くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

仙石の人相

2010年11月20日 | Weblog
政治家なりたての頃と今。

同級生を見ても、人相さまざまである。えらく疲れ生気の無い濁った眼に変わり果てた者もいれば、良い意味で年相応に見えないいまだ若さはつらつの表情を浮かべるものもいる。社会的にも成功し、いかにも自信に裏打ちされ、「負けた!」と思わずにはいられないほど自信に満ちた人相、風貌のものもいる。

生来の美醜が無関係とはいわないが、人相はその人の歩んできた人生の「映し鏡」、ということなのだろう。

その点、仙石という人の人相の変わり様は相当なものである。しかも、悪い意味で。率直に言って、今の仙石の人相は相当な悪相なのである。

仙石由人、少なくともこの約20年、彼は一体どのような人生を歩み、そしてあのような不愉快な面構えになり果てたのだろうか。あの「顔」に、滅びの気配がする・・、と私は思うのである



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あえて売国奴仙石を弁護する: 自衛隊=暴力装置発言

2010年11月20日 | Weblog
何を隠そうや、私も自衛隊に限らず、強制力、破壊力をもった組織、システムを「暴力装置」と呼んだことがある。

ただ、それを否定的な意味で使ったことはない。

ゆえに国家権力、いや国家そのものが否定されねばならない対象であるなどと思ったこともない。その点は、反国家思想の「啓蒙」を受けたと言われている売国奴仙石とは大きく異なる点なのかもしれない。

私にしてみれば、「暴力」なるものの否定そのものを無意味だとい思っている。

遠い未来において人類の精神文明がどこまで進歩するか否かはいざ知らず、今日只今そして近未来において、我々人類は「暴力」とは決して縁を切れまいし、「暴力装置」の存在とは不可分の関係にあり続けるであろう。

もっといえば、私は必要とあらば「暴力」を何らかの目的を達成するための手段としてもその存在意義を否定しない。

したがって「自衛隊は暴力装置」と聞いても、なぜそれが批判されなければならないのか感覚的にその批判精神というものを共有できないのである。

確かに、一般論として「暴力」という」言葉に良いイメージは浮かばないのが世間一般の感覚だろう。「暴力団」なんて言葉は一般化しているのもその証左だろう。もっともと、私的には漫画家楳図かずお氏の自宅を指して「色の暴力」とメディアを前に声を張り上げたオバちゃんの方に金バッジのオニイさん方よりも恐怖をおぼえたものだが、いずれにしても「暴力」は否定的、批判的ニュアンスをもって使用される言葉とおいうのが、世間の常識であろう。

が、それはやはり現実感覚の欠如の証左でもあると思う。国際情勢、またそのなかでの国家の保全、社会生活に潜むさまざまな脅威に対する保全は、それのみというわけではないが、好むと好まざると「暴力」の存在によって可能なのである。それを持ち、それを更に拡充させようとしたがゆえに、本来それによって守られるべきである国家、国民に悲劇をもたらしたケースもあるが、同時にそれを持たぬがゆえに悲惨を味わったケースの存在も、歴史は証明している。「暴力装置」がいずれの結果をも招き得るということを認識しつつ、両者の間でバランスをとることこそ求めらえるはずであるが、どうやら少なくとも今の日本では、前者が過剰の認識され、その結果、仙石発言が批判的な注目を集めているのではないだろうか。

仙石発言を「飛んで火にいる」とばかりにやり玉に挙げた野党の諸センセイ方も、上記のことは十分理解したうえで、批判の矛先を向けたはずである。もしそうでないとすれば、そんな人間に国政を任せることにこそ恐怖せざるを得ないが、そうではなく理解したうえで発言を政争の具としたのであれば、それこそ批判されねばなるまい。

まさか、あの売国奴の肩を持つことになるとは思わなかったが、一寸の虫にも何とやら。坊主憎けらや袈裟までではなく、以下のあんな下郎であろうとも、擁護すべきと自分自身が信ずる部分においては、やはりそうしてやらねばならないと思うのである。

自衛隊は暴力装置です、ええ、日々の精勤に頭を垂れるべき我が国の冠たる「暴力装置」なのです。
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山本晋也"監督(?)"の松平健「批判」はいかがなものか?

2010年11月20日 | Weblog
女房に自殺されてしまったマツケンへの同情論に対して、今はいざ知らず昔は確かに映画監督だった山本晋也が、「自分だったら女房と一緒にいた」と牽制をいれた、いや事実上批判したというが、果たしてこれまたいかがなものか。

予期せぬ事態だったわけではなかったことを考えれば、マツケンの留守中の対応は熟慮の末と言えるかどうか疑問は残るし、批判も完全に回避はできまい。

ただ、マツケンあたりになるとどうなのだろうか。

自分の都合だけで仕事を減らしたり、地方公演をカットしたりなんてできるのだろうか。一座を組めば、そこに加わる役者や裏方の生活がかかってくる。本人に一座を率いて全国を回ることに躊躇があっても、周囲の事情がそれを許さないということもあるはずだ。

いや、もしかしたらそんな入り組んだ事情などなく、単にマツケンの女房を思う気持ち、配慮が不足していたのかもしれない。
それをより単刀直入に愛情の不足と言いかえることもできるかもしれない。

ただ、そのあたりの事情が明らかでないままに、批判めいたことを言ってのけるのもいかがなものか。

普通に考えて、女房に突然悲劇的な死に方をされ、幼子と一緒に取り残された夫の悲しみ、辛さ、自責の念は、それを経験した者には、持ち得る想像力を十二分に働かせたところで、理解できるものではあるまい。

ならば、普通に考えて、打ちひしがれているであろう相手に対して、容赦なく「おれだったら」の言葉をぶつける山本「監督」の言動こそ、問題視されてしかるべきではないのか。

もしかしたら「監督」は、事情を知っているのかもしれない。そのうえでのマツケン批判なのかもしれないが、視聴者にはそんなのわからない。視聴者に自分の知っている事情に言及もせず、批判めいた言葉だけを口にすれば、視聴者はどう受け取るのか。映像を通して飯を食ってきた人なら、容易にわかりそうなものだと思うのだが?

むしろ「人情の機微に疎いのではないか?」などとその人格を問われるべきは、山本「監督」なのかもしれない、のでは?
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