトの世界」の方で、いずみのさんにいろいろツッコミを受けまして…(汗)確かに説明を省いているというか、「ファクトの世界」の方は主体のつもりがなかったので、ちょっとたとえ話を並べて「これで感じとしては分かるよね?」的に突き放してしまっている所があるなと思いました。…で、「ファクトの世界」に関する僕の見解や補足も書いておこうかと思います。

先に「言い張り可能な世界」について補足を。このエントリーを書いた時に、ちょっと誤解を受けるかな?と思った事があって。この文章は「言い張り可能な世界」を主体に書いて、結論として「言い張り可能な世界」に留まる話をしているのですが、それは「言い張り可能な世界」が“良い世界”、“理想の世界”だからではないんですよね。いや、勿論、「物語を愉楽する」ために必要な世界だとは判断しています。しかし、何の文句もない世界だとしたら「言い張り可能な世界」なんて呼び方はしないんですよねw……だって「言い張り」ですよ!?(`・ω・´)
ここはズブズブの「相対視思考」を使うのに最適な場所とも書きましたし、最後に「言い張り可能な世界だからこそ言い張ってはいけない」と結んでいます。…でも多くの「面白い」を見つけるには……というか自分の「主観の世界」を拡げるためには、このカオスの世界をどう偶するか?という話に思えるんですよね。ここらへんの思考を説明してある程度、正当に思ってもらえるような文章を組むと、なんとな~~く「言い張り可能な世界」が“良い世界”のような印象を持たれる事もあると思うんですけど……。ま、“悪い世界”でもないんですけどw要するに「言い張り君ばかりが幅を利かせる世界」をあなたががどう思うかって事でいいと思うんですけどね。僕はあんまし良い印象を持っていませんw故に「言い張っちゃダメ」と言っています。

【 「言い張り可能な世界」についてのチャット】
http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0318.html

いずみのさんや、他の人とのやり取りはここに収めてあります。まあ、何度か交錯して繰り返しな部分もあるんですが「ファクトの世界」についての僕の感覚はここに述べています。
ちょっと気をつけて欲しいのは、現実世界=「ファクトの世界」ではないという所ですね。ここは、これから別に説明して行きますが、「ファクト(事実)」は確定要素という言い方をしてもいいかもしれません。人間は確定要素を増やす事によって文明社会を構成していった経緯があると言えると思います。たとえば気候が暑くなったり寒くなったりするのは、一定の周期がある事を発見して、その周期をより正確に割り出すための“暦”を作り出しますよね。これによって四季という“確定要素”を手に入れ一歩文明的な生活を手に入れる…といったような事案の繰り返しで文明/文化を進めてきているワケです。主に社会運用システム的には相当に「ファクト」の価値観で占められていると思います。しかし、今も完全に“確定要素”だけで社会は構成されていませんよね。また完全に“確定要素”のみにしてしまう事に人間は抵抗があるような気もします(気がするだけだけど)。…その分だけ「ファクトの世界」と現実世界はズレがある…という事になると思います。

■ファクトの世界の構成
「ファクトの世界」と「言い張り可能な世界」の境界をもっと対象的に扱う言葉を探すなら以下のような分け方になると思います。

・「ファクトの世界」 = 「証明された世界」

・「言い張り可能な世界」 = 「証明されない世界」

この段階では、かなりスッキリした分け方だと思います。ファクトが「証明されたもの」を尊び、「証明を求める」働きがあると考えると、その意味するところがイメージしやすいんじゃないでしょうか。この力場は人間社会をより進歩させる原動力のようなものだと思います。これは必ずしも原理の証明や説明である必要はありませんよね。たとえば先に例としてあげた“暦”の証明は、発見時はまず間違いなく経験からくる帰納的な仮説であり、その後、その“暦”が何十年、何百年と(多少の誤差を内包しながらも)通用しつづける事によって“暦”は「ファクト(事実)」になるワケです。ここらへんが、多分、コアの部分になってくる。

しかし「ファクト」は、そういった事象だけで構成されてはいません……居ないと僕は考えます。今のものをコアとして、人間はさらに、出自の怪しい(?)ものも「ファクト」として扱って行きます。その最たる物が「言葉」ではないかと僕は思っています。わんわんと鳴く、四足歩行のほ乳類……これを「いぬ」と呼ぶ事には、何の根拠もありません。何の証明もありません。実際に別の“地方”では「dog」と呼んだりするワケで、要するに何と呼んでも構わない代わりに、これが正しい!という呼び方も存在しないワケです。でも、これも「ファクト(事実)」なんですよね。(少なくとも、この記事で僕が扱う「ファクトの世界」に於いては)「昔からそう言っている」という事があれば、人間はこれも“確定事項”=“証明が済んだ”と判定している。そうやって、他にも色々怪しいものを取り入れてしまっているワケです。“生活習慣”や、“儀礼”、“宗教”など……まあ所謂“常識”と言えばいいと思うんでけど、これも人間社会を前進させる要素として取り込まれています。

さて、ここからが押し引きなんですが…!w「言い張り可能な世界」=「証明されない世界」は、証明を不要とする“無責任”な世界なのですが、代わりに(?)ここで構築されている“証明世界”を溶かす事ができます。…とは言っても「わんわんと鳴く四足歩行のほ乳類を『いぬ』と呼ぶことには何の正当性もない!!」…とか大指摘しても、皆、気の毒そうな顔をするだけで、誰も取り合ってくれないでしょうけどねw「少なくとも(ばうわう!)という鳴き声を真似る方が正当性があるのではないか?」とか主張しても…まあ、ちょっとそれを「ファクト」にまで持ち込むのは無理…だよねえw(´・ω・`)……でも、これは「言葉」の名詞という“大基盤”にケンカ売っているからって面もあって、たとえばドラマなんかで、“掟”あるいは“因習”と呼ばれるような“常識”を、これに近いノリ(?)で覆す物語を観たことがある人は多いでしょう。
何が言いたいのかというと「証明された世界」と「証明されない世界」の境界は非常に曖昧だっていう事です。人間は人間を前進させるために「証明された世界」を求めていて、それはキッチリカッチリやっていかないと行けないのに、前進は本性的に求めるけど、実は“人間ちゃん”はけっこうものぐさででもあるので、そんなにキッチリカッチリはできていないというw…まあ、そういう事ですよね。

加えて「証明されない世界」は言い張れば、本来、「証明された世界」の相当な領分までを、取り込んでしまう事ができるはずです。現代人は、常識、習慣といったものが原理の存在する絶対的産物ではない事を熟知しているので、ここらへんの大半はむしろあっさり明け渡すのではないでしょうか。先ほどの「いぬの名詞」にいちゃもんつける話も、誰も当り前すぎて取り合わないだけで、その指摘が不成立という意味ではない。……こういう“疑わしい”ものを全て排除して“確かなもの”だけを残す行為を突き詰めて行くと、その果てに何が残るか…?っていう遊びは、デカルトおじさんがしていて、有名な言葉を残していますよね?本当に言い張り続ければ、やろうと思えば“あそこ”まで行けるワケです。また物理世界の科学的な“証明”であっても、ユークリッド幾何学や、ニュートン力学が覆されたように“絶対”のものではないという“言い張り”は可能だと言えます。

人間は存在の“意味”や“原理”を求める志向を持っているのですが、宇宙の存在自体はただ在るだけで、それに何か(現在の人間の理知の範囲内においての)“意味”があるワケでは…………(我に返った)……………と言う具合に、何か「ファクトの世界」の弱い部分を論ってしまっているのですが(滝汗)知恵有る人なら、それでも“意味”を求め応える事の“意味”は既知に理解されている事かと思います。ただ、これから話す事として「ファクトの世界」も本質的には“弱い”事をカウンターとして置いておかないと、文意が有効に効かないというか、それくらい人間社会にとって「ファクトの世界」は強い意味と縛りを持っている…とは考えているんですよね。

■「楽しい」というファクト
さて、では「物語愉楽論」と「ファクトの世界」の関係の話なんですが。僕はずっと「“面白い”って何だろう?」と考えている人間なんですが、たとえば「テンポが良かった」から面白かった、「深いテーマに考えさせられた」から面白かったとして、じゃあ「テンポが悪い」と(※…というか「テンポが良い」なんて視点、速攻で「言い張り可能な世界」に取り込まれそうな価値観なんですが…wまあ、ここでは、それが「ファクト」だとしてw)必ず面白くないのか?というとそんな事はない。「深いテーマ」だってそうですよね。
「自分は『深いテーマ』があれば“面白い”し、無ければ“詰らない”、そうとしか考えない!」と自分の主観を閉じて“言い張って”しまえば、それは成立するかもしれませんけどね。「物語愉楽論」はそれを是としていません。…ん、まあ、ちょっとショートカットして話すと「面白さのパターンって無限にありそうだな…」って事になってきて、そうすると、これはもう一生つき合って行くしかないな?という結論に繋がってくるんですけど…。

【フィクションの構造】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/20b7e8c2e08342aa85b67711cec8c763
※面白さのパターンって無限にありそうだな … 概念的にまとめ、体系化してしまおう、という試みについてはここを参照。

ただ、僕の目的の第一は「愉楽する事」~自分が楽しいと感じる事であって、「面白さ」を解き明かすのはそこに至る手法の一つに過ぎないんですよね。そうやって考えて行くと、面白さの条件と思える「ファクト」と、「楽しい」と感じる“実感”の関係が非常に希薄になってくる感覚を持つようになってきて…。でも、全く関係ないとも感じない…ここらへんの難しさが正に追求すべきテーマなんですが。
たとえば、ある作品の「面白さ」を懇切丁寧に説明して、その内容は極めて妥当なものだったとしましょう。…でも「…だから、何?」と言う人はいますよね?(僕もたまに使わない事はない)「説明は分かった。でも、自分は面白く思わない」と言う話ですが。まあ、僕は僕の価値観として、自分の主観を閉じる人、分からない事に意固地になる人は恥ずかしいなあ…と思っているんですけどwでも、それは有るんですよね。その人が“事実”を言っていないワケじゃない。正にそれが「言い張り可能な世界」の領域の話と言うもので。そう考えるとね……これはとても難しい問題だなあと………え?わざと話を難しくしているように観えますか?w(汗)

【絶対視思考と相対視思考】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/06fb37c8864a033a789f1a794f41dd07

ここの記事で「相対視」の話と「絶対視」の話をしていますが、物事を「相対視」するという手法そのものは「ファクトの世界」に属する手法だと考えていますが、その手法によって“分解”された“価値”や“意味”自体は「言い張り可能な世界」の領域というか、カオスの物になるんですよね。新たに意味付けがされるまでは。概念的に言うとそういう感じでしょうか。

【 「言い張り可能な世界」についてのチャット】
http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0318.html

