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言葉はツール

2008年05月18日 | 物語愉楽論
http://www.websphinx.net/manken/come/wek1/wek10281.html#438

> アタマで色々理屈つけるのはそれが「楽しい」から

ふっふっふ…その通り。僕が理屈をつけるのは、そうするのが「楽しい」からです。まあ、もうほとんど本性と言ってもいいものですね。ふっふっふ………しかし、その理屈屋は、いろいろ理屈をこね回すことを正当化する理屈もひねり出すものなのですよ?他の人も理屈ゾーンにひきずり込む為にねぇ?んがんぐ!
…というワケでちょっと書き添えます。そもそも言葉というのは(不完全ではあるが)自分の意志を他者に伝達するためのツールであり、理論は任意の対象を定義付け、次回でその説明を省いて伝達効率を上げるための言葉による伝達の一手法です。
たとえば「牽引力」や「展開力(問題悪化力)」「問題解決力」などの言葉について共通認識を得る(次回にその説明を省く)ことによって「面白い」「つまらない」しか、言葉の“手札”を持っていない状態より、はるかに多くの意志を伝達できるようになります。「私は○○はつまらない」→「いや、私は面白い」…オシマイ!よりは少しだけ愉しい状態が生まれます。

A「○○は、展開力のあるキャラが見当たらない。故に面白さのポイントが分からない」→B「いや、それは見方が一元的で、たとえば××の視点から解いていけば、展開の幅が見えてくるよ!」

…まあ、こう単純かどうかは分かりませんが、要はいくつかの単語の共通認識を得る事によってBはAに自分の視点を伝え、AはBからBの視点を受け取る事ができます。それはAの視界が広がり、大変恐ろしい事なんですが「楽しみの範囲」が広がるって事です。言葉ですから不完全ですけどね。
しかし、「牽引力」という言葉を使わずに、その意図を伝達しようとすると、やっぱり“澱む”ことになります。「○○が、××の時に△△をしたのがいい」という言い方は、個々にその場面を切り出すには最適でも、断片の情報になってしまって横への繋がりは持てない。また、それを聞いた相手が何を感じ何を考えるかも指定しづらい。
結局のところ、その“概念”の必要性を説いて「牽引力」という言葉を作ってしまう方が、こちらの意図の伝達は欠損しないんです。どちらも言葉である以上、意図の欠損は避けられないのですが“概念”の方はすくなくともベクトルは示唆できます。また「牽引力のあるキャラが“いない”」といった“零”の表現は概念の存在が先立つものですしね。
LDが意味不明のおたくな語彙を駆使するのは、そういう深~~~い意味があるのです。うんうん。…意味も無く「ブリザガ」とか「ローゼンバッハ物語」とか言っているワケではないのです!(ビシィ!)ウソですけど!(ビシ!ビシィ!)

ただ、そういう理屈屋にも気をつけなければならない落とし穴があります。それは意志伝達のツールであるはずの構築論理に、自分が逆に使役されてしまうという事です。(というか元々「理に屈する」というのはそういう意味なんですけどね)
たとえば自分が「面白さとは展開の意外性だ」という理屈を構築したとします。そうすると作品を「意外性があるか?ないか?」で区分けし意外性がなければ「つまらない」と断じる事になります。
まあ「自分の意図を披露することと、自分の視界の狭さを披露する事はコミ」なんで、ここまでは仕様がないんですが。問題は構築したこの論理に使役されて、ここから出れなくなってしまう時がある事です。「歴史考証が正しくないと面白くない」「科学考証が正しくないと面白くない」冷静に考えれば、そんな事はないのはすぐに分かるんですが、面白い事に、人間ってのは自分でそう考えると、本当に「面白く」感じないんですね。何でって「人間の心は外界の作品の真偽よりも自分の構築した論理が正しい事の方が大切」なように出来ているので(笑)
心象はいつもニュートラルな必要があります。そこらへん理屈が“どういうツール”であるかを認識していれば、そんなに踏み外す事はないと思います。まあ、実はそこを越えると今度は自分の“視界の広さ”に価値基準を置いて、無理に己の心象を騙そうとする「何でも面白い病(あるいは何でもアリ病)」が待っているのですけどね。長くなったので、それはまた別の機会としておきます。

そんなところでLDさんの、ありがたい説法を終わっておきますよ?(←説法だったのか!)



