他所の方言のことはよくわからないので、その言葉自体の良し悪しについては何も言えないが、条例でもって言葉遣いをとやかくするべきなのだろうか。
3月2日のYahooニュースによれば、佐賀県武雄市の樋渡啓祐市長が、女性配偶者を名前無しで呼ぶ「オイ」、「ワイ」を条例でもって禁止しようとの構想を打ち出しているという。
市長氏が自身のブログにおいていわく、男女共同参加社会の実現が進まぬ現状を打破する意図とのことだ。
国レベルでは平成11年に基本法化もされている男女共同参画社会実現の方向性をとやかくはいまい。それがジェンダーフリーなるイデオロギー臭ぷんぷんの得体の知れないものを志向するのでないならば、ではあるが。日本という国において、人権という点から男女という異なった性の置かれている現状を見た場合、解決・改善すべき問題・課題が無いわけではない。越えねばならぬ山は幾つもあると思う。私にとってその生態の不明な点の多々あるトランスジェンダーはさておき、男女が同じヒトではあっても、その身体的特徴に明々白々たる不同なものが存在するうえからは、その違いが思考や性癖、行動、あるいは社会生活上においても差異を生じることは致し方あるまい。前述トランスジェンダーや性転換された方々はさておき、一般多数の男女にとって、それは男女それぞれの生来の分際として甘受せねばならない現実である、と考える。但し、その差異が両性の好むと好まざるとにかかわらず共生する共有空間、すなわち社会において、補正度制度上の権利ならびに義務において差別化されてはならないと思う。もっとも、生き物としての差異をまったく無視した権利や義務の法的な付与が、かえって男女双方にとって不都合をきたす可能性も否定はできず、生物的な差異、またはそこから自ずと生ずる差異と、権利・義務における無差別との折り合いは、広く議論を重ねた上で国、自治体それぞれの所定の立法・行政プロセスの中でつけていくしかあるまい、少なくとも民主社会においては。
権利・義務上における男女平等や男女共同参画社会実現のためには、男性側の意識改革が必要であるという樋渡市長の言い分は理解できる。男女平等なり共同参画社会というのであれば、女性の側も女性であるがゆえにこれまで許されてきたいわば既得権益のようなものに安住していてはいけない。例えば、本当に男女平等を言うのであれば、本当に両性の対等を前提に社会的共同参画を主張するのであれば、女性の側からこそレディーファーストや飲食店などでのレディースプライス等に”NO"の声を挙げるべきである。そうした甘えられる部分にはほっかむりの温存を決め込みながら、もっと権利を平等をというのはいいとこ取りで都合が良すぎる。しかし、同時に男性の側も意識だけではなく行動も変えてゆかねばなるまい。女は家庭に!なんて言いながら職場から女性を閉め出そうとする男性諸氏の中には、女性との職場での競争を恐れているのではないかと勘ぐりたくなるような程度の御仁も散見せぬではないし・・。
しかしながら、個人の言葉遣いまでをも法的な縛りの内に置く(統制する)ことが、果たして男女共同参画社会の実現を目指すうえにおいて本当に必要かつ適正な手段・方法なのだろうか? かりに有効な手段だとして、表現手段・方法にまで介入することは、個々人の心の内にまで政治が手を突っ込むことになりはしないだろうか。
例えば、佐賀県武雄市在住の男性A(65)が妻のB(61)に対して日頃から「オイ」、「ワイ」と名前抜きに呼んでいたとする。だが、Aは結婚このかた妻Bを深く愛しており、定年退職後はできるだけ家事の手伝いもするようにしている。「オイ」、「ワイ」と妻を呼ぶのは、地域の昔からの言語慣習をそのまま従っているだけで、妻を見下す意識があるからというわけではない。妻も「オイ」、「ワイ」と呼ばれることに何らの抵抗もなく、そう呼ばれるからといって、夫が自分を見下しているとか、対等のパートナーとして処遇していないなどと思ったことはいまだかつてない。
このような夫婦に対して、いきなり「オイ」、「ワイ」は男女平等、男女共同参画社会に矛盾する言葉遣いだ、禁止だ、条例違反だと行政が介入してきたとしても、それは犬が虚に吠えるがごとき行為になりはしないだろうか。つまり、Aが妻Bを「オイ」、「ワイ」と呼ぶ行為に性差別意識や男女共同参画社会に反旗を翻すような意識ないし意図など皆目ないのだ。ところが、一犬虚に吠ゆれば、萬犬なんとやら、と言う。Aのみならず、彼と同様の意識レベルでもって「オイ」、「ワイ」と今までやってきた男性諸氏は、性差別主義者として一斉に社会の糾弾を受けぬまでも、痛くもない腹を探られて、そのうえ長年使い慣れた言語を奪われるという、踏んだり蹴ったりの目に遭わされることになるのだ、少なくとも佐賀県武雄市では。
おそるべし佐賀県武雄市。条例が実現すれば、男性諸氏にとってはこの世の苦界とあいなるわけだ。観光で行くならまだしも、そんなところに住みたくはないな、くわまん氏は。
さて、今回の条例構想を打ち上げた樋渡市長、見た目は40代半ばから後半?って感じなんだが、昭和44年生まれの37歳で、しかも東大経済学部卒の元総務官僚。いわばエリート。おそらく将来的には佐賀県知事か中央政界への進出を目論んでいるのではないだろうか。こういう言い方をすれば武雄市民に失礼だが、東大出の元官僚が、たかだか人口5万のしがない地方都市の首長で「上がり」では満足するわけもあるまい。
「そんな東大出の官僚出身エリートが何でこんな冗談みたいな条例構想を!?」なんて驚いてはいけない。官僚出身だからこそ、こういう言論統制みたいな条例が思いつくのだ。「お上」意識のなせるわざなのだ。
などと言ってしまえば、「痛くもない腹を探られているのはこっちの方だ!」と樋渡市長がご立腹されますかね?