GiGi >> ハッカが入ってないと主張されたら、ハッカが入ってないと思った根拠を示せと言う話になる。で、話を聞くと実はハッカを食べたことがなかっただけだったりする<これはもう言い張りじゃなくて「嘘」ですよねw。まあ言葉はきついけど。
GiGi >> 後になって「実はハッカ食べたことないんですよ」なんていうなら「ハッカが入ってないなんて言うな」ということになる。これはファクトに基づいた正統な批判ですよね。
GiGi >> でも「ハッカのことはよくわからないけど、シソが入っているに違いない」という主張は尊重しなきゃいけない…もちろん、反論もあってしかるべきですが「事実じゃないから違う」という否定はありえない、と。
LD >> 「ハッカが入ってないなんて言うな」>いい所ついてますね。もどったらレス打ちます。…しかし、みんなファクトの方に興味ひきましたねえ…(汗)僕自身は「言い張り可能な世界」の話のつもりだったんだけど…(汗)
LD >> ハッカが入っているか?いないか?の判定は「ファクト」の判定であって「面白い」かどうか?とは、本来何の関係もないですよね?でも、僕らは面白さを説明しようとする時に「○○だから面白い」という話をするよね。←この「○○だから」は速攻でファクトの判定に引き込まれる。
LD >> 「面白さとファクトを結びつけてしまう人」…と言うよりは「証明できなければ“面白さ”は無い」という話に取り込まれてしまうと言った方がいいのかも?…まあ、あの話、ファクトの話は主体にしていないから、そこらへんは整えていないかも…(汗)
LD >> 「悪魔の証明」って言葉があるようにファクトは証明できないものは無い事にされる…これは厳密には“無視する”だけ、なんだけど通常は「無い事にされる」という表現が流布しているよね。(※それくらいには積極的な無視)
LD >> 「面白さとファクトを結びつけてしまう人」って言うと何か良くない人みたいな言い回しになってしまうんだけど、僕は、僕みたいに変な「面白さ」優先という価値観でなければ、相応の正当性があると思っているんですよね。むしろ、そこがミソかなあ…。
GiGi >> ん。ファクトと面白さは関係ないけど、ファクトがないと共感は得られないかもね?って感じですかね。
GiGi >> 言い張りをする人は、それが自分の言い張りであることは自覚したほうがいい。ということは言えるとは思います。
GiGi >> そしてファクトを求める人もそれが自分の思い込みである可能性は自覚した方がいい。
ルイ >> 主観に過ぎない事からも面白さを抽出できる、って話じゃないのかな?基本的に「その方が」は皆がそう思ったものをぶつけあえばいいだけで、論旨じゃないと思いますが。上司云々も完全に本主張とは切り分けで読んだ方がいいでしょうね。この辺含めると、本当に仮想敵のニュアンスが強まるから。

ここらへんのGiGiさんとのやり取りが「面白い/楽しい事」と「ファクト」の関係を、けっこうまとめていると思います。GiGiさんが、最後に述べている「自分の言い張りであることを自覚しない人」は、それを何と思っているか?というと「ファクト」だと思っているのでしょうねwまた「それが自分の思い込みである可能性を自覚しない人」は、それを何と思っているか?というと「ファクト」だと思っているのでしょうねw(※前者の「ファクト」は、それがウソでも言い張りでも否定され得ない主張という「ファクト」に寄っているのでしょうけど、いずれにせよ自覚がないと「世界を閉じ」ますね)
要するに人間は主観とファクトのけじめをつけるのが、意識しないと、なかなか難しい性質があるという事は言えると思います。「ファクト」なんて厳つい言い回しでは実感ないかもしれませんけど、「一般的には」、「普通では」、「常識では」、「みんは」…とこういったものを無検証で自分の主張の味方につけようとする事はよくある事でしょう。そしてそれを以て、あたかも「正しい」かのように振る舞う。(あるいは「学会では」とか「専門家は」なんて言葉を置く時は、主観が「ファクト」に振り回されている可能性がありますね)まあ必ずしも間違いではない(つか、“正しい”の定義次第)事なんですが「物語を愉楽する世界」では、ただ一人でも「楽しいという実感」は肯定され得るので、ここらへんの「ファクト」に対する誤認誤解は気をつけなくてはいけない。また、人間がこういう性質を持つ現実が厳然としてあるなら、この点に注意を促して言い過ぎはないだろうと思っています。

一方、ルイさんが身も蓋もなくこの話をまとめてくれていますがwまあ、何というか異様に長々と書いていますが、要するに「主観に過ぎない事からも面白さを抽出できる」話をしているワケです、確かにw…しかし実は、その抽出方法が「言葉」という不完全なツール利用が主体になるので難しいというか……ちょっと表現歪むかもしれませんが「面白さを受け取れなかった自分」もまた肯定されるのが「言い張り可能な世界」の在り様というもので、また、相手の実感を無批判に受入れても、真の(?)理解と愉楽の実感には至らない事が、こういう、ややこしい話の展開になっているのですよね(汗)僕が人と意見交換をする時、しばしば「分かったフリは最悪」という「言葉」を使うのは正にこの為です。「うんうん、その面白さも分かるよ?w」…なんて話は何時でも誰でも言える事!(`・ω・´)しかし、何でもかんでも肯定され否定されない「言い張り可能な世界」で、一体、自分は何を選び取って行くか?という事を考えた時に、人は“確しかなもの”(あるいは暫定的な確かなもの)である「ファクト」に取られやすいよね。でも、今まで散々述べたように「面白い実感」と「ファクト」は(関わりが全く無いとは言わないものの)直接の繋がりは無いわけで…そういう、ハイソでフィロソフィな視shじゃsdがじぇfhsdふぁがfgvばざfsっだ…!!(←壊れた!)…ま、悩んでるんですよ?(´・ω・`)

「物語愉楽論」は、自分の主観の世界を拡げる有効な手段として、他者との意見交換を重要視します。そして、その意見交換につかう「言葉」を意識伝達のための重要な“ツール”であると位置づけ、その“ツール”の意味を考えて行くことを大テーマの一つとしています。でも、“僕らは面白さを説明しようとする時に「○○だから面白い」という話をするよね。←この「○○だから」は速攻でファクトの判定に引き込まれる。”のですよね。
「言葉に縛られる話」は、また別の機会にして行きたいと思いますが「言葉」が伝達手段としてあまりに有効で、また、多大な局面でそれに頼り切りになるため「言葉」という「ファクト」に非常に取り込まれ心的支配を受けやすい傾向にあると思うのですが「愉楽する事」への阻害があるなら、気をつけないと行けないと考えています。同時に「言葉」があるからこそ感じる事ができる情感や感動もあると思っていて、まあ、人間が“考える”生き物である以上、切り離して考える事はできないのでしょう。というか、そういった複雑さを解いて行くのが、まあ、今、長々と話をしている“ここらへん”のテーマなんでしょうね。

言い張り可能な世界(2)

2009年06月08日 | 物語愉楽論
【言い張り可能な世界(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/1d78cda9dd4bffd2aced1dfc281eafb1

(↑)このエントリーの続きです。(1)から先に読んで下さい。


■言い張り可能な世界

さて、いよいよ「言い張り可能な世界」の話をするんですが、その例示として、ちょっと「ファクト(事実)」っぽい話(?)をつついてみたいと思います。

【批評について「カレーとショートケーキ」編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/73615fd946ea584e3587eaaea30ba727

まあ、それはそれとして簡単な事のようで意外にこれ(何を作ったかを汲み取る努力)ができていない。あるいは意識できずに批評をする人が多いようです。その原因は「ショートケーキの味わい方しか知らない」か「とにかくショートケーキ“だけ”が大好き!」という事があるのでしょうけどね。しかしだからと言ってカレーライスに対し…「何だこれは?全然、甘くないじゃないか!?液化してしかも茶色で汚らしい!第一、いちごが乗っていないじゃないかぁ!!!」……とショートケーキとしての批評をするのはかなり的外れである事は分かると思います(笑)こういう事って、よく見かけるし、自分の心当たりも無きにしも有らずじゃないでしょうか?(笑)

この項の話なんですが。作品を批評するには、まずその作品がどういう“料理”か分らないとはじめられないよね。それを怠るとカレーをショートケーキとして批評しちゃうような恥をかくよね…ってたとえ話ですね。個人的にけっこう気に入っていて、よく人にする話なんですが…ある作品(物語)に接する時、その作品が何を描こうとしているか?は、僕は間違いなく真っ先に始める事ですね。そうそう、この一連のエントリーの元になっているペトロニウスさんの発言でも…

【物語三昧:物語の主題と各エピソードによるガジェットの比率とは?】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090526/p2

「主題の本質の理解」を最も優先順位の高い価値を置くというのは、僕は、物事の正しさを考えるべき重要な選択基準だと思います。

…とありますが、僕もこれはそうです。少なくとも最初に取り掛かる「分析」ですし、仮説でもいいのでその作品の全体像を掴んで、そこから「読んで」行く事は、物語を理解する事ひいては「愉楽する事」に対して、かなり効率の良い吸収をしていける事は経験から言っても間違いありません。
…しかし、ですね。“何の料理”か見極める事はそうそう簡単な事じゃないんですよねwなんの料理か…?つまりテーマという物は「言い張り可能な世界」の領域に属していて、そう簡単に実相を掴ませないんですよね。…ちょっと、ここでハッキリ分けましょう。「何の料理を作ろうとしたか?」…これは「作り手」がその答えを持っている事でしょうね。しかし、出来上がった料理が「実際に何の料理になったか?」は「作り手」さえも預かり知れない事だと「物語愉楽論」では考えます。そして、どういう料理か考えるこの場は「言い張り可能な世界」なんですwう~わ~ww (`>ω<´)←嫌そう

「作り手」が「可愛い女の子を描きました」と言っても「受け手」が「可愛くない」と言い張れば“その人”にとって可愛くないのは(暫定ながらも)確定と言えるでしょう。たとえば「作り手」がこのカレーにはハッカを入れましたと言ったとして…「ハッカなんか入っていない。全然ハッカの風味が出てないもの」→「いや、でも作者は入れたと言っているよ?」→「それは、そいつがその気になっているだけ。シソとハッカを勘違いしているんだよ。シソなら分る」→「いや、でもスースーするけどな?」→「俺はしない!」これだ!これが“言い張り”だ!そして、ここが「言い張り可能な世界」なんだ!w……いや、なんかちょっと誤解されちゃいそうなんでアレですけど(汗)「作り手」が何を入れたか?なんてかなり「ファクト(事実)」っぽい所も、やり方次第で相当な所まで「言い張り可能な世界」に巻き込める事が言いたかったんです。【絶対視思考と相対視思考】で触れましたが、ここはズブズブの「相対視思考」を使うのに最適な場所なんですね。「ファクト(事実)の世界」はこうは行きません。あたなの思いや解釈がどうであろうと否応なく「ファクト(事実)」を突きつけるし、間違っていようがいなかろうが、ともかく結論を出し、それによって返ってくる結果「ファクト(事実)」を否応なく受け止めなければなりません。

じゃあ、むしろ「ファクト(事実)」の考え方を取り入れた方がいいんじゃないか?とか。たとえば「作り手」がハッカを入れたと言っているのだからその証言を持ってきて、それとそれに近い見解が“正解”で、それから遠ければ“不正解”という具合に割り切りましょうか。……ダメです。「物語愉楽論」はその考え方には組みしません。
「ファクト(事実)の世界」というのは“確かな事”、“説明がつく事”、“皆が納得できる事”などで構成されていて、そうでないものは削ぎ落として行く傾向があります。あなたが“そう感じているだけ”の話はファクト(事実)を示さない限り吹き飛ばされて行きます。(※とはいえ言葉や文章に顕せば、一つ小さな「ファクト(事実)」を手に入れますね)でも「物語を楽しむ」と言う事は、それを大事に扱う事なんだという話は前項でしました。

「物語」というものの基盤の所に「ファクト(事実)」がある事は確かだとしても、僕は“その方向”に「愉楽する事」を積み上げて行くつもりはありません。森羅万象の在り様、それを模した「物語を楽しむ事」が、たかだか“皆が納得できる事”なんて小さな考え方に収まるものだとは思っていないからです。

「言い張り可能な世界」は、相対視思考を低いレベルで使うドロドロの価値溶解者をのさばらせているような、智恵ある人には嫌な世界でしょうね。そいつらを「ファクト(事実)の世界」に引っ張り出して「お前は間違っている!」とやれたら、それは痛快でしょうね。でも「愉楽する事」を価値観に置く限り、「面白い」とは何か?僕が感じる「面白い」とは何か?それはそう簡単に白黒はっきりつけられる話じゃない。「言い張り可能」とは、常に可能性が残されているという事であり、すぐに結論が出るなんて考えで「楽しむ」範囲を狭める選択をしたくはない。……大丈夫です。この世界は(最終)結論を出さなくていいという事が、短所であり長所なんです。…つまり、時間だけは死ぬまで目一杯あります!!(`・ω・´)

