くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

予想を裏切らなかった駄作、映画「桜田門外ノ変」

2010年11月13日 | Weblog
ようやく時間を見つけてみることができたのだが、期待通りというべきか、予想通りのおもしろくない映画だった。

監督が佐藤純彌と知った時点で、こりゃ「おもしろくない映画になるぞ」と予想したものだが、その通りになったわけだ。
佐藤の映画はこれまで、角川の一連の「証明」シリーズ、今回「桜田門」出演の北大路欣也主演の「空海」、緒方拳が大黒屋光太夫を演じた映画(題名失念)、そして「男たちの大和」と見てきたが、どれもこれも実に退屈な作りなのである。ことさらにクライマックスを作って盛り上げるような手法も好きではないが、佐藤の映画というのは実に大味、薄味で映像にも演出にもオモシロミがない。それに映像自体が古臭い。その佐藤らしさが今回もいかんなく発揮されたというわけだ。

率直に言って、あれではNHKの「そのとき歴史が動いた」の劇場版みたいなもので、実に叙述的なのである。

あえて見どころはと言えば、やはり大掛かりなセットまでこしらえて撮った「変」そのもので、あればかりはさすがの迫力。
「御城」のまん前で譜代筆頭格の名門大名にしてかつ幕府の実権を握る大老が白昼堂々、しかも自邸の目と鼻の先で首を挙げられるという本来ならばあるべきではない「無様」な死に方をしたことに、昔からその場を思い描いてみてはグロテスクなゾクゾク感を味わったものである。特に大学の学部時代に履修した「幕末政治史」で、教授の史料をもとにした詳細な講義には興奮しながら聞き入ったものだが、それゆえにこそ、これまでTVドラマ等で描かれてきた「変」には到底満足がいかなかった。という意味では、今回初めてかなり満足した。ほぼ、自分が思い描いた通りの井伊掃部暗殺の顛末であった。

ただし、あくまでも、「ほぼ」である。通説では井伊のか駕籠に刃を向けたのは二人だけではないはずであるし、首を挙げた有村は、勢いよく雪の上に転がったそれを切っ先に刺したことになっているが、映画はそうではなかった。原作小説がそうだったのかは知らないが、通説通りに描いて欲しかったものである。

後は私にとってはあくびの連続であった。厳密には、主人公が事件後農家に身をひそめる姿を遠見にする姿に若干
鼻にツーンとくるものを感じ、追ってを逃れた高橋親子が寺内の一間を借りともに自害するシーンに、自害した側ではなく、武士の情けを聞き入れて血に染まるであろう部屋を貸した男の心意気に、「かくあれかし」と関心したものだが、それ以外は退屈に時間を遣るしかなかった。


で、結局、何が言いたいのかとも思った。

登場人物の描き方も実に散漫というか皮相なのである。関鉄之助にしろ、井伊にしろ、烈公にしろ、人物が十分に描かれているとは到底思わなかった。

水戸浪士らから憎まれ恨まれ果てには命を取られた井伊とは、いかなる人物だったのか。「花の生涯」や「井伊大老」に描かれているような先見の明を持つ悲劇の名君だったのか、それとも英明ではありながらも政治手腕が剛腕に過ぎ、すなわち稚拙に過ぎ、
あえなく因果応報としてのあのような惨死に至ったのか。

伊武雅刀の井伊では、映画としてはヒールとして描きたいのか、そうでなくばどう描くつもりだったのかが曖昧模糊のままであった。

関鉄之助の人となり、思想背景すなわち水戸学の影響もいささかも描かれてはいなかった。そもそも、大沢たかをに侍役は無理があったのではないのか。

「再現フィルム」を延々2時間余にわたって見せられて、1700円(東宝シネマ)はいささかコストパフォーマンスが悪過ぎた。















コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 憲法に拠らない政治社会変革... | トップ | 山本晋也"監督(?)"の松平健「... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事