くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

三・一暴動

2007年03月01日 | Weblog
私的に、あれは独立運動ではなく暴動。暴動以上でも以下でもない。大日本帝国の法制度下においては、非合法な集団示威・破壊行為であった。

かの国が、3月1日を国の祝日にしようが、88年前のその日に始まった事件を独立運動と呼び顕彰しようが、好きにしたらよい。

ただ、自らの歴史観なり民族感情を唯一無二の真理として、それを他国に強要し、肯んずば即過去の反省が足らぬ、歴史を直視していないと声高に叫ぶのはいかがなものか。しかも国家元首たる大統領が率先して・・。

我が国がかの国を植民地化したことについて、先年米国東海岸の某大学での国際学会で併合条約無効論が一蹴されたように、私も国際法上合法との立場を取る。それを侵略と呼ぶなら呼べばよい。ただし、それが国際法に抵触するものではないとする現実が一世紀ほど前のこの地球上には存在したという事実をも否定すれば、それこそ歴史の歪曲、歴史を直視しない行為ではないのか。過去の恥辱を直視するの難しさを理解せぬではないが、直視せずしてどうして亡国の憂き目に立ち至った原因を探り、それを再演せぬように努めることができようか。

当時我が国の統治下にあったかの国において違法行為と見なされることが明々白々であった集団行為さらにはそれが激化することで発生した破壊・暴力行為は、これまた違法であった。それを官憲が鎮圧したところで、それは正当な治安活動であり、その過程で暴徒側に流血が生じたとして、それは自業自得以外の何ものでもあるまい。むしろ忘れてはならぬのは、正当な職務行為の過程で暴徒によって殺傷された官憲が存在したということではないのか。造反有理ではないが、違法な暴力行為や示威行為に、志高ければ手段の是非は不問に付すは、これを外道と呼ばずして何と呼ぼうや?

そういえば、北の御同胞方も手段を選ばぬ点においては、南の同胞に優るとも劣らぬようであるが・・。

隣人を選べぬの現実を嘆いても詮無きこととはいえ、まったく鬱陶しいことこの上ない。
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国籍の軽重

2007年03月01日 | Weblog
クラシックというものがあまり耳に馴染まなず、従ってほとんど造詣がないとい私ですら、フジ子・ヘミングくらいは知っている。

どういうわけだか、子供の時分からクラシックに限らず洋楽というものが、耳と心に沁みるといことがほとんどない。三つ子の魂ではないが、まだ幼稚園に上がらぬうちに子供ながらにふと感じた(てしまった?)「近代」そして我が国のそれに多大な影響をもたらした「(西)洋モノ(エロビデオも含めて)」への曰く言い難い違和感をいまだに持ち続けているのだ。米国での生活が10年を超えてもいまだこの国に馴染めないのは、単に言葉の壁だけではなく、馴染もうとする最善の努力を払ってこなかったということもあるが、そうさせた背景には、米国文化も属する「西洋」への拭い切れない違和感もしくは抵抗感があるからなのかもしれない。

のっけから話がそれて、閑話休題。

さて、フジ子・ヘミングについてだが、父母の祖国の国籍法の事情で彼女は、18歳の時からこのかた現在只今まで無国籍だという。日本に在住しながらなぜ日本に帰化しないのか、あるいはできないのか、それとも帰化申請中なのかは知らぬが、かれこれ50年以上(60年近く?)無国籍なのだ。

ヘミング自身、「国籍なんて、生きていく上で、どうでもいいこと。私に祖国なんてない。」と語っている。(U.S. Front Line、No. 342 (4th week,January)

彼女にとっての祖国の有無、これは彼女のみぞ感知し得る一個人の認識論の範疇の問題であろうから、それはさておくとして、彼女のような特殊な境遇にない我々にとって、はたして彼女が言うように「国籍なんて、生きていく上で、どうでもいいこと」なのだろうか。

ヘミングにとっても、国籍は本当に「どうでもいいこと」だったのだろうか。確かに彼女は国籍の無いままに、半世紀以上を生き抜いてきた。その点からすれば、確かに国籍なぞ人が生きるためには不可欠なものではにのかもしれない。彼女の歩んできた人生がその証左をなしているとも言えるのかもしれない。だが同時に、無国籍であることが彼女の人生にまったく影響を与えなかったと言えまい。事実、一般人が国籍を有する国のパスポートを持って海外渡航できるの対して、彼女は海外渡航のためには赤十字による難民認定を必要としたのだ。無国籍でなければ、そうした異常な経験をすることもなかったはずだ。国籍が無いゆえにこそ、国籍を有する者が彼らの祖国で享受できる諸権利や福利を、彼女は享受できないということもある(あった)のではないのか。確かにそれだからといって、無国籍であることが彼女から「生」そのものを奪うことはなかったわけで、その点に関して言えば国籍なぞ「どでもいいこと」なのかもしれないが、無国籍であることが彼女の人生や日々の生活、そして人格形成に及ぼしたものもないわけではなかったはずだ。

