out of curiosity

blog ってどんなものだろ?
そんな好奇心から衝動的に作りました。

募金活動

2011年03月27日 20時44分30秒 | weblog

3月27日(日)

家の仕事が終わりたまには外の草でも取りましょうかと、道端にかがんで草むしりをしていると

「Layla! 今から募金活動だよー!! 来てねー!!」

と、中学生が自転車で走り抜けていった。
屈託のない笑顔。 元気だ。
叫んで言ったのは私の生徒。w


さっさと草取りをすませ私も募金に向かった。
既に募金は何件かしていたのだが、
彼女たちが活動するならやっぱり協力したい。
これもまた人の輪だ。


商店街は人通りが少なく、募金活動も難航ぎみ。
けれど彼女たちの明るい声が響く。
手には自分たちで作った募金箱と、
義援金協力を訴えるプラカード。

募金活動は昨日から行っていたらしい。
昨日は風も強く寒かったでしょう。
がんばったね。

そんな昨日
私が何をしていたかと言えば。


3月26日(土) 田中豪くん@新横浜

新横浜スケートセンターで行われたチャリティーイベントは
募金活動、サイン会、田中選手への質問コーナー、
田中選手小中高生への練習参加
と盛りだくさんでした。

大人が行くのは場違い?的雰囲気も漂っておりましたが
募金は多い方がいいでしょ

先週は避難所でのボランティア活動、
今週はちょっとゆる~い感じでの協力でしたが、
こんな人の輪による協力もありだと思う私です。


このちっちゃいホッケープレイヤーの虜になりました。w
豪くん、もうパパの雰囲気?

やるべきことが自分らしく、自分の得意な所で発揮できれば

そういう方法こそ強く長続きする援助活動になるのでは
と、思ったりしています。


地震その後。。。

2011年03月21日 23時49分49秒 | weblog
 東北やその他東関東の各地を襲った大地震から10日が経った。

 ショッキングな津波の映像が日々テレビで流され、死者、行方不明者の数が信じられない数に上った。 このブログの2つ前とその前の記事では八戸の蕪島について書いたが、この蕪島周辺が津波で破壊された光景もテレビで見た。 2月24日の記事の一番下の写真、鳥居の上の方の建物は公衆トイレだと思うのだが、この建物が瓦礫の中にゴロッと転がり、その向こうに見える入り江の水面も同じく瓦礫で埋め尽くされ、どこが陸でどこが水面なのかわからないほど瓦礫しかなかった。 瓦礫の中にポツンと紅い鳥居が立っていた。 最初はそれが蕪島だと気づくことも出来ないほどに変わり果てた姿だった。

 地震直後にラジオのキャスターがヘリコプターからこれら地域の状況を見たとき、まったくどこから手をつければよいのか想像すらできず愕然とした、というようなことを言っていた。

 被災地の厳しい状態に胸が痛くなるような中、自分の生活も2~3日は電話がつながり難いような状態だったり、スーパーに物が無い、ガソリンが無い、そしてそれに追い打ちをかけるように福島第1原発の事態が明らかになり計画停電をする、さらには被爆の可能性が、などという話まで。。。

 そんな風にバタバタしている中、自分のお教室の仕事をきちんとやれる自信も、生徒の安全も保障出来ないと思い春休みまであと一週間というところで今年度を終わりにしてしまった。 4月からはきちんとクラスを行いたいと思っていたが、少なくとも5日前まではその自信がほとんどなかった。 ただやりたい、やりたい、と思うばかりで気持ちは焦っていた。 まるで先のヘリコプターのキャスターのようにどこから手をつければ・・・という感じだった。
 そんな風に自分のこともままならないのに、この震災、被災者に対して自分に何か出来ることはないのか、とそんなことも感じていた。 けれど自分のこともきちんと出来ない余裕のない人にそれは無理なのだ。 とりあえず出来ることは募金だけだった。 幸い大好きなアイスホッケーの選手たちが各ブログサイトで募金のお知らせをしていたので、そちらに募金をして少し落ち着いた。

 けれど3日前ごろから随分と気持ちが落ち着いてきた。 ひとつにはすべてのクラスを中止してやっぱり良かった、と思えるようになったこと、電話が完璧につながっていたこと(何があっても保護者や会社に連絡がつく)、停電の地区や時間も随分わかりやすくなっていたことなどで、4月からのクラスもなんとか出来そうだという自信が自分の中にわいてきた。 

 新年度に向けての準備にも気持ちが入るようになってきた。 自分の仕事がはかどると、家の仕事も自然とはかどる。 スーパーの品物はさらに減るのかと思っていたら、今ではほとんど以前と同じような状態だ。 「牛乳は一人一本」とかあるけれど、あるものを食べればいい。 
 それでもやはりネットを見ると地震に関する色々な物を見てしまう。 テレビも昨日(一昨日?)くらいまではほとんど地震の情報ばかりだった。 やはり自分に何かが足りない、という気持ちになった。

 そんなわけで20日(日)は友達と一緒にさいたまスーパーアリーナにボランティアに行ってきた。 スーパーアリーナには福島県双葉町やその周辺から避難してきた人たちが集り、20日午後2時ごろの時点でその数は2,300名位になっていた。 ボランティアも予想以上に集り、お昼頃にはボランティア招集を締め切りにしていた。 支援物資も置き場が無くなるほど十分に集っていた。

