今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。





【物語三昧:物語の主題と各エピソードによるガジェットの比率とは?】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090526/p2


「主題の本質の理解」を最も優先順位の高い価値を置くというのは、僕は、物事の正しさを考えるべき重要な選択基準だと思います。

よく、たとえば本や漫画を、「それをどう受け取り解釈するかは十人十色で何が正しいかは決められない」という相対論が、さも正しいように言われますが、僕は、間違っていると思う。やはり、絶対的とは言わなくとも、供給サイドと需要サイドの両方の一地点である「主題の本質」ってのが、、、それがグラデーションであれ、あって、その「幹」からの距離で相対観は図られるべきなんだと思うんですよ。でなければ、文脈というものに意味が失われてしまうと思う。

けど、これって、「選択基準」であって、いやそうじゃないよ?ということは可能なものなんですね。抽象的にいうと、絶対と相対の戦い。

◆ななし 2009/05/27 20:25
そもそも物事の正しさを考えようとする人がなんで漫画に『こうでなければといけない』を求めてるんですか?
文脈というものに意味が失われてしまったとしてもその漫画が正しくない漫画だとは限らないでしょう?
それこそ本質を失ってると思いますよ

◆アオイ 2009/05/29 11:51
喚起されたのでコメントしてみます。

多く、「(絶対論的な)作品の本質」は「作者の意思」と同義に扱われているように思います。
エントリにある「本質」=「供給側と需要側の一地点」という考えは、その地点が存在する限りは有効かもしれません。
しかし「世界の中心で~」でみられたような、供給側と需要側の著しい解釈の不一致(前者にとっては恋愛小説でしたが、後者にとってのテーマは死生観)を考えるとすべてに当てはまる考えではないのでしょう。

また、作者の意思を読者が正しく裁定できるという保証はどこにもありません。
論語に「書不尽言 言不尽意」とあるように、作品が作者の意思を十全に表現しているわけではないでしょうし、「この文章の読みはこれであってるか?」なんて作者に聞くこともできません(作者が故人の場合は特に)。
絶対論的な読み方を追求したいなら、このへんの不可知性をどうするかが問題ですよね。

ちなみに、相対主義的な読み方によって文脈の意味が損なわれる、とは限らないと思います。
文脈を「センテンスどうしのリンクによって生まれる新しい意味」と考えるならば、
「文章全体と読み手がリンクして生まれる意味」も広義の文脈ですし、これはつまり「読み手ごとの解釈」でしょう。




このペトロニウスさんのエントリー自体は、おそらく別の主題を提起をしていて、引用箇所は文章の流れから軽く触れた見解に過ぎないと思うので、ちょっとリンク取ろうかどうか迷ったのですが…。しかし、コメントをされている方々は、正に“ここ”に反応して、レスを返されている。…なぜ、そこが琴線に触れるのか?…というと「絶対と相対の対立」があるからなんですよね。そこらへんの構造の話をしたく喚起されたので、ちょっと論点違いで申し訳ないと思いつつも引用させてもらいたいと思います。(すみません)

おたくの……多くは形而上的な界隈の議論において「絶対視思考」の意見と、「相対視思考」の意見の対立を目撃をしたり、あるいは当事者になった事がある人はけっこういるのではないでしょうか?まあ、議論をすれば対立はかなりの高確率で起こるものなんですが、この二つの思考の対立はけっこう根が深いですよね。…なんでかって言うと、いつまで経っても平行線な考え方だからなんですけどwその為、互いに忌避する(嫌っている)関係をとっているように思えます。「絶対視思考」者にとって「相対視思考」は「結論を出す事から逃げている思考」に思え、「相対視思考」者にとって「絶対視思考」は「勝手な意見の押しつけをする思考」に思える……と、細部の見解は人によって違うとしても、そんな感じの対立でしょうか?


※1 ちょっと押えておきたいポイントとして、今、「絶対」、「相対」と言葉を使って話を進めているワケですが、これはいわゆる学問的な「相対主義」や「絶対主義」を必ずしも指してはいません。まあ、ここらへんの話で、しばしば「それは本当の意味の(学術的に正しい)“相対主義”に当たらない」という反論を受けたりするからなんですけど……それは僕が話したい主旨とちょっと違うw…僕が話したい事は、僕も含めた学問に疎い一般の人の誤解、曲解、我田引水等、ない交ぜにして便利に利用されている「理屈ツール」としての「絶対的」、「相対的」なんですよね。だから別の言葉でもいいのですが……一般的にこういう言い方だしw全く無関係ではないはずなので、この言葉を使っているという事になります。

ここらへん「物語愉楽論」で整備しておきたい課題なんですよね。意見交換/議論というのは、物語をより「愉しむ」ための手法として不可欠と言っていい手法で、その意見交換/議論は、「物語愉楽」のフィールドにおいては潜在的に「絶対と相対の対立」を抱えているように思えます。従って「絶対視思考」、「相対視思考」を如何に扱うか?は「物語愉楽論」において扱いたいテーマの一つです。
しかし、この話を始める前に、順番としては、たとえばこの“物語を愉楽する”というこのフィールドは「言い張り可能な世界」である話とか、これまで「言葉はツール」とか「言葉が死ぬ」とかの話はしてきたんですけど、まだ「言葉に縛られる」話や、「言葉の位相」の話はしていなくって……本当は、ここらへんの話を絡めた上で組み上げて行きたい話なんですよね。…う~ん(思考)まあ、凡て整えてから…とか言っていると遠い道程の話になるんで(汗)今回の機会とかタイミングとかにあやかりまして、まずは触りの話でもしておこうと思います。