え~っと。いろいろ回りくどく前振りしましたが、要するに僕はどんな楽しみ方でも、その人が真実楽しんでいる限り肯定されるという話をしています。他の人の作品批評や、作品分析は違うかもしれません。しかし「物語愉楽論」は「楽しい」、「面白い」が引き出せればそれでよく、基本的に間違った楽しみ方、間違った面白さという考え方をしません。

…これだけだと納得いかないというか、反論したくなる人がいるのではないかと思いますので、補足…というか話を続けると、(その人が真実「楽しんで」いる限り)間違った楽しみ方はありません。ただし「小さな楽しみ方」はありますね。ある作品の一部分だけを楽しむ…みたいな感じでしょうか。対して「大きな楽しみ方」、「深い愉しみ方」というものもあります。そしてより大きく、より深く、楽しむ事を目的としていますので「小さな楽しみ方」に留まる事は「是」としていません。故に…ちょっとどういう状態かイメージないですけど概念として「楽しむ世界を狭めてしまう楽しみ方」は、真実楽しんでいてもダメですね。まあ、あとね。一応言うと犯罪絡みとかもダメですねw文字通り“論外”でダメ出しですよね。「ファクト(事実)の世界」からの干渉として(汗)w(←でも、こういう極端な反論をしかける人がいる)
「楽しみ」を拡げて行くのは他者との意見交換が一番効率いいと僕は思っています。それ故、意見交換の「伝達効率」を上げるために、この論を書いたり「言葉」の整備をしたりしようとしているわけですね。

ものすご~~っく、作品からかけ離れた所で楽しんでいたとしたら、それは“おかしい”のではないか?みたいな意見の人もいると思うんですけどね…。それは「そこに留まる事」は肯定していないから、いずれあなたが納得できる「楽しみ方」にも来るでしょう…という返しになるかな?また、普通は、皆と大体同じような楽しみ方をした方が、楽に「楽しめ」ますし(←笑)連鎖や共鳴もあってより大きく、深く行き易いんですよね。それにも関わらず、何かちょっとずれた所で真実「楽しんで」いるのだとしたら、少なくともその人にとっては何かあるのでしょう。それを非常識とかそういう観点で云々言ってもしょうがない事だと思います。
ただし、くどいようだけど、そこだけに留まらない事。また、「言葉」を磨いて、そういった部分も「言葉」で伝達して行く努力をする事は必要ですね。

【観客として】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/099a5770473f38a2a6d6276784366ba1

「群盲象を撫でる」ということわざがある。これは「巨大なる者を測ろうとする愚かさ」を喩えたものだが、それでも“象”を知ろうと思ったら、他者の意見を聞き、自らも発言して、情報を構築していくしかない。そして自分一人でより多くの部分をカバーできる自分を目指し、いずれは“象”一匹全て己のみで理解できるようになりたい。
でも、今は駄目(←笑)今は全然そのレベルじゃない。だから『面白い』と感じたり、『つまらない』と感じたりすることに嘘をつかない。「うんうん、その『面白さ』も分かるよ」と分ってるフリをしない。そしていずれは、あらゆる『面白さ』を理解できるようになりたい。その為に今は『面白い』ことと『つまらない』ことを徹底的に考える。観客として。

むか~し、書いた決意文なんですけど、まあ「物語愉楽論」の出発点そのものが書かれています。「群盲象を撫でる」のたとえは、今、上で話していた事を、たとえ話にまとめたものという事になると思います。

そして最後に「『つまらない』と感じたりすることに嘘をつかない。」という話をしてこの項を終わります。僕は「物語愉楽論」の目的として、最終的に全ての「面白さ」を理解する事(「愉楽」する事/体感する事)と述べています。そして、それを実現させる、その場所が「言い張り可能な世界」である事を説明しました。……それはどういう事かというと、外面だけでいいなら、その目的は今すぐにでも達成できてしまう事なんですよね。「全てを楽しむ」なんて、大仰でご大層な事は、口だけで「うんうん、その『面白さ』も分かるよ」と言えば達成されてしまう。「ファクト(事実)」に晒され続けても、その言葉が言えるならそれはそれで“本物”と言えるかもしれない。…でも、ここは「言い張り可能な世界」で、口だけなら何とでも言える世界なんです。
口で上手く「伝達」できない事は、口で上手く「伝達」できない事以上のものではない。本人が「面白く」感じてはいない事の証明にはならない。…結局、本人が真実「楽しんで」いるか?「楽しみ」を分っているか?は、本人以外誰にも分るはずがない。だからこそ嘘をついてはいけない。もともと口では何とでも言える世界だから。「言い張り可能な世界」だからこそ、言い張ってはいけない。謙虚でなければ、こんな目的、最初っから無いも同然なのだ。

というのが僕の価値観の話ですね。ここ、すっごく足場悪い事分かってるけど僕がんばる…みたいな?………まあ、これを他者にどうこうというつもりは無いのですが、僕と意見交換する時とか、ああ、こういう事を考えている人なんだなあ…と思ってもらえると「伝達効率」がいいかなと。あと、断片的にでも、この話を何かの“足し”にしてもらえると幸いです。


※「言葉の位相」の話もほどなくしようと思います。


言い張り可能な世界(1)

2009年06月07日 | 物語愉楽論
【絶対視思考と相対視思考】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/06fb37c8864a033a789f1a794f41dd07

(※この話の続き…という事でもないのですが、先に押えておきたかった事を後書きします)

僕は、このブログで「物語愉楽論」という話を展開しているのですが、これは物語を楽しむ(「愉楽」する)考え方……のようなものを述べています。「面白い」って何だろう?この作品は何で「面白い」のだろう?逆に何で「詰らない」んだろう?という事を一人で(あるいは誰かと)考えている時に、思いついた事、考えた事をつらつらと書き留めているんですけどね。最終的に全ての「面白さ」を理解する事(「愉楽」する事/体感する事)を目的としています。
いろいろ大仰な事を喋ったりするかもしれませんが、この場で僕が話す考えや価値観はこの範囲を出る事はないと思います。…で「そうしよう」と決めた時から、この「物語を愉楽する世界」に身を置いて……身は置いてませんねw 心を置いて、実感した事の一つが、この世界は「言い張り可能な世界」なんだなあ…という事です。それは“空想”と“遊び”の世界だから……って事もありますし、「言葉」の世界(「言葉」の支配が大勢大半を占める世界)だからって事でもあります。今回その話をしようと思います。

■ファクト(事実)の世界

まず「言い張り可能な世界」の話をする前に、その逆の世界、僕は「ファクト(事実)の世界」と言いますが、その話から入りたいと思います。…空想の世界の逆だから、現実世界とか、リアルの世界とか言ってもいいんですけどね。僕自身は、じゃあその現実は何処が違うのか?リアルの何処が違うのか?という事を考えた時、ファクト(事実)が違うのだと思うのですよね。じゃあ、ファクト(事実)って何かって言うと、これは社会の成り立ちというかビジネスとか政治とかの交渉を見て行けばいいと思うんですが…。

たとえば会社で何かの報告書を書くとしてですね…

○日付:2009年6月7日 13:30~15:00

○場所:TeraPadビル

○出席者:漫研様、今何処様、LD

○決定事項:
 1)件名「××××」について契約書を受け取り。(契約完了)
 2)質疑応答…(省略)不明点については持ち帰り6/8までに一旦メールで回答する事。
 3)○○の件について現在、調査中。6/15に状態を確認し再度、方針決定。

○次回予定:6/15 ○○の件について方針決定。

……まあ、適当に書いているので、いろいろ穴があるかもしれませんが(汗)大体、こんな感じの項目を埋めて行きます。こういう世界では言葉もファクト(事実)として扱われる事が求められます。それは他の解釈の余地が無い(絶対的)が求められる世界だという事なんですが、たとえば日付…2009年6月7日と言ったら(西暦の)2009年6月7日の事だし「6/8までに一旦メールで回答する事」と言えば、6月8日までにメールで回答する“約束”を意味し、それ以外の解釈はありません。
この世界において、あなたの上司から「△△の件についての報告が抜けているのは何故だい?」と聞かれたとして、あたなが「…???そこは“行間”から読んでくださいよ!?」……と、ぬかしたとしたら   (=´ω`=)   あなたの顔は次の瞬間変型してしまうか、あるいは次の日からあなたの机は無くなっている事でしょう。(←や、そこまでの事は起きないけどw)……しかし、「物語を愉楽する世界」であれば、行間を「読む」というのは、正に「愉しむ」ため「遊ぶ」ための最初のとっかかりと言ってもいい行為だと思います。同じ「言葉」であっても「愉楽する世界」と「事実(ファクト)の世界」では求められるものがまるで違っています。

まあ「現実の世界」であれば行間を読む事や、空気/雰囲気を読む事が必要な事はあるでしょう。だから対比としては「現実」ではなく「ファクト(事実)」なんですけど、「ファクト(事実)」が絡む限り、この行間読みや、空気読みは、あたなに否応なく正解を求めてきます。この問題は、あなたの見解や注釈(言い訳)など求めていません。そして正解が出せなければ、あなたは事業を失敗したり、人間関係を悪化させたり、そういう、「ファクト(事実)」を容赦なく突きつけられるだけですね。それが「ファクト(事実)の世界」というものだと思っています。

んんん~っと?俺様、今、この不景気な社会に対してけっこういい話してるんじゃね?(`・ω・´)社会人の方には余計なお世話だけど、学生さんとか、新入社員の方たちのために、もう一つファクト(事実)なたとえ話をしてみようかな?(`・ω・´)……今、報告が足りなかった場合の話をしたんですが、逆に内容が多過ぎるというか…ようは変に饒舌である事が「ファクト(事実)の世界」では忌避…悪評価になる事があります。

「△△の件なんですけど。僕もがんばって説明してみたんですが…相手が、なかなかこちらの事情を分かってくれなくって、□□さんも、途中でフォローしてくれたんですけど、それでもダメで……それで、あの、雰囲気的に、とても△△の件は話し出せる感じじゃなくって…」

んんん、まあ、あんましリアリティな感じじゃないかもしれないですけどw…こんな感じで口頭での報告をしていたとしましょう。そうするとちょっと意地悪な人なら、こんな感じの返しをしてくるかもしれません。「お前の“主観”は聞いていない。事実(ファクト)だけを述べろ」と。「ファクト(事実)の世界」は「言葉」だけの“がんばった”とかを求めていません。がんばったなら、その「ファクト(事実)」があるだろう?という話になりますね。これは必ずしも“成功した結果”だけを求めているって事でもなくって(無論、最終的にはそれを求められるのだけど)…がんばった証拠、成果物があろうだろう?と言う事です。…おっかないよねえ~~!!?(((゜Д゜;)))ガクガクブルブル 僕も実際、何時野垂れ死ぬか分かんないんだよ~wホントの話が…!w
まあ、そんな感じに「ファクト(事実)の世界」では基本的に主観の話は必要とされていないですね(主観を持った結果、反映された「事実(ファクト)」を求められる)。それでも主観の話をねじ込もうとしたら責任という「ファクト(事実)」を引き受けた時。あるいは指導や経営的立場にいる人は否応なく全てのケツを持つ責任(ファクト)がのしかかるが故に、主観=決断を求められる立場……という事も言えるかもしれません。

しかし「物語を愉楽する世界」は正に“主観”から出発をします。今、僕は「客観も主観に過ぎない」という観点で話をしますが、主観の世界を旅する事と比喩してもいいように思います。無論、僕の実存が「ファクト(事実)の世界」にある以上、そこを基盤とする事は間違いありません。また「愉楽の世界」から持ち帰った物を「ファクト(事実)」に反映する事もできるでしょう。しかし、「物語(空想)の世界」の「楽しさ」とは「ファクト(事実)」から自由となる事こそが出発点であり、「愉楽の世界」を「愉しみ」、「遊ぶ」事は主観の世界の拡がりをこそ求めているからのものなんだと……僕の目的とするもの「物語愉楽論」はそういう物ですね。

最後に「ファクト(事実)」としての「言葉」について述べておきます。最初に僕は「ファクト(事実)の世界」の報告として、解釈の余地無く使われる「言葉」の話をしたのですが、これはどういう意味のものなのか?