「楽しく読めるのが一番」といいつつ、何故、物語の感想に一々理屈をつけるのか?(あまつさえ、何故その理屈に沿って「詰まらない」とさえ言ってしまうのか?)というと「それも楽しみの一つだから」…という議論だったかな?そんな感じの話の時に書いた文章です。
大雑把ながら、けっこう僕の色んな思考を凝縮して書き込んでいまして…この文章の中で、押えておきたいポイントは3つあります。
1.言葉はツール
2.理に屈すれば視界(思考)を狭める
3.面白いフリ分かったフリは最悪

…ですね。時々、僕は口にしたりします。どれも結構この話の本旨である「ゆったりと愉しむ心を研ぎ澄ます」為には重要な要件のような気がしています。この条文が大概に意図するところは、大体引用した文章で感覚的には掴んでもらえるのではないかと思いますが、今回は「言葉はツール」という事について少しだけ補足をしておきたいと思います。他についても多分、程なく語ると思います。

元々、僕は「言葉」というものに対して、これはもの「凄い力」だなあと思っています。そもそも今、こうやって文章を書いていること自体で僕は「言葉」を駆使しているわけですが、これで僕の思考が読んだ人に伝わってしまうんですね。……なんで伝わっちゃうんでしょうね??wこれはもう単純に凄い事だと思うんです。そして「言葉」は内的な思考をする際にも駆使されます。多分「言葉」がないと人間ってまともな思考できないですよね?これも凄い……っていうか不思議な事ですw
この「言葉」を上手く使う事を心がけて磨いて行くと、他者に自分の思考が伝わる率が格段に上がって行くはずです。また、他者の言わんとするところを効率よく理解したり、場合によっては他者の言の1から10の事を得られるようになっていったりするはずです。ネット界隈、おたく界隈には、こういう“魔法使い”ならぬ“言葉使い”が多いと思いますのでwwwその「愉しさ」ってのは説明するまでもないかと思います。

だから僕は「言葉」ってのは凄いパワーを持っていると思っています。これはもう「言葉はフォース(理力)」だと僕は思っている。しかし、それだけに「言葉はツール」だという事はしっかり認識していなければならないと思っています。分解して言うと「これは何に使うツールか?」であり「これはどういうツールか?」ですね。


「何に使うツールか?」ってのは先記したように「自分の意志を他者に伝達するためのツール」と言えると思います。“言葉使い”の場合、さらに「自分の思考を進める」というのもありますね。ここらへん何の為に使っているか?何をしているのか?という意識をしっかり持っていないと自他の発した「言葉」に振り回されてしまうんですね。

ちょっと大袈裟ながら「武道」に喩えると分かりやすいかもしれません(汗)何のためにこの武道を習うのか?という認識をしっかり持っていないと無駄に武を誇示し暴力を振るう人間になったりしますよね。「俺は暴力振るうために習ってるんだよ!」という人や、かなりおたく的ですが「しょせんは人殺しの技術…」とかwww言っちゃう人もいるかもしれませんけどw
でも本質的に言って武道は絶対に「我が身を滅ぼす“ため”の道具」じゃないんです。だから「我が身を滅ぼす使い方」をする人は、武道の持つ「危険な一面」に振り回されているって事なんです。それは「何に使うツールか?」に立ち返れていないって事を意味します。

「言葉」だってそれと同じ………え?「言葉」なんてそんな危険なものじゃないって?そうかな?w……いや、むしろね(汗)「言葉」って発した瞬間、誰かを傷つけていると思った方がいいですよ?相手のメモリーとかコンプレックスとかプライドとかね。少なくともその可能性から逃れる事はできないと。そして相手の“気を悪くさせる”とですね、「伝達効率」が、がく~!!っと落ちちゃうんですよねえ(汗)困った事に。
伝える為に発した「言葉」が何層ものフィルターに阻まれるようになって、最後にはまるで伝わらなくなる。積み重ねた何十もの言葉を無駄にしてしまうんですね。