それにしてもこの言語統制条例案、「お前のパンツの中はどうなってるんだ!?」みたくゲスですな。房事の真っ最中にうっかり女房なり相手の女性を「オイ」、「ワイ」と呼んで、相手に「あ、条例違反!」なんて言われたら、一度に萎えてしまうだろうなあ・・・。トラウマになってインポにでもなったら、それこそ少子化に拍車をかける恐れだってあるというものだ。
この程度のレベルの市長を選んでしまった武雄市民の皆様、この条例がもし日の目をみるようなことになったとしたら、自業自得と観念するしかないですな、特に男性市民の皆様。あなた達の政治民度が低いから・・・。市長も市長なら、市民も市民。いずれも武雄の政治民度を映し出しているのかも・・。そして、武雄が今の日本の政治民度を映し出しているのかも・・・。
武雄をもって一般論化することが論理の飛躍ならば、せめて九州の政治民度と言うにとどめておきましょうか? 東国原知事といい、このとんでも条例構想といい・・・、地域のレベル示しているんじゃないですか? 武雄や宮崎だけで九州全体を語るのも論理の飛躍? まあ、そうかもねえ・・、でも少なくともある程度は示唆的であるとは思ったりもするのだけれど・・・。
これで私も九州の皆さまの仇?
3月2日のYahooニュースによれば、佐賀県武雄市の樋渡啓祐市長が、女性配偶者を名前無しで呼ぶ「オイ」、「ワイ」を条例でもって禁止しようとの構想を打ち出しているという。
市長氏が自身のブログにおいていわく、男女共同参加社会の実現が進まぬ現状を打破する意図とのことだ。
国レベルでは平成11年に基本法化もされている男女共同参画社会実現の方向性をとやかくはいまい。それがジェンダーフリーなるイデオロギー臭ぷんぷんの得体の知れないものを志向するのでないならば、ではあるが。日本という国において、人権という点から男女という異なった性の置かれている現状を見た場合、解決・改善すべき問題・課題が無いわけではない。越えねばならぬ山は幾つもあると思う。私にとってその生態の不明な点の多々あるトランスジェンダーはさておき、男女が同じヒトではあっても、その身体的特徴に明々白々たる不同なものが存在するうえからは、その違いが思考や性癖、行動、あるいは社会生活上においても差異を生じることは致し方あるまい。前述トランスジェンダーや性転換された方々はさておき、一般多数の男女にとって、それは男女それぞれの生来の分際として甘受せねばならない現実である、と考える。但し、その差異が両性の好むと好まざるとにかかわらず共生する共有空間、すなわち社会において、補正度制度上の権利ならびに義務において差別化されてはならないと思う。もっとも、生き物としての差異をまったく無視した権利や義務の法的な付与が、かえって男女双方にとって不都合をきたす可能性も否定はできず、生物的な差異、またはそこから自ずと生ずる差異と、権利・義務における無差別との折り合いは、広く議論を重ねた上で国、自治体それぞれの所定の立法・行政プロセスの中でつけていくしかあるまい、少なくとも民主社会においては。
権利・義務上における男女平等や男女共同参画社会実現のためには、男性側の意識改革が必要であるという樋渡市長の言い分は理解できる。男女平等なり共同参画社会というのであれば、女性の側も女性であるがゆえにこれまで許されてきたいわば既得権益のようなものに安住していてはいけない。例えば、本当に男女平等を言うのであれば、本当に両性の対等を前提に社会的共同参画を主張するのであれば、女性の側からこそレディーファーストや飲食店などでのレディースプライス等に”NO"の声を挙げるべきである。そうした甘えられる部分にはほっかむりの温存を決め込みながら、もっと権利を平等をというのはいいとこ取りで都合が良すぎる。しかし、同時に男性の側も意識だけではなく行動も変えてゆかねばなるまい。女は家庭に!なんて言いながら職場から女性を閉め出そうとする男性諸氏の中には、女性との職場での競争を恐れているのではないかと勘ぐりたくなるような程度の御仁も散見せぬではないし・・。