【言葉はツール】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/338f2a8d55210bab964216e766e26e9f

この項で僕は「言葉は不完全なツールである」事を述べています。誤解や伝達不足はもう前提のツールなんだと。これに対して「ファクト(事実)の世界」はどのように「言葉」を使う事にしたかと言うと、確実な言葉、解釈の余地が極少な言葉を選び、それの語意を崩さない構成文法を編みだし、それにそって記述する方法を選びました。それは、どういう事かというと世界の在り様の中で不確かなものは切り捨てて「ファクト(事実)の世界」が存在するという事なんです。少なくとも「物語愉楽論」的な視点から見ればね。実際に「ファクト(事実)の世界」で詩的な表現が基本御法度な所は今例にあげた通りです。森羅万象の在り様にアプローチする「言葉」の中で、確定的に説明でき解釈の淀みのない「言葉」だけを抜き出し文字/文章として構成された世界が「ファクト(事実)の世界」と言う事になります。しかも、そうやって選り抜かれた「言葉」たちでさえも、ここで述べた通り…。

たとえば「条約」や「契約」あるいは「憲法」というのは、規定や強制力の根拠をその文言に全て依存するという、「言葉」という事象(正確には文書だけど)の力を最大に評価した、最上のステージの一つだと思うんですが、国権の最高機関同士によって取り決められた条約や声明文に対してさえ「解釈の違い」というものを完全には排除仕切れないわけです。(場合によっては解釈が分かれる文言じゃないと合意しなかったり)「憲法解釈」の議論はいつだってありますしね。憲法の文言が真に明確に余すところなくある一事象を指すならそんな議論はそもそもおきようはずがありません。

条約や契約書においてさえ完全に解釈の相違を排除する事は大変な困難が伴うわけです。(←“排除仕切れない”と書いて変に突っ込まれるより、“大変な困難”で留める方が面倒くさくなくていいと思ったらしい)まあ、何が言いたいかというと、やっぱり「言葉は不完全なツール」であるって事ですね。たとえ「ファクト(事実)の世界」で運用しているとしても、それは世界の在り様を狭める事と引き替えに限定した、使われ方なんだと……そういう話です。


※時間が迫ってきた事と文字数関係から一度上げます。(↓)続きです。

【言い張り可能な世界(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/27376fb92115e5ca89dcbdd7166e6a26

絶対視思考と相対視思考

2009年06月04日 | 物語愉楽論

【物語三昧:物語の主題と各エピソードによるガジェットの比率とは?】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090526/p2


「主題の本質の理解」を最も優先順位の高い価値を置くというのは、僕は、物事の正しさを考えるべき重要な選択基準だと思います。

よく、たとえば本や漫画を、「それをどう受け取り解釈するかは十人十色で何が正しいかは決められない」という相対論が、さも正しいように言われますが、僕は、間違っていると思う。やはり、絶対的とは言わなくとも、供給サイドと需要サイドの両方の一地点である「主題の本質」ってのが、、、それがグラデーションであれ、あって、その「幹」からの距離で相対観は図られるべきなんだと思うんですよ。でなければ、文脈というものに意味が失われてしまうと思う。

けど、これって、「選択基準」であって、いやそうじゃないよ?ということは可能なものなんですね。抽象的にいうと、絶対と相対の戦い。

◆ななし 2009/05/27 20:25
そもそも物事の正しさを考えようとする人がなんで漫画に『こうでなければといけない』を求めてるんですか?
文脈というものに意味が失われてしまったとしてもその漫画が正しくない漫画だとは限らないでしょう?
それこそ本質を失ってると思いますよ

◆アオイ 2009/05/29 11:51
喚起されたのでコメントしてみます。

多く、「(絶対論的な)作品の本質」は「作者の意思」と同義に扱われているように思います。
エントリにある「本質」=「供給側と需要側の一地点」という考えは、その地点が存在する限りは有効かもしれません。
しかし「世界の中心で~」でみられたような、供給側と需要側の著しい解釈の不一致(前者にとっては恋愛小説でしたが、後者にとってのテーマは死生観)を考えるとすべてに当てはまる考えではないのでしょう。

また、作者の意思を読者が正しく裁定できるという保証はどこにもありません。
論語に「書不尽言 言不尽意」とあるように、作品が作者の意思を十全に表現しているわけではないでしょうし、「この文章の読みはこれであってるか?」なんて作者に聞くこともできません(作者が故人の場合は特に)。
絶対論的な読み方を追求したいなら、このへんの不可知性をどうするかが問題ですよね。

ちなみに、相対主義的な読み方によって文脈の意味が損なわれる、とは限らないと思います。
文脈を「センテンスどうしのリンクによって生まれる新しい意味」と考えるならば、
「文章全体と読み手がリンクして生まれる意味」も広義の文脈ですし、これはつまり「読み手ごとの解釈」でしょう。




このペトロニウスさんのエントリー自体は、おそらく別の主題を提起をしていて、引用箇所は文章の流れから軽く触れた見解に過ぎないと思うので、ちょっとリンク取ろうかどうか迷ったのですが…。しかし、コメントをされている方々は、正に“ここ”に反応して、レスを返されている。…なぜ、そこが琴線に触れるのか?…というと「絶対と相対の対立」があるからなんですよね。そこらへんの構造の話をしたく喚起されたので、ちょっと論点違いで申し訳ないと思いつつも引用させてもらいたいと思います。(すみません)

おたくの……多くは形而上的な界隈の議論において「絶対視思考」の意見と、「相対視思考」の意見の対立を目撃をしたり、あるいは当事者になった事がある人はけっこういるのではないでしょうか?まあ、議論をすれば対立はかなりの高確率で起こるものなんですが、この二つの思考の対立はけっこう根が深いですよね。…なんでかって言うと、いつまで経っても平行線な考え方だからなんですけどwその為、互いに忌避する(嫌っている)関係をとっているように思えます。「絶対視思考」者にとって「相対視思考」は「結論を出す事から逃げている思考」に思え、「相対視思考」者にとって「絶対視思考」は「勝手な意見の押しつけをする思考」に思える……と、細部の見解は人によって違うとしても、そんな感じの対立でしょうか?


※1 ちょっと押えておきたいポイントとして、今、「絶対」、「相対」と言葉を使って話を進めているワケですが、これはいわゆる学問的な「相対主義」や「絶対主義」を必ずしも指してはいません。まあ、ここらへんの話で、しばしば「それは本当の意味の(学術的に正しい)“相対主義”に当たらない」という反論を受けたりするからなんですけど……それは僕が話したい主旨とちょっと違うw…僕が話したい事は、僕も含めた学問に疎い一般の人の誤解、曲解、我田引水等、ない交ぜにして便利に利用されている「理屈ツール」としての「絶対的」、「相対的」なんですよね。だから別の言葉でもいいのですが……一般的にこういう言い方だしw全く無関係ではないはずなので、この言葉を使っているという事になります。

ここらへん「物語愉楽論」で整備しておきたい課題なんですよね。意見交換/議論というのは、物語をより「愉しむ」ための手法として不可欠と言っていい手法で、その意見交換/議論は、「物語愉楽」のフィールドにおいては潜在的に「絶対と相対の対立」を抱えているように思えます。従って「絶対視思考」、「相対視思考」を如何に扱うか?は「物語愉楽論」において扱いたいテーマの一つです。
しかし、この話を始める前に、順番としては、たとえばこの“物語を愉楽する”というこのフィールドは「言い張り可能な世界」である話とか、これまで「言葉はツール」とか「言葉が死ぬ」とかの話はしてきたんですけど、まだ「言葉に縛られる」話や、「言葉の位相」の話はしていなくって……本当は、ここらへんの話を絡めた上で組み上げて行きたい話なんですよね。…う~ん(思考)まあ、凡て整えてから…とか言っていると遠い道程の話になるんで(汗)今回の機会とかタイミングとかにあやかりまして、まずは触りの話でもしておこうと思います。

…って、結論から言ってしまうと、自分で対立、対立と繰り返しておいて何なんですが(汗)僕はこの「絶対視思考」と「相対視思考」は対立状態にないよ、という話をしたいのですね。
たとえば、上の話でペトロニウスさんは「絶対視思考」の立場をとり、その戦いと述べながら、最終的には「選択基準」だと言っています。この逆説が可能と言ってしまうのは、つまる所「相対視思考」に取り込まれてしまった事を意味するのではないか?という“言い方”があります。
…しかし、一方のななしさん、アオイさんの意見を観てみると、文脈的には「相対視思考」の立場をとっているように見えるのですが、ななしさんは「本質を失ってると思いますよ」と書き添えて、本質を失う事は正しくない……と「絶対視思考」を取っているようにも見えます。また、アオイさんは……まあ、ある意味冷ややかにwペトロニウスさんが提示した価値の逆説を述べて「相対視思考」を展開しているのですが…。しかし、それでも最後に余談として「相対主義的な読み方によって文脈の意味が損なわれるとは限らない」と、文脈の意味が失われる事についてはペトロニウスさんが提示した「選択基準」に合わせています。

これ、もっと本当にドロッドロ!の「相対視思考」の話をするなら「本質を失ったからどうなの?」、「文脈を失ったからどうなの?」ですよねw

でも、この話の焦点部分……「本質を失う」とか「文脈を失う」と分岐しているのを統合させてもらうと「本質の理解」になるんじゃないかと思いますが、そこについては両者に「絶対視」の合意があるように「観え」ます。また、ペトロニウスさんは「絶対視思考」側を表明しているけど「解釈の絶対」は述べていないように思います。これは本質の範囲内において複数の解釈が発生する事を認める文章に「読め」ます。また、ななしさんや、アオイさんも「本質の理解」を是として(そう「読め」る)反問している以上、「なぜ“こうでなければいけない”を求めてるんですか?」と言いつつ、その範囲は「本質」を失わない範囲内……要するに今、上(↑)で上げた、ドロッドロの「相対視思考」の立場は取っていないように「読め」ます。(ただし、本質とは何?って話でまたドロドロしてくる可能性があるのですけどねw)じゃあ、どこが争点か…と、あまり長々細々と解説するのは止めますが、ここらへんってつまり結論は近似(歩み寄れる結論)のはずなのにスタンスの違いから「絶対と相対の対立」に取り込まれてしまって「位相」を起していると思うんです。(この「位相」あるいは「言葉の位相」の話はまた別の機会に回します)

…………ここまで読んで、この話を屁理屈積みの挙げ足取りに思われる方もいるかもしれませんが…(汗)僕はそんなつもりはなくって、要するに言いたい事は、僕が知る限り知恵有る人は「絶対視思考」も「相対視思考」も両方きっちり使っているって事なんですよね(まあ、当然の話なんですが)。
「相対視」の思考的な意味は対象の“検証”と“分解”、「絶対視」の思考的な意味は対象の“保守”と“再構築”にあると思うのですが、たとえるならナイフとフォークのような関係と言えるかもしれません。…ナイフで肉を切ることができてもナイフだけだと肉を口へ運べない(運ぶのは不要に困難)。…フォークは肉を口に運べるけが肉が口に収まるように切れない(収めるのは不要に困難)。…こんな感じ?(汗)ま、何でもいいんですがw(←誤魔化した!)これの繰り返しで血肉を得て「思考」を深めて行くんですね。