もし故意に相手を傷つけたのなら、自ら望んで「伝達効率」を落としたって事で「言葉が何のためのツールか?」という本道に立返られなかった事になります。“言葉使い”の行為としては下の下なんでしょう。
しかし、そんな話をしておきながらなんなんですが、この件についての結論は「伝達したい事があり、悪意がないなら気にしない」なんですけどね(汗)結局、他人が何に気を悪くするかなんてわかりゃしませんしw無論、常識的な配慮というのはあるでしょうけど。そして、こっちの方が重要なんですが「自分は気を悪くしない」。心の持ち方一つで変えられるもので「受信効率」を落としたりしない。そんなヒマがあったら「相手が何を伝えようとしているか?」って事に思考を回す。
口で言うほど簡単じゃないですけどね。しかし、この「何に使うツールか?」←つまり、今、自分が何をしているか?って認識をしっかり持っていないと、人間というのは案外「伝達効率」を落としている事に気がつかないものだと思うんです。


次に「どういうツールか?」です。「言葉」を使うに当って、その道具がどんな特性を持っているか理解に努める必要があるという話ですね。まあ、ちょっと物騒な喩えですが「言葉」を拳銃に喩えるとして(←たとえ好きだなあ…)その銃を責任もって扱う者として、その扱い方から、有効射程はいくつだとか、弾倉に何発入っているかとか、その銃を使い込みながら特性を深く深く理解して行く必要がありますよね。狙撃や早撃ちなんて技を覚えるのはその一環に過ぎないわけで。そうでないと「我が身を守るための道具」を手にしたはずが「正しく我が身を守ってくれない」事態に陥ったりしますよね。(…いや!銃社会に関する議論とか!無しで!w単なるたとえですから!w)

そこで「言葉」は一体どういう特性を持っているか?……って話を長々するのはちょっと何なので…というか僕もそんな体系化した認識があるワケでもないのでそれは避けますが(汗)一つ、ハッキリしている事があります。
それは、「言葉」は自分の意志を他者に伝えるためのツールで、そして「言葉」は素晴らしい力(フォース)を持っているんだけど…

しかし、それでもやっぱり言葉は不完全なツールなんですね。

「言葉」っていうのは使い方次第で実に多くの事を伝達してくれます。しかし、それでもやっぱり取りこぼしはある。複雑かつ深淵な(あるいはおそろしく単純な)心象を表現し切る言葉がないって事もある。対象物を言葉に直す事によって、対象物が“小さく”規定され、取りこぼしが起きてしまうという事もある。そして、言葉自体が文脈を以て様々な意味に変化し、本当の意味での明確な規定ができないという事もある。無論、まるでデタラメで相手の受け取り方の方向性さえ制御できないってものでもないんですけどね。
こういった言葉の不充分な部分っていうのは言葉の利便性を上げている面もあるので排除しようとしても排除しきれるものではなかったりもするんですね。

たとえば「条約」や「契約」あるいは「憲法」というのは、規定や強制力の根拠をその文言に全て依存するという、「言葉」という事象(正確には文書だけど)の力を最大に評価した、最上のステージの一つだと思うんですが、国権の最高機関同士によって取り決められた条約や声明文に対してさえ「解釈の違い」というものを完全には排除仕切れないわけです。(場合によっては解釈が分かれる文言じゃないと合意しなかったり)「憲法解釈」の議論はいつだってありますしね。憲法の文言が真に明確に余すところなくある一事象を指すならそんな議論はそもそもおきようはずがありません。
逆に契約書の文言などで誤解を排除するために具体的な内容に言及しようとすると返って抜け道を作って穴だらけにしてしまったりもします。語れば語る程、溢れ落ちて行くというやつでw

