くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

爆笑問題の論理矛盾: 昔話と憲法9条、「爆笑問題のニッポンの教養」を見て

2010年10月05日 | Weblog
NHK爆笑問題のニッポンの教養での小澤俊夫氏との対談。

ディズニーによるグリム改ざんを批判し、小沢氏のいう「人間の根源的問題あるいは本質から子供の目を覆ってしまっている」みたいなことで、意気投合。そこをあえて子供に見せて、教えることで生き方を学ばせるべきというのだ。


まったくだ。その通りだ。日本だってそうで、最近出版されているのカチカチ山のすべてとは言わないが多くは、婆さんの殺され方から「残虐性」が消されている。本当は、婆さんは狸に・・・。自分もつい数年前までそれを知らなかったのだが。


しかし、待てよ。憲法9条をあれだけ持ち上げていたのは、他ならぬ爆笑問題の太田だったのではないか?

憲法9条といえば、戦争放棄、戦力の不保持。でも、これって、それこそ人間の本質に「縛り」を賭けてしまって、封印してしまっていないか? 昔話からの残虐性の排除を批判するなら、憲法9条も批判すべきだろう?

利害対立を暴力あるいは闘争をもって解決をはかるって、実に人間らしくないか。というか、人類史が語るところではそれが人間の否定できない一面で、今でもそれはかわっていないはず。自衛だのどうのと言ったところで、こじつけが露わになってしまったイラク戦争みたいなのもあるし。

小澤・爆笑問題流にいえば、あえて国の交戦権、戦力の保持を認めたうえで、すなわち人間の本質的なところを認めたうえで、いかに戦争を回避して平和裡に対外対立を解決するか、平和を維持するかってことに腐心するってことこそ、あるべき姿なのではないのか。これこそ理想主義的平和主義のあるべき姿だ、ってことになるのでは?

やむを得なかったら、使うことだってできるわけで、使える可能性があるとなれば、それなりの防衛力、戦力も持てたんじゃないの?

だって、憲法9条って、三匹の子ブタのうちの二匹が食われちゃって最後はオオカミが食われちゃったとか、婆さん殺されて料理されて食われちゃった、しかも爺さんが婆さんを・・・なんて残虐な部分を封印して寓意を伝えようとする「改ざん」された昔ん話と変わんないんじゃないか?

憲法の全部だってそうだ。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するだって? こんなのウソだろう、というか、虚構を信じて生きていけるほどこの世の中甘くはないことくらい、尖閣問題をめぐる中国のめちゃくちゃさを見なくたってわかるってもんだ。そんな「信頼」なんて、世の中の現実、しいては人間の本質に目を瞑って、きれいごとの思いこみで生きて行きましょうって
言っているのと同じでしょう?

常識的に考えて、バカげた憲法ってことなんじゃないの? 少なくとも、この部分にかんしちゃあ「あんな憲法」ってことでは?

まあ、芸人だから、その時その時で言うこと違ったって、「芸人だから」ってことで許される、ってことにしておくべきなんだろうな。
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