繰り返しますが(スタンスとして「絶対視」側、「相対視」側の立場を表明しても)知恵有る人は、この二つの思考系統を上手く使って「思考」を進めていると思います。…じゃあ、なんで「絶対と相対の対立」なんて構造があるのか?ペトロニウスさんが「絶対と相対の戦い」と述べているし、僕の周りでも一家言ある人にこのワードを伝えれば、それだけで意味が通じる状況は存在しています。
…極端な「絶対視思考者」か「相対視思考者」に出会ったか、仮想敵とした所があったんですかねえ?wガッチガチに不寛容排他な「絶対視思考者」や、ドッロドロな意味解体の「相対視思考者」(擬音でどんな感じがイメージしてくださいw)に遭遇して“逆張り”を決意したとかね。(あるいはシャドウに遭ったか…)
まあ、あんまり深く考えなくっても、単純に標榜って事なんでしょうけど。同時に標榜=指針くらいの意味に留まるように思えます。何故なら、畢竟、対象やケースによって違うというのが真相だし、大抵こちらも相手も“両方の系統を使っている”から。故に(極論者は例外として)相手が何を「相対視」して、何を「絶対視」しているのか?という具合に丁寧に「受信」→分析して行かないと、不要な「位相」で話が進まなくなるったりすると思います。

まあ、あと「漫研」では「今週の一番」と言って、週に一度、週刊少年誌(4誌)で一番「面白かった」連載作品を一本選んでいるんですが…。どこかに僕の発言で「一番を決められると思っているわけではない」というような物が散見できるかと思います。でも、毎週決めている。できないと思っている事をやっている。…何故か?というような点も、この話に絡んでくるのですが、大分、長くなったので、この辺で止めて、またの機会にしたいと思います。

答えはベタです!!

2009年02月25日 | 物語愉楽論


「答えはベタです!!ブラックのベタではなくよくあるのベタ。ベタと意外性は反対のようでイコールです」

「バクマン」第23回で、アシスタントたちに言われて連載の5話目を描き直す事にした新妻エイジのセリフですね。新妻エイジというのは、天才型のマンガ家で、何を意図してそういう事を言ったのか?というのはほとんど計り知れないところがあるんですけど…まあ、ちょっと面白い言葉なので、僕なりの解釈に基づいて解説してみようかなと思います。

【フィクションの構造(改訂版)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/20b7e8c2e08342aa85b67711cec8c763

以前の記事で少し触れているのですが…。

(2)共感  観客が物語内の出来事を、別の場ですでに体験していたことを感じること、あるいは発見すること。そこで観客はその元の体験に基づいた同じ反応、可笑しければ笑い、悲しければ泣く、といった感情の昂ぶりが起こり、そこに「生命の実感」を感じることになる。これは感情移入の対象を観客に用意し、その対象に文字通り「共感」させることによって作者の意図した感情へ誘導させる、という手段がとられる。
(3)意外性  観客に予想外の出来事を与えてそれによって感情を昂ぶらせる。人間は知恵を発達させることを「選択」し繁栄した動物で、その知恵の発達のために常に新たな情報・知識を必要としている。新たな情報の中で最も貴重かつ重要な情報は「意外」な情報であり、それはそのまま人間が(知恵の発達のため)潜在的に「意外性」を好み求める性質を持っていることを意味する。つまり人間は(生命の安全が完全に確保された状態なら間違いなく)「意外性」を感じることに悦びを見出す生き物なのである。ただし同時に人間は一切の「共感」を伴わぬ「意外性」には対応できないものであり、そういった作品は理解されず多くの場合「つまらない」「一人よがり」といった評価を受ける。


ここらへんの話になってくるんですが、先に“ベタ”って言葉を(物語的に)説明的な言葉に直すと「習慣的な物語情報」になるかな?と思います。その習慣がどの範囲にまで通用するか?という問題はあるのですが、それが対話者の間で“習慣的”である事が合意されれば、まあ、その情報が「ベタ」である事が(対話者の間で)確認された事になると思います。

…で、この「習慣的な物語情報」と言うものは、原則的に「共感」~この場合、安心感かな?~を引き出す事においてポジティブ、「意外性」を引き出す事においてネガティブなんですよね。

習慣的な情報であるが故に、観客をその習慣の文脈に基づいた「共感」の誘導をしやすい……その反面、知っている情報であるが故に「意外性」はほとんど感じる事ができない……「ベタ」という言葉が毀誉両方の意味を持っているのはこのためで……いや、すみません(汗)物語というのは多くの場合、基本要素として「意外性」を求められてきた経緯があるようで「ベタ」という言葉も、あまり誉め言葉としては通っていませんね(汗)その証拠にベタに対して「マンネリ」とか「ありきたり」とか批判的な評価の言葉はよく見かけるのですが、好意的な評価の言葉は…う~ん「十八番」?「定番」?「いいパターン」?何かありますかね?あんまり思い浮かばないですよね。実際には、もう随分昔から「ベタ」である事は充分に価値がある物として物語演出に採用されていながら、それを誉める言葉は整備されていないんですよね。ここらへんが「ベタ」と「意外性」が相容れない話になります。

…が、実際には、この「ベタ」な展開というものが、「習慣的情報」として昇華されるまでの経緯というものがあるはずなんですよね。これが「反対のようでイコール」という話にかかってくると見ています。まず、ある意外な展開A、意外な設定Aが、先ほど述べたように物語が基本要素としての「意外性」を満たすために呼び込まれた。そして、その“意外属性”を持つAが、やがて「習慣的情報」に“枯れて”再利用され続けて来た事にはどういう意味があるのか?って話で。逆に本当に一回きりで再利用されない「意外性」もあるわけで………おそらく「ベタ」に致るものには物語における本質的な価値か、汎用的な価値のどちらかがあるんだろうなと思っています。ここが一定水準を超えて汎用的に昇華(整備?)されたものは「ドラマツルギー」とか言われるんですけどね。逆に概念的に昇華せず“まんま”だとパクリとか言われたり…難しいですねえw

また、引用の記事の意外性の箇所…

ただし同時に人間は一切の「共感」を伴わぬ「意外性」には対応できないものであり、そういった作品は理解されず多くの場合「つまらない」「一人よがり」といった評価を受ける。

ここに書いたように、人間は(その人にとって)本当に“意外”な物には対応できないんですよね。ここでいう“本当に”って難しい表現なんですが…まあ、今の話、想像の“斜め上”くらいまでは対応できるし「愉しめる」んですよね。でも、この時点で「本当に意外」とか「想像を絶する」とか言う人はいうんで、表現難しいwただ、どこかに(その人にとって)お上限はあって、そこからは対応できない世界に入って行く…不条理なものとか、シュールなものとかね。たとえば僕がピカソの絵をよく分らないのは、僕にとっての“意外性の上限”を逸脱されちゃっているからだと思っているんですよね。(※ただ、想像を絶する事を認めた時点で「想像を絶する」という想像内の分類が可能になって、その時点で「想像内のもの」として対応する事ができるようになるはずなんだけど、今はそこまで話さなくてもいいかな)結局ね。共感と意外性は表裏一体な面があるんですよね。「意外性」が提示された後に「共感」が伴わないと、その「意外性」は対処できないものとして看過や拒絶をされてしまう場合がある。また「意外性」を効果的に使って行かないと「共感」への誘導は難しい。

……なんか取り留めもなく長々書いてしまいましたね……orz(汗)ここらで、言いたいことをまとめますと、以前、別の記事で「キャラクター」と「ストーリー」は有機的に繋がっていてその領分を明確に分離できない事を書きましたけど、「演出」効果の分類、「テンポ」、「共感」、「意外性」もまた有機的なもので。この場では思考の整理のために意味分けしてあるんですけど、本来的には分離が難しいものなんですよね。(イコールの話に繋がる)ここらへんの認識を違えずに思考を進めて行きたいねって事と。
あと「ベタ」とか、ベタの分類の一つなんですけど、たとえば「○○フラグ」と言ったものは、上記したような複数の演出効果を瞬間的に完成させるような優れた素材である事が多いんですよね。そこらへん、ぼちぼちと話を進めている「情報圧縮論」にも繋がってくる話なんで、ぼちぼちと「ベタ」と言う物の価値を意識しつつ、物語を分析して行きたいなあと思っています。

キャラクター主格とストーリー主格 ~「ストライクウィチーズ」と「屍姫 赫」の話~

2009年01月21日 | 物語愉楽論
http://www.tsphinx.net/manken/room/clmn/j_charstory.html

「ストライクウィチーズ」とか、「屍姫 赫」が描いているものの分析の話ですね。
本当はこっちの「物語愉楽論」で早めに「主格と従格」の話をしなければ、いけないんですが……とはいえ、「主格と従格」って言葉は、自分としては直感的にその意味は測れる、伝わりやすい言葉じゃないかなとも思っているんですけどね…。

言葉が死ぬ

2008年09月10日 | 物語愉楽論
【言葉はツール】http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/338f2a8d55210bab964216e766e26e9f

僕は時々、言葉の意義を精査する議論において「言葉が死ぬ」という話をします。それはどういう意味かというと、自分が何か説明する際に持ち駒として使っている「言葉」の自分自身の整合性において、ある事象を指す「言葉」の意味が拡散して、情報交換や議論を組み上げるツールとしての利便性が大きく低下し、そのまま使って行くと次第に話の歪み(不自然さ)が拡大して行く、あるいはその意義自体が無効化されてしまう状態になる事を指します。(←…もっと簡潔にならない?)

これは、ちょっと詭弁のテクニック的なものの中に近いものがあって……それを僕は「言葉を殺す」なんて言い方をしたりします。
たとえば、任意の人に対して「怒りっぽい」人かどうか?というような議論があるとして…ここで「怒りっぽいとは何か?」という定義付けを図る議論を始める事になったとしますよね。…実際はそもそも「怒りっぽい」とは曖昧な印象を表わす「言葉」であって、そのまま印象をダベるのが、まあ普通なのですが、そこを急にハッキリさせようとか考え出したりしてw「そもそも怒りっぽいとは何だ?」とか言い出して、それに誰も反論がないような線引きを目指したりすると、その線引きが極端に走り勝ちになったりする事があります。
人間なら全く怒った事がない人というのは、まあ、そうはいないでしょうし、逆に24時間ひっきりなしに怒っているって人も、まあ、いないでしょう。……そうすると「実は誰もがみんな怒りっぽいんだ!」とか、「起き活動する時間の半分以上を怒って過ごしていなければ怒りっぽいとは言えないんじゃないか?」とか、定義づけの議論の誘導の仕方一つで、この議論の結論を操作される場合があるんですね。大雑把に言ってしまうと変な話になる!w(ここらへん、そういう議論の流れを体験した人なら分かりやすいと思うんですが)

……え?それは子供だましの屁理屈ですか?wいや、そうなんですけど…(汗)今は“たとえ話”として瑕疵の分かりやすいものを用意しているって事もありますし、こんなシンプルな形ではなく、もう少しいくつかの“言葉遊び”のテクニックを複合すれば、けっこうその変な話がスルッと通ってしまったりするんですよねwあんまり議論する事に慣れていない人は、思ってもみなかった部分の定義そのものをズラされると、そこでもう混乱してしまいますしね。
「怒りっぽい」なんて言葉は曖昧でもあるけど、まだ全然一般的イメージから共通項を測りやすい「言葉」です。しかし、一般社会ならともかく「物語愉楽」の世界ではもっと曖昧で、未定義な言葉が飛び交います。最近だと「萌え」なんて最たるものでしょう(←最近か?)

