くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

トルコの爪の垢: 歴史認識問題をめぐる日土の差異

2007年03月13日 | Weblog
第一次大戦中に起きたとされるオスマントルコによるアルメニア人虐殺問題。ことの真偽や逆殺の規模をめぐっては、南京事件同様諸説ある。

史学上いまだ史実としていまだ確定していないこの事件に対して、米国下院がまた口を挟み、非難決議だそうな。

米国という国のこの我が身を省みぬ干渉主義的な態度には相変わらず辟易させらえる。そんな暇があったらベトナムでの自らの所業に対する反省の足らざるを自己批判する非難決議でも採択すればよいのにとも思うが、残念ながらこの悪い癖、米国人からそうそう簡単に抜け落ちることはあるまいし、国家としてのベトナムでの所業を謝罪することなど未来永劫あるまい、余程の国家存亡の危機に瀕し、自らの来歴や伝統、堅持してきた価値観に対する自信と確信が揺らがぬ限り。少なくとも現在只今までの時点で、米国がそうした経験を味わったことはない。

自己肯定は羨ましいほどお得意だが(一部には学力低下の原因論として見直し論は出ているが、教育のあり方からしてそうなのだ)、自己批判ということにはいたく鈍感な米国市民達、戦後この方自虐のお好きな日本国民の一人としてある意味羨ましくもある。この手前勝手さに対抗できるのは、おそらくはどこぞの大陸民族くらいではないだろうか。

私には、トルコもまた羨ましい限りだ。米国議会の動きにトルコ政府は猛反発とは、産経新聞の報道だが、我が国政府の慰安婦問題をめぐる問題とは随分と異なるものだ。

安倍首相の腰の引けたような答弁も情けないものだが、今週明け早々にまた我が国外交官の一人が無益どころが百害あって一利なしの援護射撃を放ってくれた。本当に迷惑な話だ。そのお間抜け外交官とは、駐ロスアンジェルス総領事の児玉和夫氏のことである。氏はロスアンジェルス・タイムズへの寄稿文において、1993(平成5)政府は軍当局の関与を認め、謝罪した」として、日本は謝罪していないとする米国内での批判に対して反論を試みたのだ。

平成5年のとは言うまでも無くあの唾棄すべき河野談話(私は河野という政治家を当代一の傾国政治家と見ている。あのような輩が三権の長とは国恥以外の何ものでもない!)を指す。外交官としての立場上、児玉氏が公然とそれを批判するわけにはいかにことは言うまでもないことだが、だからと言ってあえて我が国は軍関与を認め謝罪していますとは、自己弁護の仕方を間違えている。このような抗弁ならしんないほうがましといものだ。

そもそも、河野談話が認めた軍関与等、現時点で史料的にこれぽっちも実証されていないのだ。つまり河野談話は虚に基づいているのであって、虚に基づく謝罪など、そもそもする必要すらなかった。そのような不要な謝罪をしていますから、謝罪していないという非難は間違っていますというのは、確かに過去の謝罪の有無という点において正鵠を得てはいるが、かえって軍関与が史実であることを追認することにもなってしまうことに、総領事だるものが気づかぬはずもあるまい。

それに対するトルコの勇ましさよ。外交とはしたり顔のすまし顔でするだけのものではるまいに、霞ヶ関の面々ときたら、お育ちがよろしいせいか、相手が米国であっても怯まぬトルコの蛮勇を見らならう気など果たしてお持ちではないのではないのか?

かつてトルコといえばトルコ風呂(古いね)。その名を聞いただけで笑いがもれたものだが、かつては中近東に600年余覇をなした世界に冠たる大帝国であった。オスマン朝の末裔たち、いやはや、たった一回負けたくらいで半世紀以上も旧敵国に尻尾を巻き続けるどこぞの国民とは一寸違う。天晴れ、天晴れ。

ところで、トルコの人々、東郷の子孫たちの今日の無様をはたして知っているのであろうか。
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