くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

福田内閣: 「安定感」、「バランス感覚」という奇妙な支持理由

2007年09月29日 | Weblog
福田内閣の発足時の支持率が60%近くと、政権にとってはなかなかの滑り出しのように見える。

もっとも、田中真紀子氏に言わせれば、あとは下降線をたどる一方だそうで、わたしも実はそう思っている。今以上に支持率を上げる材料が今のところ見当たらない。その一方で、支持率を下げる可能性の高い難問は前途に山積している。福田総理自身、支持率に関しては政権を取ると決めた時点から覚悟していることとは思うが。

その高い支持率の理由の最たるものは「安定感」、「バランス感覚」だとか。それは福田氏本人の映像からうかがえる人柄や内閣の顔ぶれに因るのだろう。であればこそ、今後の政局運営が荒波をかいくぐるような揺れの激しいものになったとき、それを見ている世論からも「安定感」という政権に対するイメージを失っていくことになるのであろう。野党との間に大きな政策対立を抱え込めば、それもまた、一部の自民党側の政策を支持しない国民からは「バランス感覚」の欠如とみなされることになるのであろう。

「安定感」という支持理由にはわからないでもない部分もある。安部政権がその点において初めから終わりまでひど過ぎたからだ。

わたしにとってひっかかるのは、「バランス感覚」である。結局国民世論の多くは本心我が国の改革というものを望んでいないのではないのか、あるいは改革を望む心はあっても、その過程で不可避となろう「痛み」に絶える覚悟ができていないのではないのか、と思わざるを得ない。改革とはそれが大規模なものであればあるほど、現状を否定しよう変革しようという方向性を持つはずである。しかも改革は社会的な対立、軋轢、摩擦、混乱を大なり小なりをきたすものだ。言いかえれば、改革の過程は国家、社会がバランスを崩す過程でもあり、それはある種の産みの苦しみとして仕方がないはずだ。それを嫌いバランスの安定を求めるということは、結局国民の改革の意欲がないのか、それとも改革は欲すれどもそれにともなう痛みへの覚悟はないということではないのかと暗然たる気持ちにさせられるのだ。

福田内閣の面々、特にあの三役いや四役の顔ぶれを見てみるがいい。あの顔ぶれで自民党が変わるなどとどうして期待できようか。自民党が日本という国を将来に向けて変えることができるなどとどうして期待できようか。例えば、自民党の旧体質の権化のような古賀誠に何を期待するというのだ。もう政界から消えてくれということ以外に何を期待するというのだ。

日本人というのは結局、安定、バランスを志向し、それを最優先事項とする民族、国民なのかもしれない。それは車のデザインの好みを見ていてもよくわかる。押し出しの強い車は売れない。スパイスのきいた車は敬遠される。

今まではそれでもよかったのかもしれないが、このままでは我が国に先はない。明るい未来もない。しかし、かりにそうなったら、自業自得ということだ。なぜならば、事実上、国民自身がそうならざるをえないであろう方向性を求めてしまっているからだ。

我が国がそうならないためには、国民の啓蒙などという悠長なことを言っていられるほど時間の余裕はない。いや、いま必要なのは、国家・社会の変革を望まない、あるいはそれを望みながらそれを実行する勇気を持たない国民の民意というものに抗ってでも、もっと極端にいえば民意を無視してでも、改革を断行できる政権、政治体制の樹立ではないのか。その過程で、なんらかのかたちでの犠牲を払おうとも、おくするべきではない。政治という生臭いものはそもそも暴力と流血と近しい関係にあるのだから。スパイスの効いた、しかも激辛な政治手法が必要なのかもしれない、鼻血や下痢程度では済まないような。
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