※しかし、そう言い出すと今度は「じゃあ、もっと言葉をなべて厳密に定義付けしていこう」と言い出す人もいますが、それはそれで大事なんですが、何事もバランスというものがあって。「言葉はツール」の項で述べているように「言葉」の曖昧であるが故に保持されていた利便性を消してしまったり、あるいは定義付けした結果、一般的イメージではこの「言葉」の範疇に入るものを弾いてしまい乖離が起って、かえって伝達効率を落としてしまったりするんですね。こういうのは中庸にして正解無く、結局のところ「言葉は何のためのツールであるか?」という本道に立返って考えて行くしかないですね。

…で、定義を誘導なんてネガティブな「言葉」を使いましたが、自分の信じる定義付けを主張するのは当然で、基本的にはその行為には問題ありません。しかし、それを意識的にしろ、無意識的にしろ、自分の出したい結論のために定義づけを弄び、極端な規定を定めたりすると、たとえば「実は誰もがみんな怒りっぽいんだ!」とか言い出すと、「怒りっぽいという言葉が死んで」その上に次の議論を組んで行けなくなるんですね。…怒りっぽいの上にどういう議論を組むかは知らんですが(汗)(う~ん、上手い例えじゃなかったなあ…でもそれしか思いつかなかった…orz)
いや、別に上に組んでもいいんですけどね。でも、世にある極端な原理主義とかカルト思想は、ある議論に強い人間が議論に勝たんが為に「言葉」を弄び(勝つとリーダーになれますしねえw)、反論の難しさに重きをおいた極端な誘導をし、その歪みを省みることなく次の弄びを積んだ結果、そこにはまり込んでしまう…という面もあると思うんですよ。

まあ、ここらへんもバランスとして…wそういう風に「怒りっぽい」という「言葉」を用意する意義自体を失するところまで話が行ってしまいそうな時に…

それは「言葉を殺してる」んじゃない?

…と指摘する事になります。共通項として(「言葉を殺す」という)その「言葉」が無ければ「定義付けを極端に振る事によって、その言葉の意味をズラしてしまって、次の議論に使えなくしてしまっているのでは?」かな?これは局面によって適宜に変わって行きますね。まあ、変に反論の難しい「言葉」とかに飛びついたりしないで、次の議論、先のある議論を見据えて「言葉」を組みたいですね…とそういう話でしょうか。

さて本題の「言葉が死ぬ」ですがw(←まだ本題じゃなかったのかい!)……まあ、大体、これまでに上げた「言葉を殺す」話と同じようなものなんですが……未定義的な「言葉」や、あるいは調整中の理論に銘打たれた「言葉」……まあ造語とかですね。それらをツールとして定義付けるバランス感覚の話になりますね。
たとえばツンデレという言葉があるとして、この定義を「ツンとデレがあるキャラ」と定めると(ツンって何?デレって何?という議論は置いておくとして)、実はツンという行動が為されたという判定が下せない~完全にツンが無い~キャラ、デレという行動が為されたという判定が下せない~完全にデレが無い~キャラは極小のはずで、大半のキャラがこれに当てはまってしまいます。……そうするとツンデレという「言葉が死ぬ」と言います。…意味、分かりますかね?ツンデレという「言葉」を機能的に扱うためには、もう少し範囲を狭めた規定が必要になってくるはずなんですね。

【Wikipedia:セカイ系】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB

ウィキペディアの中で「セカイ系」という「言葉」が狭義のものと広義のものとの分類がされていて、今の話題として興味深いです。広義のセカイ系の方は、僕がいうところの「言葉が死ぬ」話に入っていますね。極端な言い方をすると何でもかんでもセカイ系と言ってしまうとセカイ系という「言葉」を用意した意味が薄れてしまって、その中での分類を余儀なくされたり、あるいは「それは昔からあったモチーフ」という片付き方をしてしまう。まあ、それを「死ぬ」とか言わず「役目を終える」という言い方になる場合もあるワケですけどね。無論「いや、最初からこの「言葉」はこれだけの範囲をカバーする意図により用意されたんだよ?」という話なら、それに沿って議論する事になりますけどね。でも、その話が“後付け”だった場合、大抵その議論は歪むというか、辻褄合わせの確認のような議論になります。で、結果、その場をやり過ごしただけのような「言葉」が残る。その上に次の議論を乗せるのは危ういんですよね。

そういう感じに「言葉が死ぬ」という状態を理解していないと無意識の内に「言葉」を「死なせて」しまったり、あるいは「殺して」しまったりするんですね。なんでかって言うと、人は自分が取り組んでいる「言葉」(それに付随する理論)が、包括的ないし汎用的な「広い言葉」である事を望み勝ちだからです。「世界を割る言葉」(←造語)を求めているとも言えるかもしれない。
先の「言葉を殺す」話は、反論の難しい話に飛びつく人は→結果「言葉を殺す」という話だったのですけど、「言葉が死ぬ」話は、自分の持ち物~「言葉」~がより多くの事象をカバーするものである話に飛びつく人は→結果「言葉が死ぬ」(いや、これも「言葉を殺す」でいいんですけどね)という話になります。あくまで“気をつけないと”って事で必然的な話ではないですが。

…う~ん、あまり「言葉を死なせる」と、どう困るかは上手く説明できてない気もしますが…長くなったので、また別の機会としましょう。まあ、前半は言葉遊びのテクニックの話だし、「言葉使い」には今更の話としても、少しは役に立ってくれるといいなあ…。(たとえ話が悪いから駄目か…遠い目)「言葉」は自分の意志を伝達するための大事な道具ですからねえ。その一つが使い物にならなくなるとしたら、すごい損失です。普段からメンテナンスを心がけて…しかし、メンテナンスに凝り過ぎて(たとえば、反論の難しい話に飛びついたりして)「言葉を死なせる」事の無いように心がけたいなと、そう思います。

このキャラは「強い」

2008年07月02日 | 物語愉楽論
【おたく語会話(構造解析編)】http://www.websphinx.net/manken/hyen/tree.cgi?hdl=vi&root=hyen0145.html

さて、具体的にキャラの配置を評価する「構造解析」の話に入って行こうと思います。
これに当って最初に上記のリンクの中にある「強いキャラ」の件についての補足と解説をしておきます。

2.強さについて
キャラの強さとは、表現が省略されているが、物語構造を「構成する強度」の事である。物語構造を面白さを生み出す機械と捉えた場合に対する「構造を支える部品としての確かさ、及びその構造の依存度の高さ」と言い換えてもいいかもしれない。多くはある特定の「関係性に対する強さ」を論じるために使われるようになっている。実際、相対的なものである以上、キャラ単体では強さの機能は持ち得ず、必ず物語全体に対してか、任意のキャラとの関係性が論じられるのである。しかしながら、これらの条件を省略して、ただ「強い」とだけ表現しているので、この分析にはしばしば、個人的な感情を入れて「強い」と言ってしまう事があるのだが、これは、はっきり言って正しくない。元々は「このキャラが好き!」という表現と、峻別する為に「強い」という言葉を利用しているのだから、当然、それとは分けて考えなくてはならない。
つまり、いくらLDがギョライ先生(ボボボーボ・ボーボボ)や、ワンワン隊長(ブリーチ)、バードマン(みえるひと)が好きであっても、決して彼らの事を「キャラが強い!」と評してはいけないのである!(…ギョライ先生はちょっとだけ強いかも)

実践的には個々の設定(情報)をチェックする事によって、そのキャラクターを分析して行くのだが、この時、非常に叙情性の高い、エモーショナルな演出等を、どのような設定(情報)として捉え直すかが、構造解析の見識の問われるところである。そんな見識を積んでどうするんだ?というツッコみはしないように。これらの情報を積み重ねる事によって、作品を論じるという行為が可能になってくるのだ。
世の(大抵ネットの)おたくの評を見ていると「嫌いな絵」と「下手な絵」の区別がつかず、一緒くたに断じてしまっている人間が非常に多い事に気がつく。明らかにデッサンの基本を踏まえた画なのに「絵が下手」…声優評なんかもそうかな?明らかに平均以上の技量を持っているのに「演技が下手」…それは、お前が「嫌い」なだけだろw 仮にもおたくがそんな事ではダメなのだよ。言葉に直せるものは、とことんまで言葉に直して行くことによって、作品の面白さを骨までしゃぶり尽くす事ができる。たとえばバードマン(みえるひと)について、分析の結果「何ら物語構造に貢献していないのに、何故かバードマンが好き!」な事と「何ら物語構造に貢献していないと思われたバードマンが実は物語構造に強固に介入してた!」事を発見するのは、その意味する物が大きく違うのだ。


ここで述べているように「(このキャラが)強い」という言葉は、「(このキャラが)好き」という言葉と峻別するために用意した言葉です。
その人にとって「好きなキャラ」というのは、とかくキャラが「立っている」とか、キャラが「回っている」と“その人は”評価しやすい。…なかなかこれを分離するのは難しいのですけどねえ…大抵の人は自分の好きな作品とかキャラに「弱い」とか「回らない」とかネガティブな言葉をかぶせられたら、反発がありますし…。

ただ「好き」という主観のみの交歓ってのは、やはり「物語を愉楽する」事に限界があって「好き」“だけ”だと「好き」な人同士で話すと…気持ちいいね!「嫌い」な人と話すと…気持ち悪いね!……だけなんですね。「好き」“だけ”だとwそこを超えて、一体相手の主観は何を観ているのか?という交歓を、しようと思うと「好き」とか「嫌い」とか言う感覚の話を、一旦置いておいて意見交換をする必要が出てきます。…まあ、もう少し正確に言いますと自分の「好き」とか「嫌い」とか言う感情をも「客観視」した状態で意見交換する事になるんですけどね。
…そこでまあちょっと恒例かもしれない小芝居劇場を……(汗)

~~LD小芝居劇場「究極超人あ~る」より~~~

■Aくん→鳥坂先輩が好き
■Bくん→あ~る田中一郎が好き

A「俺、鳥坂先輩ってキャラが好きでさあ~」

B「あ、俺どっちかっていうとあ~るの方が好き」

A「んでも、鳥坂先輩の方がキャラとしては「強い」よね?そこが好きなんだけど」

B「んんん(思考中)…まあ、強いかな?wあ~るも「弱い」わけじゃないけどw」

A「つか、大抵の展開、鳥坂先輩が「回してる」しwあ~るのやる事って場つなぎっぽいじゃんw」

B「……」

A「なんで、あ~るが主役なんだろうな?」

B「あ~るの方がキャラが「立ってる」からじゃない?」

A「…鳥坂先輩、キャラ「立ってない」か?」

B「「立ってない」わけじゃないけど…普通人というか…鳥坂先輩って部活とかサークルに大抵一人はいた無茶な先輩をディフォルメしたキャラじゃん?」

A「うん」

B「だから普通人のレベルの一線を超えないというか…“どっかに居そう”に留めるのが鳥坂先輩だよね。だから、あ~るがいなくって鳥坂先輩だけで「回している」と、やっぱり、それなりに面白くはあったかもしれないけど「華」が無くって人気は出なかったんじゃないかな?」

A「なるほど」

B「幽霊とか出せるのも、言ってしまえば、あ~るがいるからとも言えるし…」

A「「究極超人あ~る」って「キャラ立ち」が強烈なオバケのQちゃんに対して、正ちゃんがバイタリティ溢れる変人だったら…みたいな話かな?正ちゃんだけだと話が「回らない」…w」

