くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

先代幸四郎の「寺子屋」

2008年05月19日 | Weblog
DVDで先代幸四郎、すなわち亡き松本白鸚が松王丸を演ずる「寺子屋」を見た。

昭和50年に収録したもので、源蔵で13代目仁左衛門、千代で二代目雁二郎等が付き合う。

以前に先代の七段目を見たことがあったが、改めて何とも立派な役者と感服した。
脇がしっかりと固まっていることもあり、約一時間半、すっかり見入ってしまった。特に首実検に行き詰まる件は、圧巻であった。そしてお約束の場面では、やはり涙してしまった。あらすじを知ってしまっているものには、松王が一子の寺入りから既に涙涙なのだが。

腹芸を見せるべきに腹が無く、ややもすれば小さくみえてしまう当代幸四郎よりは、むしろ亡父の遺鉢を継いでいるのは、現吉右衛門の方だと再認識もした。現幸四郎はセリフ回しなどは、父親よりもむしろ、というか明らかに先代播磨屋の系統だ。おそらく本人も意識しているに違いない。そこがまた、しばしば大仰になり過ぎて、人物を小さく見せてしまう危険性もあるわけだが。一方、当代播磨屋の方が亡父に似ているなあと思わせる箇所が多々ある。ずいぶん昔に、「元禄忠臣蔵」であったか、大向こうから「親父そっくり」の声ががかかったが、セリフに先代をしのばせるところが確かに随所にあるのだ。この先代譲りとかいうのが、歌舞伎好きにとっては楽しみでもあり、門閥とか世襲とかを頭ごなしに否定できないところでもある。

当代「寺子屋」を演ずるにあたって、最上の配役とはいかに。まず松王に吉右衛門を配するに、多くの異存はあるまいと確信する。源蔵は、仁左衛門、三津五郎あたりか。後者は巧くも惜しむらくはいささか華に欠けるが。梅玉は源蔵を演じたことはあるのだろうか。菊五郎、勘三郎ではニンに合わぬ。千代はできれば雀右衛門、あるいは藤十郎、神谷町あたりか。戸浪は福助、あるいは個人的好みで芝雀。魁春ももしかしたら悪くはあるまい。秀太郎あたりを持ってきても、というのもこれまた個人的な趣味だ。

話は戻るが、「寺子屋」、昔からじわっと目頭を熱くさせられたが、今子の親となって、しかも松王が子と同じ年ごろの子を持つ親となって、あの物語の切なさ、虚しさ、悲しさはひとしおである。身代わりの子に我が子の姿を重ね合わせ、松王の境遇に我が身に置きかえながら、ただただ涙・・・。古典劇でありながら、今の世の人の心をも揺さぶるこの作品を名作と言わずして何と言おうと思うと同時に、江戸の世も、今の世も、我が子を思う親の気持ちは変わらぬことを改めて知った。

さりながら、母親がただのメスになり下がり、父親もまたただのオスになり下がった結果、我が子を捨て、手にかける事件が後を絶たぬ昨今を、「寺子屋」が古典では無かった時代の人々は何と思うであろうか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 不知火検校 | トップ | 四川大地震と日中関係 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事