 私がボランティアに参加したことは単なる自己満足にすぎないかもしれない、と思っている。 けれどやれることは精いっぱいやってきた。 本当はこういう援助は継続的に行わなければ意味がない。 2,300名の人々がみんな安心して住めるおうちや故郷に帰るまで見届けたい気持ちはある。 けれど実際の自分の生活を考えたらなかなか今後は出来るような気がしない。 できれば今後も多くのボランティアが集ることと、さいたま市の努力を願うしかない。

 ただ一つ思うことは、みんなが以前の生活に戻れるよう、ひとりひとりが日々粛々と以前と同じように生きてゆくことも大切だろう、ということ。 落ち込んだり心配ばかりしているだけでなく。
 以前と同じように働き、娯楽も消費もしてゆくことで経済が回り、結果被災地の復興にもつながると言う話を聞いた。 話は飛ぶけれど、私も蕪島のウミネコをまた見に行きたい。 八戸で行われるアイスホッケーもまた絶対に行く。 そんなことも現地の復興につながれば、と希望を持ちながら私もまた明日からしっかり働いてゆきます。 だから、アイスホッケーも早く復活してほしい。(現在自粛中であらゆる試合が中止になっています)

 春休みにはなっているけど、明日から何名か春期講習にやってくる生徒がいる。 生徒たちも大変な中やってくるのだから、私もしっかりやらなくちゃ。 

 八戸港では本日震災後初めての水揚げがありました。 

大地震が来た。。。

2011年03月11日 22時28分12秒 | weblog
 本日午後2時半過ぎごろ。 地震が東京を襲いまいした。 いつも通り授業準備も終わり、さて夕食の支度をしてクラス開始を待とう、という頃にガタガタガタ。。。と。

 普段の地震のように揺れがすぐに収まるだろう、とジッとしていたのですが揺れは収まるどころか長く強く続いてゆく。 ガタガタガタガタ、と家じゅうのあちこちから音がして、そのうちバタン、ガタン、ガシャンと何かが倒れたり落ちたりする音がしてきて、気持ちがちょっと怖いから心配、恐怖に変わっていって「お願いだからもう止まってーっ!」と思ってもなかなか止まらず、「何かしなくちゃ」「いや、今は何もしないで柱の多い所でジッとしていよう」とか、結局どうすることもできず、「これ以上大きくなったらどうする?」とパニくっているうちに揺れがいったん収まった。

 とりあえず食器棚やタンスが倒れることもなくホッとしていると再びカタカタカタカタ。。。と地震が。 その後も何度も余震が来て「これは普通の地震じゃない」とようやく思い、テレビをつけると東北地方が震源地でこれから津波が来る、と。 今までのケースでは津波が来ると言っても大したことにならなかった場合が多かったので、「まさか」と思っていたのだが、数分後には信じられない光景がテレビ画面に映し出される。

 なんとなく呆然としていながら「もうすぐ授業だ。」と思い、「いや。授業なんかしてていいの? いや、うちに被害はないし。 辺りを見回しても普通だし。 これくらいで授業休んじゃダメでしょ。 いや、違うでしょ。」などと試行錯誤していると更に余震が。 「あ。 この地震はまだまだ揺れる可能性があるんだ。 今生徒なんか呼んでる場合じゃない。 授業中にもっと大きな地震が来たら私なにもできない。」ということがようやくわかって、すぐに生徒の保護者に休みの連絡を入れる。

 ところが、電話が通じない。 再びパニくる。 メールが送信出来ることがわかりすべての保護者にメールで連絡できたのは幸いだった。 けれど、このメールもいつものようにすぐに送られていたわけではなかった。 授業前に連絡がついたのは幸いだったけれど。

 その後何度も余震が来る中、自分の娘が本日大学受験で名古屋から帰ってくる予定だったことを思い出す。 どうする? とりあえずメールが送れることは分かっていたので送ってみるが。。。先ほどのようにサクサク送れない。 
 時間をかけて「今日東京に帰ってくるのは無理。電車がすべて止まっている。残りの試験を受け終えるまで名古屋にいなさい。」とメールを送る。 時間がかかって返信された娘のメールには「携帯の電源がもうすぐ切れそう。 お金もない。」
 そりゃ、そうだ。 すこし余分には渡してあったが、一泊で帰ってくるだけのお金しか渡していないのだから。 

 困った。 こういう時、本当に何もできないんだ、と実感する。 昨年一浪してようやくチャンスをつかみかけている娘なのでなんとかしてあげたいのに。 知人を頼って電話すると(この電話が通じたのがほんとうに奇跡)お金も貸してくれるし、今夜の宿も一緒に探してくれるとのこと。 助かった。。。
 結局のところ名古屋のビジネスホテルはその時間には(午後4時半ごろ)どこも満室になっており、娘はその知人宅にお世話になることになった。 本当にありがたい。 ありがとう。 ありがとう。

 テレビでは朝仕事に出かけ、すべての電車が止まったために家に帰れない人々の姿を映していた。 すべての電車が止まるということはこういうことなんだな、と思う。 みんな帰れないんだ。 この寒い夜の駅前で信じられないくらい多くの人が立ち往生している。 家に連絡しようとしても電話も通じない、メールも通じない。 夜に向かうにつれメールもどんどんつながりにくくなり、家族への連絡はiモード災害用伝言板などを使うように、と言っているが実際iモードもつながり難くなっている。 携帯電話間は時折つながるようだった。 それから、公衆電話からの電話も通じているようだった。

 今は娘のこともうちのことも授業のことも何事もなく対処できたので一段落しているが、テレビに写る各地で起きた被害や今も引き続き影響を受けている人々のことを考えると胸が痛い。 とんでもなく大変なことになっている。 なんとかこれ以上被害や被害者の出ないことを祈るばかりです。