B「ああ~w」

…………まあ「また小芝居かよ!」ってツッコみはおいておいてもらうとして…「物語愉楽論」での造語全開であれなんですが…(恥)先に言っておくとこの小芝居「究極超人あ~る」の評価を提示しようと思って組んでいないので、そこへのツッコみはなしでお願いしますw(ってか「究極超人あ~る」って何年前の作品だ?)それから、この会話は「物語愉楽論」で語っている「キャラが立つ」と「キャラが回る」を分けた考え方でキャラの評価が語られています。一般的な「キャラが立つ」という言葉だと鳥坂先輩は間違いなく「キャラが立って」います!むしろ、だから「立つ」と「回る」に分ける意味を感じて欲しいのですが…!
この小芝居で言いたいのはAさんは「鳥坂先輩が好き」と言いつつ、客観視した「鳥坂先輩の評価」を述べているから、Bさんも「俺はあ~るの方が好きだ」で終わらない返しができるんですね。
またBさんも両キャラを「客観」で比較して返すように心がけているので次のフェーズに移るのがスムーズになるワケです。…まあ普通の「主観」と「主観」を交える時の単純な作法とも言えるんですけどね。そして互いに「好き」なキャラを一旦客観視する事によって、その「好き」をより深めて行けます。…その魅力をより深く知って行く事ができる…の方がいいかな?(ただ、ちょっと気をつけて欲しいのは二人の「主観」が意見交換したに過ぎないとも言えるんですけどね。主観はファクトにはならないとうか…まあ、この話もそっちに話が流れるような事があれば…)

このように「客観」と「客観」で会話を交わせるようになると非常に「伝達効率」が上がります。……いや(汗)まあ、一般社会では「客観」つーか「ファクト(事実)」で話をするので、こいつ何言ってるの?って感じかもしれませんが(汗)今、話しているのは「物語を愉楽する」話で、それは(経過においてはファクトを利用すればいいが)最終的に徹底的に私的な「主観(の愉しみ)」に帰結する話なんです。
ここらへんの話は「観客として」に書いた「群盲象を撫でる」の逆説(?)が分かりやすいのかも…
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/099a5770473f38a2a6d6276784366ba1

あと「群盲象を撫でる」のたとえ話は気に入ってますw僕はこの世界の盲人なんだけど、それでもやっぱり“象”を知りたい。そして“象”を知りたいと思ったら、自分にとっての“象”がどんな物かを言葉にして発し、そして他の人にとっての“象”がどんな物か耳を傾ける。…それがどう考えても“象”を知る事の近道なんですね。

ここの話のミソは「全員が盲人」だという事です。誰も“象(ファクト)”を確かめられない世界の話なんですね。その時“象”を知ろうと思ったらどうするべきなのか………………ってここらへん話して行くと今回の本題からずれちゃいますね(汗)………(思考中)ま、いっや、また別の機会ですね。…ええっと結論を言うと「(このキャラが)好き」という言葉を棚上げしやすいように「(このキャラが)強い」という言葉を用意しました………と!宣言する事によって、棚上げのしやすさを促進しているのですよ?(「強い」って言葉が妥当かどうかは知りませんけどw)…長々心構えの話をするより、こうやって取り決めを「言葉」に提示してしまう方が簡易的ながら速いんですよね。いろいろw

すっかり、長くなってしまったので、ここで一旦止めます。基本的にここが出発点というもので、構造分析とか言ってややこしく物語をこねくり回して行く意味ってのは結局「物語を愉楽」する目的上において、自分の「主観」を「客観的」に扱う事の延長に過ぎないです。それと「好き」とか「嫌い」を一旦「客観視」すると書きましたが、それはそういう感情を捨てたり、殺したりする事は指さないです。「物語を愉楽」する事が目的なのですから、それでは元も子もありません。

キャラ配置/ユニットが回る

2008年06月06日 | 物語愉楽論
前回の「キャラが回る」の項で、キャラを「立てる」事と、キャラを「回す」事の違いを説いた。キャラを「立て」て「回す」というのは相応の技量と経験、そして才能を必要とするのは間違いないんだけど、実は比較的、楽な方法で「キャラを立てる」事に成功する方法があります……パクる以外の方法でwちょっと思いついた所を2パターンほど挙げてみようと思います。

例1.真面目生徒ばかりの超進学校にド派手な学生服に身を包んだ見るからに不良の男が転校してくる。
例2.学校崩壊を起している暴力問題児ばかりが集まる学校に見るからにひ弱な真面目生徒が転校してくる。

…え~~~っと…先に言っておきますが、たとえにつっこまないようにね!しなびたアイデアだとか!!木を見るんじゃない!森だ!森を観るんだ!!…えっと、賢明な方なら上の2例で僕が何を言いたいのかは察して貰えると思います。要するにこれは「立てる」は「立てる」でも、キャラを「引き立てる」という方法(メソッド)なんです!!回りとの対比によりキャラクター性を明確にするというものですね。先ほどの例とは逆にたとえば、不良ばかり登場する作品の中で不良がいても、キャラは「立ち」ません。何かもう一味、アイデアを必要とするでしょう。…しかし、不良が全くいない中で、不良が一人混じっているというのは、そのステータスだけで、キャラ「立ち」になるワケです。

ただ、このキャラ「立ち」は前回の「キャラが回る」で話したような作品自体を特徴付ける→オリジナリティを出す、ようなキャラ「立ち」とは違うものです。あくまで作品内においてキャラクターたちを特徴付けるものですね。(…ここらへんの用法を凡て一まとめで「キャラを立てる」と言っているのだから……それは、ある程度、言葉を分ける必要があるよなあって思ってしまう)同時にこれらの対比方法は使い古された方法論なので、何か思いついたとしても、長いフィクションの歴史において、結局、大概の面では既存のどれかの作品に該当してしまうので新味が出せるかどうかははなはだ疑問です。しかし、志向としては「素材」から思考を練り上げているので、パクリからは一応逃れているはずで、たまたま長い歴史の中で棒に当ってしまうだけで本質的にはオリジナルと考える事もできるかもしれません。まあ、本論は作劇論ではないのでここらへんの課題は流してwまた別の機会に回しますが…。

分析評価的な観点から見た時、上の例1、例2は「キャラクターの造形法」というよりは、かなり「ストーリーの造形法」の領域の話になっている事は留意して欲しいです。もう少し分解して言うと、対比を利用してキャラクターを錬成するやり方は一見、キャラクターを造形しているのですが、既にストーリーを「先に」決めて、然るべきキャラクターを当てはめて行く作業をする事との差は、もうほとんど無いわけです。ここらへんの境界の曖昧さが何を意味するかというと、「キャラを立てる」、「キャラを回す」と並行して「ストリーを立てる」、「ストリーを回す」って考え方も存在するって話になってきます(当たり前か?)。「キャラ」の話の時と同じように「ストリーの立ちに意識をとられ過ぎて、回らない設定にしてしまった」なんて話もあるはずwまあ、実動作するのは「キャラ」なんで、あんまりこっち側への言及は少ないですが。(キャラが回っているけど、ストリーが回っていないと明示できる状況はかなり希少のはず)

これについては「フィクションの構造」の項で、キャラクターとストーリーを分けて論じているますが「物語(作品)」が形成される過程において本来的には不可分のもので、境界線が引けるような代物ではないんですよね。ただ傾向としてキャラクターを主体に考えているフェーズとストーリーを主体に考えているフェーズはありますし、「物語」を分析評価するにあたって、より分析しやすいピース、咀嚼しやすいピースに分ける行為の基礎としてキャラクターとストーリーという考え方がある…って話になります(分析評価側からは)。
……なんかどうでもいい脱線をしているような気がしないでもないですが(汗)物語を分析するにあたってキャラクターとストーリーに大別する仕組みを認識しておくと、その後の思考を進めるにあたっても、良いことがある日もいつかは……あるかも知れる事はない?かもね?みたいな事を考えて筆の勢いに任せて書いておきます。

で、本題。今のように「物語」全体からキャラクターの在り方を決めて行くやり方を僕は「キャラ配置」と呼んで評価分析の対象としています。個々のキャラクターたちが個々で、どういった性格や特徴付けを与えられているか?を分析し、ボトムアップに「世界観」を仮組みして行くやり方とは、逆の方法になりますね。
例1、例2は物語と主人公キャラが直結的に対比されていますが、それはたとえ話を簡潔に述べるための方策で、実際に物語を編む段になれば登場キャラ同士の関係性の対比が複雑に絡む内容に必然的に移行して行きます。…「キャラ配置」の事を考え出すと「物語」を「愉しむ」行為が一段促進されますw何しろ「キャラ」と「ストリー」を分析して、制作者のテーマにアタリをつける。その上で、そのキャラクターのいる意味を考える。「なぜ、そのキャラがそこにいるのか分らないキャラ」なんて出てきた日にはちょっとそたミステリーですよ?w情報不足が前提の連載作品のライブを「愉しんでいる」時などは特に、恒常的にこういったネタが散りばめられて、脳ミソをフル回転させてくれるワケですw

「キャラ配置」の話は、そのまま「構造評価」の話に直結して行きますの。「キャラが回る」でチラっと述べた「シャフト」なんて考え方も「キャラ配置」的、「構造評価」的、キャラクター分析用語ですね。(「トルク」の方はスタンド・アローンなものかな?)そこらへんの要項はまた「構造評価」について話す時に回すとして、最近ちょっと考えているのは「キャラ配置」をもっと局所的に見る視点で「ユニット」という考え方を思考しています。
これは最近「漫研」のチャットで「情報圧縮論」に繋げる形で、取り沙汰され始めているんだけど、少し基本に立返る形で地味~に、認識を深めて行くところから行こうかと思っています。

この場合「ユニット」って「タイムボカンシリーズ」の三悪人や、「ゴレンジャー」の五人の事を指すわけですけど……明らかに提示された「ユニット」以外でも、ある関係性を「ユニット」と評価して分析してみる……こういう視点をとりあえず考えています。「ユニット」に関する簡素な分類や法則がみつかるのが理想なんですが……まあ、それはちょっと遠いでしょうね。
ただ、それとは別に…………三悪人とかゴレンジャーって個々のキャラもかなり立っていますよねwその上で「ユニット」としての回りも良く設計されているもんだから相乗効果でワケが分らないくらいの「立ち」を発揮しているワケですが、逆に、キャラは「立っている」けど、ユニットは「回らない」状況ってのはあるだろうなと。さらにキャラは「立っていない」けど、ユニットは「回る」状況とか。キャラが「回って」いて、ユニットが「回らない」って状況は……有りませんね、その逆も。「回る」というのはかなり総括的な評価と言えそうです。ただし、以前は回っていたキャラがユニットを形成した時から回らなくなる…という時系列的な「変化」は発生するんでしょうね。

キャラが「立ってない」けど、ユニットが「立っている」状況ってのはあるのでしょうか?……これは「ゴレンジャー」後に30年続いた「戦隊シリーズ」からなにか引用できるかもしれないと思っています。というのは「ゴレンジャー」のあの五人の構成は相当完成されていて、時に三人組という事があっても「ユニット」を組む事がこのシリーズの最大条件となりました。それゆえ多少無理くりな取り合わせも含めた「ユニット」が様々に考案されてきた経緯があります。……その中には個々のキャラとしてはありきたりだけど「ユニット」としては面白い、と言えるものもあったように思います。…まあ、そういうのも含めて「回ってる」と評してしまえばいいのかもしれませんけどね。ここらへんは思考を要しますね。

まあ以前からキャラを「ユニット(グループ)」でまとめて評価する事はしていましたし、実際の作業そのものは「構造評価」の時とそれほど変わらないでしょうけど「ユニットが立つ」、「ユニットが回る」という視点で(キャラとストリーの中間的に考える事もできるかも?)考える事で何か観えてくるものがあるかもしれません。
……このネタはここまで何で、また別の機会に…とか言えないんですが、まあ、言いたいことが溜まったら、またまとめて書くかもしれませんw