たとえば「正しい事」って何か?……ただ「正しい事」って書いただけならその解釈は千差万別でしょう。
じゃあ「正しい事」に該当する事象を一つ一つ箇条書きにして行くか?そんな事が不可能である事は誰でも分かると思います。だから大抵「たとえば…」なんて前振りして2、3該当事象を上げるに留める「智恵」を生んだりするんですが、では、そのたとえで何が伝わるのか?別の事象に直面した時に、それが上げられたたとえに該当するか?ひいて「正しい事」に該当するかはその人の解釈次第ですよね?
じゃあ、何か別の概念を持ち込んで指定範囲を絞り込みましょうか?でも、これも概念だから解釈の差を生みますね。下手すると指定範囲を大きくずらしてしまう危険があるかも。こんな時「常識的に考えて…」ってなんて「智恵」を利用したりします(互いの善意が確認できれば、大抵、上手く行く良い「智恵」なんですが)が、今、述べたように常識の概念はそれこそ指定できないし、また、常識とは違う新しい概念を伝えようと思うとね。俎上に持ち出したくないのに、この常識ってのが邪魔をしたりしますしね。
こういう時、ああ…ほんとに「言葉」ってダメだなあって思っちゃいますね。

こういったように「言葉」を使う者が、大雑把に指定する事によって何が伝わり、何が毀れ落ちるのか?細かな事象を指定する事によって何が伝わり、何が毀れ落ちるのか?そういう経験を積み重ねて「言葉」を磨いて行くしかない。(そのとき「何を伝えたいか」を明確にイメージしていないと、何が毀れ落ちたかも分かりはしないでしょうね)
つまり「言葉」ってのは正確に運用しても伝達できるものはおよそ不完全だし、様々な解釈の余地の残る、実はそこに利点もある!そういう特性の道具にも関わらず、それを圧して「伝達効率」を上げるのはひたすら「言葉」の技術を磨いて行くしかないワケです。


なんかちょっとだけとか言って長々書いてしまいましたが(さ~~~って!どのくらい毀れ落ちたかな?w)なんでこの話をしているかというと「言葉がツール」という認識を踏まえると効率のよい「情報伝達」ができるからなんです。あるいは、上記した文言通りでなくても、そういった事が直感的にでも認識されている者同士だと非常に効率がいい。
逆に「言葉はツール」だという認識、また言葉が“伝わる”事への不思議さの認識とか、“毀れ落ちるもの”の認識がゆるく「伝わって当然」みたいな感覚でいると、こういう時、変な齟齬を生んでしまう。

「言葉」素晴らしい力を持ったツールだけど、それでも“伝わらない”のは前提の話

「言葉」がそういうツールだという認識を明確に持っていれば「上手く伝わらない」という事態に対して「自分の道具の使い方が悪いのかな?」って謙虚な発想が出てきますし、相手も(その認識があれば)「上手く受信できず申し訳ない」と「受信効率」を上げる事に心を砕いてくれるはずです。さらに「この話は寝かせる」という「智恵」(僕は、この技術かなり好きなんですが)の利用や、議論の押し引きの判断も適切なものになって行きます。
まあ、世の中全体は皆、様々な方向を向いていて、それに沿って「言葉」は発せられるので、そうそう単純なものではないと思いますが(たとえば)「物語を楽しむ」という一つの方向に向いている状況下なら、比較的、効率よく、建設的に話を組んで行けると思うんですよ。

そして新しい「愉楽」を拡げて行くのはやっぱり他の人の視点を受け取って観るが一番効率がいいし、何より「楽しい」wだからその為の基礎技術として、それを為す数少ない道具である「言葉」と言う物はよくよく認識を深める必要がある。まあ僕は「ゆったりと愉しむ心を研ぎ澄ます」為にこのツールをいじくり回してカスタマイズしたりしていて、この話もその視点に沿った述懐になっていますが、志向そのものは何にでも通じるというか、それぞれの目的に沿って使い込んで行くものなんでしょう。

え~~~っと(汗)ちょっと焦点の悪い取り留めのない話になって、ちょっとだけ反省していますが……orz
要するに「言葉はツール」というのは、言葉というのは道具なんだと。だからこの道具に振り回されないようにしよう、という意図で作った標語です。もしかすると「言葉に振り回される」というワードはイメージしづらいかもしれませんが……まあ、文中にいくらか散りばめましたし、ここからさらに長々述べるのは避けて別の機会にします。(←あ、逃げた)
武士ならば武具の事を、スポーツ選手ならその競技道具の事を、指揮官なら人間の事を(!)よく知り手入れするのは基礎の基礎ですね。それが案外、目的の本質に近づく近道だったりしますしね。今回の話はその道具の“クセ”を僕なりにちょっと語ってみました…ってところでしょうか。


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