くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

憲法に拠らない政治社会変革の可能性

2010年11月09日 | Weblog
最近のいろいろな動きを見ていると、所与の条件しだいでは近未来において、憲法が正当化していないかたちでの政治社会変革は我が国に生ずる可能性もまんざら否定できないように思えてきた。

それは単に民主党政権の失政によるというものだけではなく、皮肉にも現行憲法によって裏付けられた体制が半世紀以上にわたって育んできた現実世界との矛盾、変化しつつある内外環境への対応不全という大枠の問題もあれば、前政権すなわち自民党政権が貯め込んできたものあるいは糊塗してきたものが民主党政権ごときでは解決どころかもはやそれを隠蔽し続けることすらできなくなってきたことにもよると思う。

憲法に拠らない体制変革が民意を背景とし、国民世論の支持を得るのであれば、憲法に矛盾する方法論によるものであったとしても、それこそ民主主義という観点から見れば、正当な行為であると論ずることは可能であろう。

そもそも、現行憲法自体が民意と乖離を初めてしまい、近未来においてかりに民意の多数が憲法の何らかのかたちでの改廃を望んだとすれば、それにそう政治行動こそ民主主義の実践であり、むしろ護憲こそ民主主義に矛盾するということになろう。

もっとも、一度そういうキワドイやり方でうまくいってしまうというのは、「パンドラの箱」になる危険性もなくはない。キワドイ方法で成立した体制が、いつか同じくキワドイ方法によって改廃されるという可能性は否定できないし、前例があれば尚更その可能性は高くなる。日華事変発生後、拡大を嫌う石原に対し、武藤章が言い放ったという言葉、まさにそれこそが好例ではないのだろうか。

但し、そこまで臆病になることはないのかもしれない。いや、そもそも論で考えてみれば、政治行動に定型を求めたり、暴力の政治手段としての排除という前提を儲けて、その枠組みのなかだけで思考し行動すること自体、「政治」というものにおいては愚かなことなのかもしれない。いかなる体制、制度も時々に改変の手を加えてやらねば持続は困難となるし、かりに改変により延命を図っても、いずれ終わりはくる。その終わりが平和裏のものであればそれにこしたことはないが、そうはいかぬのがヒトの世界である。この現実を前提とすれば、憲法に拠らぬ政治改革の時が来ることを待ち望むことは決して許されざることではないのかもしれない。

と、現行憲法が保証する言論の自由のもとに、起こりうるかもしれない現行憲法並びに政治社会体制の否定に対してそれを許容可能とする私の言い分は、大いなる矛盾であるのかもしれない。

が、矛盾があって何が悪い、と開き直り論理の呪縛を拒絶することも、また政治的にはアリなのではないだろうか。政治における手段の良し悪しはすべて結果によって決まるというのは、暴論に過ぎるだろうか。

しかし、どう考えても、今後少なくともいささかの没論理性、乱暴さが政治に求められるような事態がやってくると予測するのは、私だけなのだろうか。
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