しかしながら、個人の言葉遣いまでをも法的な縛りの内に置く(統制する)ことが、果たして男女共同参画社会の実現を目指すうえにおいて本当に必要かつ適正な手段・方法なのだろうか? かりに有効な手段だとして、表現手段・方法にまで介入することは、個々人の心の内にまで政治が手を突っ込むことになりはしないだろうか。
例えば、佐賀県武雄市在住の男性A(65)が妻のB(61)に対して日頃から「オイ」、「ワイ」と名前抜きに呼んでいたとする。だが、Aは結婚このかた妻Bを深く愛しており、定年退職後はできるだけ家事の手伝いもするようにしている。「オイ」、「ワイ」と妻を呼ぶのは、地域の昔からの言語慣習をそのまま従っているだけで、妻を見下す意識があるからというわけではない。妻も「オイ」、「ワイ」と呼ばれることに何らの抵抗もなく、そう呼ばれるからといって、夫が自分を見下しているとか、対等のパートナーとして処遇していないなどと思ったことはいまだかつてない。
このような夫婦に対して、いきなり「オイ」、「ワイ」は男女平等、男女共同参画社会に矛盾する言葉遣いだ、禁止だ、条例違反だと行政が介入してきたとしても、それは犬が虚に吠えるがごとき行為になりはしないだろうか。つまり、Aが妻Bを「オイ」、「ワイ」と呼ぶ行為に性差別意識や男女共同参画社会に反旗を翻すような意識ないし意図など皆目ないのだ。ところが、一犬虚に吠ゆれば、萬犬なんとやら、と言う。Aのみならず、彼と同様の意識レベルでもって「オイ」、「ワイ」と今までやってきた男性諸氏は、性差別主義者として一斉に社会の糾弾を受けぬまでも、痛くもない腹を探られて、そのうえ長年使い慣れた言語を奪われるという、踏んだり蹴ったりの目に遭わされることになるのだ、少なくとも佐賀県武雄市では。
おそるべし佐賀県武雄市。条例が実現すれば、男性諸氏にとってはこの世の苦界とあいなるわけだ。観光で行くならまだしも、そんなところに住みたくはないな、くわまん氏は。
さて、今回の条例構想を打ち上げた樋渡市長、見た目は40代半ばから後半?って感じなんだが、昭和44年生まれの37歳で、しかも東大経済学部卒の元総務官僚。いわばエリート。おそらく将来的には佐賀県知事か中央政界への進出を目論んでいるのではないだろうか。こういう言い方をすれば武雄市民に失礼だが、東大出の元官僚が、たかだか人口5万のしがない地方都市の首長で「上がり」では満足するわけもあるまい。
「そんな東大出の官僚出身エリートが何でこんな冗談みたいな条例構想を!?」なんて驚いてはいけない。官僚出身だからこそ、こういう言論統制みたいな条例が思いつくのだ。「お上」意識のなせるわざなのだ。
などと言ってしまえば、「痛くもない腹を探られているのはこっちの方だ!」と樋渡市長がご立腹されますかね?
それにしてもこの言語統制条例案、「お前のパンツの中はどうなってるんだ!?」みたくゲスですな。房事の真っ最中にうっかり女房なり相手の女性を「オイ」、「ワイ」と呼んで、相手に「あ、条例違反!」なんて言われたら、一度に萎えてしまうだろうなあ・・・。トラウマになってインポにでもなったら、それこそ少子化に拍車をかける恐れだってあるというものだ。
この程度のレベルの市長を選んでしまった武雄市民の皆様、この条例がもし日の目をみるようなことになったとしたら、自業自得と観念するしかないですな、特に男性市民の皆様。あなた達の政治民度が低いから・・・。市長も市長なら、市民も市民。いずれも武雄の政治民度を映し出しているのかも・・。そして、武雄が今の日本の政治民度を映し出しているのかも・・・。
武雄をもって一般論化することが論理の飛躍ならば、せめて九州の政治民度と言うにとどめておきましょうか? 東国原知事といい、このとんでも条例構想といい・・・、地域のレベル示しているんじゃないですか? 武雄や宮崎だけで九州全体を語るのも論理の飛躍? まあ、そうかもねえ・・、でも少なくともある程度は示唆的であるとは思ったりもするのだけれど・・・。
これで私も九州の皆さまの仇?