玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

ありがとう問題と「水からの伝言」

2008年02月27日 | 「水からの伝言」
ありがとう問題の続き。

「客が店員に『ありがとう』と言うことが不快だ」と感じる質問者には多くの批判が集まった。
「ひねくれている」「理解不能」「自意識過剰」「ふざけてる」等等。
正直に言って私は質問者よりも批判する人たちのほうに嫌な感じがした。

「ありがとう問題」の背後には「水からの伝言」と同じ心理的メカニズムが働いているように思う。
ここでは仮に「一対一対応期待」と呼ぼう。心理学でこういう概念があるのかどうか知らない。私の造語である。
人間心理における「一対一対応期待」とは、あたかも一次方程式のように「入力A」を与えると確実に・自動的に「出力B」が出てくると期待する心の動きだ。

「ありがとう問題」の場合はこうなる。客が「ありがとう」と言う(入力A)とサービス提供者は必ず喜ぶ(出力B)と期待する。他の反応(「イラっとする」「馴れ馴れしい」「不快だ」)は想定されず、もし出てきたらそれはエラーとして存在を否定される。
「水からの伝言」の場合「一対一対応」は言葉・物質・精神という次元の違いを無視して「よいもの」「きれいなもの」を結びつける。と言うより「拘束する」。「ありがとう」→「美しい水の結晶」→「美しい心」という一直線の過程が期待される。「一対一対応期待」が強い人にとってはそれが自然であり正しい世界のあり方だ。

数学のイメージを借りて説明してみる。
実は私は数学が大の苦手で、微積分の入り口で躓いたクチである。間違いがあったらごめんなさい。
方程式 y=f(x) において特定のyが与えられたときxの値が一つだけ定まるとしよう。一次方程式 y=2x であれば、y=2 のとき x=1 だ。他の答えが出たとしたらそれは間違いでしかない。
だが、数学は解が一つに定まる一次方程式ばかりではない。二次方程式なら y=x^2 でyの値が4のときx=-2,2だ。二つの解がある。方程式が複雑になれば解の数が増えたり、あるいは答えを求められなくなったりする。
現実世界はもっと複雑だ。
善意の行為が誰も望まない結果につながることがある。きれいな言葉で道徳的に問題のある概念が表現されることもある(その典型が「水からの伝言」だ)。「一対一対応期待」は「こうだったらいいのに」という願望と現実を混同している。

「一対一対応」は生活のためにとても役立つ。
行為の結果について考えずにすむ。精神的な労力の節約だ。現代社会では便利な「一対一対応」があふれている。
たとえば自動販売機。お金を入れてボタンを押せば商品が出てくる。客を選んで販売拒否することはない。
たとえば自動車。アクセルを踏むと走り出す、マジで。ちょっと感動。
たとえば水道。蛇口を開ければ水が出て、閉めると止まる。
どれもあたりまえのように使っているが、考えてみればあまりにも便利である。

だが世界とは「一対一対応」がつねに成り立つほど単純で便利なものなのだろうか。そんなはずはない。
自動販売機も自動車も水道も、人間が一生懸命考えて作り上げた結果としてようやく「一対一対応」が実現できた。自然は人間の要求に常に素直にこたえるほど優しくない。農業で同じ労力を費やしても天候により豊作の年と不作の年がある。怒っても恨んでもどうしようもない。
複雑な人間の心理において「一対一対応」が常に成り立つはずもない。ときに「ありがとう」が反感を呼び、「美しい水の結晶」が差別につながる。人間とはそういう生き物であり、だれもが常に「一対一対応」するようになれば欠点だらけの愛すべき人間性は失われる。
「客が『ありがとう』と言えば店員は必ず喜ばなければならない」と期待する強い「一対一対応期待」は人間性を軽く見ている。店員が複雑な心を持つ人間であることを忘れている。「ありがとう」という言葉をかければ喜ぶ機械のように見なしているのだ。

「ありがとう問題」は今のところたいした問題ではない。サービス業従事者のほとんどはお客様に「ありがとう」と言ってもらえば自然とうれしくなるはずだ。そういう心の動きをする人でなければわざわざ気苦労の多い仕事を選ばないだろう。「ありがとう」と言う客も店員を軽んじているのではなく喜ばせたい、そして自分も気持ちよくなりたいだけである。お互いの気持に嘘や押し付けは(ほとんど)存在しない。

恐ろしいのは「水からの伝言」の「一対一対応」だ。
「ありがとう問題」では言葉と人間の心というお互い影響を与え合うものを一対一対応させていたが、水伝の場合「きれいな言葉」→「美しい結晶」→「よき心」という関係が偽造される。科学的事実と論理を無視して「言葉」「物質」「道徳」を拘束する。嘘をきれい事で飾り立ててインチキな道徳を押し付ける。
こんなものが「いい話」として通用するのはニセ札が流通するのと同じくらい困る。
大阪大学の菊池教授は「想像力が足りないからこそ、「水からの伝言」を肯定できるのだろうなあと思うわけです。」と言っている。私も同感だ。「一対一対応期待」にとらわれた思い込みは人を自由にする想像力とは違うものだ。