…って、結論から言ってしまうと、自分で対立、対立と繰り返しておいて何なんですが(汗)僕はこの「絶対視思考」と「相対視思考」は対立状態にないよ、という話をしたいのですね。
たとえば、上の話でペトロニウスさんは「絶対視思考」の立場をとり、その戦いと述べながら、最終的には「選択基準」だと言っています。この逆説が可能と言ってしまうのは、つまる所「相対視思考」に取り込まれてしまった事を意味するのではないか?という“言い方”があります。
…しかし、一方のななしさん、アオイさんの意見を観てみると、文脈的には「相対視思考」の立場をとっているように見えるのですが、ななしさんは「本質を失ってると思いますよ」と書き添えて、本質を失う事は正しくない……と「絶対視思考」を取っているようにも見えます。また、アオイさんは……まあ、ある意味冷ややかにwペトロニウスさんが提示した価値の逆説を述べて「相対視思考」を展開しているのですが…。しかし、それでも最後に余談として「相対主義的な読み方によって文脈の意味が損なわれるとは限らない」と、文脈の意味が失われる事についてはペトロニウスさんが提示した「選択基準」に合わせています。

これ、もっと本当にドロッドロ!の「相対視思考」の話をするなら「本質を失ったからどうなの?」、「文脈を失ったからどうなの?」ですよねw

でも、この話の焦点部分……「本質を失う」とか「文脈を失う」と分岐しているのを統合させてもらうと「本質の理解」になるんじゃないかと思いますが、そこについては両者に「絶対視」の合意があるように「観え」ます。また、ペトロニウスさんは「絶対視思考」側を表明しているけど「解釈の絶対」は述べていないように思います。これは本質の範囲内において複数の解釈が発生する事を認める文章に「読め」ます。また、ななしさんや、アオイさんも「本質の理解」を是として(そう「読め」る)反問している以上、「なぜ“こうでなければいけない”を求めてるんですか?」と言いつつ、その範囲は「本質」を失わない範囲内……要するに今、上(↑)で上げた、ドロッドロの「相対視思考」の立場は取っていないように「読め」ます。(ただし、本質とは何?って話でまたドロドロしてくる可能性があるのですけどねw)じゃあ、どこが争点か…と、あまり長々細々と解説するのは止めますが、ここらへんってつまり結論は近似(歩み寄れる結論)のはずなのにスタンスの違いから「絶対と相対の対立」に取り込まれてしまって「位相」を起していると思うんです。(この「位相」あるいは「言葉の位相」の話はまた別の機会に回します)

…………ここまで読んで、この話を屁理屈積みの挙げ足取りに思われる方もいるかもしれませんが…(汗)僕はそんなつもりはなくって、要するに言いたい事は、僕が知る限り知恵有る人は「絶対視思考」も「相対視思考」も両方きっちり使っているって事なんですよね(まあ、当然の話なんですが)。
「相対視」の思考的な意味は対象の“検証”と“分解”、「絶対視」の思考的な意味は対象の“保守”と“再構築”にあると思うのですが、たとえるならナイフとフォークのような関係と言えるかもしれません。…ナイフで肉を切ることができてもナイフだけだと肉を口へ運べない(運ぶのは不要に困難)。…フォークは肉を口に運べるけが肉が口に収まるように切れない(収めるのは不要に困難)。…こんな感じ?(汗)ま、何でもいいんですがw(←誤魔化した!)これの繰り返しで血肉を得て「思考」を深めて行くんですね。

繰り返しますが(スタンスとして「絶対視」側、「相対視」側の立場を表明しても)知恵有る人は、この二つの思考系統を上手く使って「思考」を進めていると思います。…じゃあ、なんで「絶対と相対の対立」なんて構造があるのか?ペトロニウスさんが「絶対と相対の戦い」と述べているし、僕の周りでも一家言ある人にこのワードを伝えれば、それだけで意味が通じる状況は存在しています。
…極端な「絶対視思考者」か「相対視思考者」に出会ったか、仮想敵とした所があったんですかねえ?wガッチガチに不寛容排他な「絶対視思考者」や、ドッロドロな意味解体の「相対視思考者」(擬音でどんな感じがイメージしてくださいw)に遭遇して“逆張り”を決意したとかね。(あるいはシャドウに遭ったか…)
まあ、あんまり深く考えなくっても、単純に標榜って事なんでしょうけど。同時に標榜=指針くらいの意味に留まるように思えます。何故なら、畢竟、対象やケースによって違うというのが真相だし、大抵こちらも相手も“両方の系統を使っている”から。故に(極論者は例外として)相手が何を「相対視」して、何を「絶対視」しているのか?という具合に丁寧に「受信」→分析して行かないと、不要な「位相」で話が進まなくなるったりすると思います。

まあ、あと「漫研」では「今週の一番」と言って、週に一度、週刊少年誌(4誌)で一番「面白かった」連載作品を一本選んでいるんですが…。どこかに僕の発言で「一番を決められると思っているわけではない」というような物が散見できるかと思います。でも、毎週決めている。できないと思っている事をやっている。…何故か?というような点も、この話に絡んでくるのですが、大分、長くなったので、この辺で止めて、またの機会にしたいと思います。


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