キャラが回る
フィクションの構造

キャラが回る

2008年06月04日 | 物語愉楽論
http://www.websphinx.net/manken/labo/otak/ot_mawaru.html

「今週の一番」なんかで、LDやGiGiはよく“キャラが回る”(あるいは“ストーリーが回る”)という会話をします。これは一体なんなんでしょう?ちょっと不親切?というのが今回のお話です。

「マジック・ザ・ギャザリング(以下、MTG)」というゲームがあります。これ今流行りのトレーディング・カード・ゲームの家元的存在のものなのですが、“回る”というのはこのゲームを僕に伝授(伝道?)した友人が使っていた言葉です。MTGで一般的に使われる用語かどうかは知らないです(汗)

ここでちょっとMTGというゲームについて簡単に説明すると、オリジナル・カード一枚一枚に書かれた“ルール”を駆使して対戦相手を“負け”と規定されているルールへと追い詰めるゲームです。基本的な構造以外は、そのカードに書かれたルールによってゲームは進められ、新カードの販売配布によってどんどんルールが追加されて行く事になります。当然カードの内容によっては基本的構造さえも脅かす場合があります。
たとえば「このカードを引き相手に見せた時点で相手は自動的に負けとなる」と書かれたカードがあれば、そのカードを引いた時点で自分の勝ちとなるワケです。実際は戦略もへったくれもなくなるのでメーカーはそんなカードを創る事はありませんが、たとえば「相手は手札を全部捨てる」と書かれたカードを使った後に「手札が7枚以下の場合、その差の分だけダメージを受ける」といったカードの組み合わせで相手を追い詰める。そんなゲームです。
このカードの組み合わせ(コンボ)に色々頭をひねり、時に相手がびっくりしたり、あきれかえったりするようなコンボを決めるのがこのゲームの醍醐味となるワケですが、これが中々難しい。誰もがあっと驚くコンボを発想してとしても、カードの枚数制限などで、思うようにコンボを発動させる条件がそろわなかったりして、あれよあれよという間に相手の猛攻の前に敗れ去ってしまいます。

こーゆー、手札が思うように動いてくれない時に、友人は
「このデッキ(山札)は“回らん”。組み直さなくては」
というような事を言っていたワケです(笑)
カードの中には恐ろしく“強力なカード”、“個性的なカード”がありますが、こういうカードはそのまま使おうと思ってもリスクも大きく中々上手く“使い切らせて”くれません。そこで逆にそのカードの持っているリスクをリスクで無くするカードを探してきて組み合わせ、コンボを完成させて行くわけですが、つまりカードとカードの連携を強くし、時に、その主軸となるカードが上手く引けない時でも2の策、3の策、がそのデッキ(山札)の中に潜んでいて、相手を追い詰めて行く。
そうやってカード同士が有機的に繋がって、始めて自分の開発したオリジナル・デッキ(山札)は“回る”ようになります。

ここらへんの感覚がマンガにも近いかな?と考えたワケです。
マンガ(特に少年マンガ)は“キャラ立ち”が第一と言われています。しかしたとえば「サルまん」の“キャラ立ち”の項目で長ランのカラーが1mある男!というアイデアが出てきますが、これはキャラは立っているかもしれないが、おそらく“回らない”であろうという予想が立ちます。カラーが1mある事によって起こり得る事件のバリエーション(つまり、連携のパターン)が少ない事は想像に難くないからです。もちろん、カラー1mで湯水のようにアイデアが湧く人が現れたら事態は逆転しますよ?(笑)
キャラを立てても周りのキャラとのかみ合わせが悪ければ“回らない”。あるいはストーリーとの融合が悪ければ“回らない”。逆に、いかに平凡なキャラであってもストーリー(やりたい事)をよく反映しているキャラならよく“回り”ますし、ときに観客について行けない程強烈なキャラに対し、没個性に見えても平凡なキャラを添える事によって、主格のキャラ自体がよく“回り”出す事もあります。

常に個性的であることを心がけて、出るキャラ全てオリジナルで有る事を強調するような作業は、モーターとモーターを直接噛み合せるようなもので、思ったほど馬力が出たり出なかったり(笑)
たとい、どっかでみたような当たり前のキャラであっても、押さえる所にちゃんと押さえておける。(あるいは、そのつまんない当たり前のキャラをちゃんと動かせるかという面含めて)それ観て「いいい、トコにいいノ(キャラ)置いているねえ」という話も出てきます。

ここらへん総括すると以下のような会話が生まれます。
A「『××××』の○○○様が気に入ってるよ」
B「そう?拙はあんまし好きくない」
A「何で?“立ってる”じゃん!」
B「“立ってる”けど“回ってない”じゃん!」

ほりゃ!(笑)省くとこ省いてワケのわかんない会話になっている!おたくは大体これに近い会話を取っているのですよ。うんうん(笑)一つ分かったところで今回はこの辺で。レッツビギン!(←え?)


んんんんんんんんんんんん……何だろう?文末の小芝居は……??orz

いや、こう……僕は内輪の「伝達効率」を上げるために時々、変な造語を使うんだけど、それはそれなりの意味を持って使われている事なんですよ?と、たとえばある評価に対する「回る」という言葉は、こういう意味で使っているんですよ?という……ああああああああ!!(恥)-orz だから、最後の小芝居は!最後の小芝居は読まないであげてえええええええ!!-orz(←…と、小芝居を打つ)

さて…(真顔)、この「デッキのたとえ」ですが、読み返してみるとキャラクター造形に対する解説のみではなく、キャラクターを介した物語の「構造設計」にまで及ぶ、なかなかいい感じのたとえ話になっているかも、とか思っちゃったりwここらへん「物語愉楽論」において「構造解析」や、それに伴うパターン分類などの項でも出てくるかもしれません。
が、今回はキャラクターの造形についての「回る」という話に留めておこうかと思います。…というか僕がキャラクターの評価で使う言葉で他に「シャフト」とか「トルク」ってのもあるんですが、やはりこの「回る」という言葉に端を発してますし、「速度」や「スタートダッシュ」なんて言葉も(こっちは直接「回る」から派生した言葉ではありませんが)イメージを同じくして連携がとりやすい、かなり基本的な分析の素子になると思っています。

それで、そもそも何でこんな言葉を用意しようと思ったかというと、マンガなんかで古典的に言われてきたキャラクター造形に対する「キャラが立つ」「キャラを立てる」という言葉に対して疑問が生じたからなんですよね。…こう書くと、それはLDが「キャラを立てるという言葉を正しく理解していないからだ」というツッコミが聞こえてきそうですw…そして実際にそうなんでしょうwでも僕は「キャラが立つ」という言葉と「キャラが回る」という言葉を分ける事はやっぱり必要だと思っているので後悔はしていないんですよ?(`・ω・´)話を続けます。

昔のマンガの描き方なんかが書かれた本には「キャラを立てる」事の重要性が再三にわたり書かれていて、そしてその後には次のような言葉が続くんですね→「誰も考えた事がない。きみだけのキャラクターを生みだそう!」って。え~っと今、僕の手元にある資料は「サルでも描けるまんが教室」なんですが、これのキャラクター創作の部分でも、こう書かれています。

P.78「いろいろ書きましたけど、やっぱり立っているキャラって、特徴が明快で、意外性があることね」

「サルまん」って基本的にギャグマンガで、いろいろな事を茶化して描いているマンガだとは思うんですが、ここはマジだと思っています。意外性という言葉は、オリジナリティという言葉に言い換えられると思うんですけど、つまりオリジナルな作品を作るように心がけよと言っているわけです。この訓示はけっこう正しくって、要するに作品を「商品」として売り出すにあたって、他にないものがそこになかったら、その商品はすごいハンデを負うし(建前上、他の作品はオリジナリティをクリアしている事になるから)きみ自身も作家としての商品価値は非常に低いものになってしまうよ?って話なんですね。
…で、実際、手塚先生やトキワ荘メンバーをはじめとしたマンガ黎明期の人たちのキャラの立たせ方って凄まじいし(オバケのQ太郎とか…何かもう立ちゃいい!って感じの造形ですよね)、キャラクターとは違いますが、小池一夫先生の作劇論「オープニングは銀座を裸の女が走っている」にも通じるものがあります。だから、この「キャラを立たせろ!」はキャラクター造形における鉄則中の鉄則だったわけです。(無論、今でも鉄則)

でも、他に類無く、意外性に満ちたキャラクターが必ずしも「面白い」ワケではないんだよなあ~。

多くのキャラクターたちを骨格ごと描き分け、素直で好奇心旺盛な少年、一本気な正義漢、卑屈な小悪党、悪事をはたらくが愛情深くもある男~など、様々な性格を当たり前のように描き分けてしまう手塚先生を信奉していた僕は、この「このキャラは特に立っているワケでもないのに、何で「面白い」のだろう?」という謎とず~~っと、にらめっこしていたのですが(汗)………つまり、この「キャラを立たせろ!」という訓示には、実は表に出ない隠された条件があると言えます。いや、別に隠してもないんでしょうけどw
それは「キャラを立たせる」以前に「自分がそのキャラをいくらでも動かせる事がイメージできる(把握された)キャラ」あるいは「そのキャラを用いれば自分からアイデアが湯水のように出てくる(想像を刺激する)キャラ」である事の方がより重要なんですね。先にこの条件を満たしていないと「面白く」なるはずもないし、逆に言えばこの条件が満たされているなら、こと「面白さ」に関して言えばキャラが立っている(オリジナリティがある)必要はないワケです。
しかし、ながら、その命題は表立って述べるのはマンガの発展性のためにも避けられて来たのだと思われます。…何でって、今言った事は(オリジナリティをクリアしなくていいなら)「自分が感化された既にある面白いキャラ」をイメージすればイメージが明確な分、いくらでも動かせるし、既に動かされた要素に合わせて「自分ならこうするのに」ってアイデアも出てくるからです。要するに(バレない程度に修正するとしても)パクっちまえ!ば「面白い」か?どうか?ってハードルまではクリアできるって話になります。………いや、まあ実際にフィクションの界隈はモロにそれで動いているのでしょうけど(滝汗)建前として、発展性の保持として、また作家自らの商品性を高める指標として、それをモロに言ってしまってはいかんよね…ってのがあるw

「キャラを立たせる」というのは本来的には「オリジナリティ」という第一のハードルと「いくらでも動かせるイメージ」という第二のハードルの二つのクリアを必要とする言葉なんでしょう。第一のハードルは「面白い」という観点からは絶対的な必要性を持たないものだけど、そうであるからこそ「ウソ」は強めにつかないといけない。(←おっと来た!本論の「ウソに乗る話」参照)……少なくとも二つのハードルをクリアしたキャラクターは大いに誉めるべきでしょうし。というか僕は実際に誉めずにはいられないw

…が!それとキャラクターの分析/評価はまた別の話でw「キャラが立つ」という言葉を狭義に捉えているかもしれいなけど、そこは狭義のままで。「キャラが回っている」という言葉を別に用意して、キャラクターの峻別を図るワケです。則ち「立っていない」けど「回っている」キャラとか、「立たせる」のに手一杯で上手く回せていないキャラとか、そういう風に評価を進めて行くワケです。
それは「デッキのたとえ」で述べたように「すごく立っているが単体では回りづらいキャラ」を、それ自体では立ったキャラとは言えないが「回す役目で置かれたキャラ」という評価にも(ま、別に立っていない必要はないんだけど)移って行くことになりますね。ここらへんは「キャラ配置」や「構造評価」の話に移って行く事になりますが、今回はここまでとしておきます。