この世には人の数だけの異なった人生があるはずだ。それでも、彼女ほどの波乱万丈の人生を歩んできた人はそうはいないであろう。彼女がメディアの目にとまり、それを通して多くの人の関心を呼んでいるのも、彼女のピアニストとしての「腕」だけではなく、彼女の人生が特異なものであったからではないのか。

フジ子・フェミングがいろいろな意味で常人とは異なるがゆえに、彼女の国籍観は、一般に受け入れられてしかるべきものではない、と私は考える。

私は「国籍なんて」などとは決して言いたくはない。「なんて」などというほどに軽々しく扱うものではないと思うのだ。人は生まれいずる時、親や人種・民族、性別、そして国籍を選ぶことはできない。それを運命と呼ぶのか宿命といのかは知らぬが(細木先生にでも聞くしかあるまい)、母胎からの出たとこ勝負なのだ。私個人について言えば、期せずして日本国に生を得て、日本国民として育てられてきた。今も在米の身とは言え、当地での就労法の都合で永住権を持つ身とはいえ、日本国籍を「国籍なんて」とポイ捨てする気にはなれない。むしろ、今帰国を目前に控えて、「永住権なんて」と思っている。

日本国籍を持つがゆえに、このかた数十年間、祖国から多大な恩恵を受けてきた。
日本国民として安全で豊かな生活の場を与えられ、そこで何不自由なく暮らすことができた。それゆえに、私ととって日本国と私に日本国民としての国籍には恩義があり、またそれは誇りでもあり、そして私自身のアイデンティティーにおいて欠くことのできぬウエートを占めている。そして、恩義や感謝を感ずればこそ、それに報いねばならぬし、そうしたいと思っている。日本人であることを誇りに思えこそ、日本国民の一人として祖国の誉れを汚さぬよう生きねばならぬと思っている。残念ながら今までのところ君国に施されたこれまでの恩に十分に報いてきたとは自分でも認め難いものがあり、正直心苦しく思っている。

ここ米国にあって、日本国籍を放棄した人々に何度となく出会ってきた。そうした決断に至るまでには人それぞれの理由があり、中には理解を示さざるをえないケースもある。その一方で、大した理由もなく(あるいはあくまでも個自分自身のためのみに)、いとも簡単に日本国籍を捨ててしまうものもいる。前者のケースはともかくも、後者のケースについては正直言って腹立ちさえおぼえてしまう。

あるいは、このようなケースもある、いずれも女性だが。「私は(性差別のある)日本には見切りを付けた身だから」という知人の女性は、出生国に見切りを付けたくせに、当の昔に米国市民権を申請する資格を得ながら、いまだに日本国籍を捨ててはいない。祖国に見切りを付けたと言いながら、祖国のパスポートに身を委ね美味しい部分だけはいただこうというこの乞食根性、見下げたものという他ない。アメリカ人の旦那と結婚し、「主人が米国市民なのに、自分が日本国民でいるのはおかしい」との理由で、日本国籍を放棄した女性もいた。彼女の理屈については、私はいまだに理解できないでいる。異人種間結婚は肯定しても、異国籍間結婚には何かわだかまりでもあるのだろうか?ほんとうに理解できない。

国家を人為のものとして、その存在意義や価値を限定しよとする人々もいる。国家どうよう民族も人為のものであり、ゆえに民族国家なぞというものは・・・、との議論もある。人為によるものは、そうでないものほどの値打ちが無いというのであれば、筆者はそうした思想なり何らかの宗教的背景ももった言説を受け入れることはできない、決して天を恐れぬというのではないが。

よく「たかが○○、されど○○」という言う回しが使われるが、私にとって国籍とは決してたかがではありえない。「たかが」というのであれば、どなたか、日本国のパスポート無しに日本国の主権の外に足を踏み入れてみてはいかがか。既に海外在住というのであれば、パスポートを破り捨て、日本国籍を離脱して、その国に住まわれてみてはいかがか、できるものならば?所詮国籍の裏づけのない個人などそんなものなのだ。「たかが国籍」の存在の大きさを超えられる個人など「たかが」以下。「たかが国籍」などという個人は、更にそれ以下なのかもしれない。

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