くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

靖国考 その2: 靖国問題の解決策 (3)

2006年06月08日 | Weblog
解決策を語る前に、「靖国問題」に対する筆者の考えを改めて明らかにしておきたい。筆者は、靖国神社をして我が国の国家追悼施設として位置付けるべきであり、そこに内閣総理大臣が参拝すrだけではなく、願わくは天皇陛下の御親拝が復活されんことを、と考えている。

では、こうした筆者の願いを今後現実のものとするために、どのような解決策が考えうるであろか。筆者は、以下の四つの選択肢を考えてみる。

選択肢1:小泉首相に続く歴代総理が、現状のまま靖国神社参拝を継続する。
小泉首相は、自らの参拝を「私的」なものと位置づけ、内外、特に東アジア近隣諸国からの執拗な抗議、批判に対しては、それを「内政干渉」、「心の問題」として突っぱねてきた。ポスト小泉の歴代総理もこうした主張をもって、靖国参拝を継続するというものである。しかし、この選択肢は以下のような問題を抱える。
1)個人の「心の問題」に参拝の正当性を求める以上、今後同じく「個人の心の問
  題」として靖国不参拝の首相が出てくる可能性も当然予想され、筆者を含め
  て、首相の継続的参拝を求める立場にしてみれば、心もとなさは否めない。
2)小泉首相の「個人」の「心の問題」との主張が、内外の批判を押さえ込むほど
  の説得力を持っていない現実を前に、同じ主張が繰り返されても、それに並行
  して内外の批判、反対論が消えうせることもないであろうし、憲法第20条を
  めぐる国内における訴訟が今後も発生する可能性があり、福岡でに例のよう
  に、裁判所が「傍論」といかたちの政治的発言を差し挟んでくる可能性も否定
  できまい。それを一部マスコミなどは「違憲判決」と呼ぶが、傍論に法的拘束
  力はない。
3)内閣総理大臣という立場と無関係な「私的」参拝である限り、首相の参拝は
  国家による追悼行為とはなりえない。
4)首相の参拝が政治外交論争のテーマであり続ける限り、天皇陛下の御親拝復活
  が見えてこない。
5)私的、公的に拘らず、「A級戦犯」合祀問題を抱える靖国への首相の参拝は今
  後も内外の批判に晒され続けるであろう。こうした批判、特に外国からのそれ
  に対しては、「内政干渉」との立場から断固屈しなければ良いとの議論もある
  り、小泉首相自身「内政干渉」との反批判を行っているが、アジア近隣のみ
  ならず米国の政界にも批判的な見方があるなかで、「内政干渉」との姿勢をど
  こまで堅持することができるであろうか。そもそも「私的参拝」に対する外か
  らの批判を「内政干渉」とすることは、論理矛盾であろう。さもなくば、首相
  の「私的参拝」は、政治行為だと認めるようなものである。また「内政干渉」
  論は、言うまでもなく、国内での批判への反批判とはなりえず、歴史認識、主
  教、文化・伝統など多角的観点からの合祀問題をめぐる論争が今後も続くこと
  になろう。国内の批判が国外からの批判と共闘を組むという現象は既に見られ
  、それゆえに、内政干渉との批判が近隣諸国の小泉靖国参拝批判、中止要求が
  已まない一因ではないのか。

選択肢2:所謂「A級戦犯」を分祀させ、首相の靖国参拝への内外の批判を減ずる
ことで、参拝の継続を可能とし、更にはそれを御親拝の復活に繋げていく。これによって国外からの批判をかわすことが可能になる。例えば、「靖国考 その1」で触れたように、例えば、米国下院の一部に「A級戦犯」をめぐる政府の対応を批判する声もあるが、こうした批判は靖国神社の存在そのものや、首相の参拝そのものを批判してるわけではない。国内の批判のなかにも同様の傾向を認めることができる。彼らが批判するのは「A級戦犯」の合祀されている靖国への政府関係者の参拝である。であるならば、分祀によって、内外の批判を封じることができるか、少なくとも減じることはできるであろう。しかし、この選択肢にも問題と限界がある。
1)政府の判断で分祀を行うことは不可能である。なぜなら、それは一宗教団
  体への政治の介入ということになり、憲法第20条に抵触する。かつては野中
  広務氏、最近では麻生太郎外相や与謝野馨氏、古賀誠氏など一部政治家が分祀
  の必要性に言及しているが、政治家のこうした発言もまた違憲の恐れがあると
  見なされうる類のものではないのか。
2)靖国神社が分祀に応じるかは甚だ疑問とすべきところである。とりもなおさ
  ず、靖国神社はこれまでも繰り返し、分霊はあっても分祀という宗教的行為は
  宗教法人たる靖国神社には存在せず、一度合祀された御霊を他へ移すことはで
  きない、と主張している。過去において靖国に分祀の例が一つもないのであれ
  ば、それでも分祀をしろという主張は文字通りの横槍であり、一宗教法人の
  宗教活動の自由への侵害にもなりかねまい。靖国が「分祀」に応ずることはな
  いであろうと思われるもう一つの理由をあげるならば、現在の宮司が南部利昭
  氏であるということである。南部氏は、陸奥南部家の第45代当主、世が世
  なれば20万石の殿様であるが、重要なのは、氏が大名の末裔であるといこと
  ではなく、戊辰の戦における奥羽越列藩同盟の一つ、すなわち「朝敵」藩の当  主末裔であるということである。靖国は幕末・威信の騒乱以来の殉国者を祀る  場であるが、そこに所謂「朝敵」、「逆賊」の類は合祀されていない。故に、  左幕の立場で「官軍」と刃を交えた諸藩の戦没者は合祀されてはいないし、維  新最大の功臣大西郷もまたしかりである。靖国における殉国の判断基準は、天  皇の「私」ではない「公」的存在としての視点のみにあり、いかなる理由があ  るとも、天皇のいる側に刃を向けた者は、靖国への合祀資格を与えられないの  だ。例えば明治天皇の私的感情からすれば、西郷は「逆賊」であろうはずもな  く、若き帝の西南戦争中の不可解な行動には、西郷への同情があったとすら感  じられる。しかし、そうした天皇の西郷への私的な感情は靖国の合祀基準から  は排除される。そうした靖国の歴史的背景のもとで南部氏が分祀に応じた場   合、「朝敵」藩の藩主の末裔であるがゆえに、氏はより一層の非難を分祀反対  派から受ける恐れがあろう。分祀はありえないとするのは、南部氏が宮司に就
  任する以前からの靖国神社の一貫した立場であるが、南部氏の出自に発する
  「個人的な事情」が、分祀の可能性を更に低くしているのかもしれない。
3)「A級戦犯」を分祀しさえすれば外からの批判をかわすことができると考える
   のは、甘い了見かもしれない。遡れば、昭和60年の中曽根「公式」参拝に  対する中国の靖国批判は実は一貫性を欠いていた。換言すれば、北京政府の靖  国批判は、「二枚舌」的ですらあったのだ。中曽根「公式」参拝に対して、外  交部を通じて「A級戦犯」合祀こそが問題であると言ったかと思えば、国内で  は、「1000人以上の戦犯」が合祀されている靖国への参拝がけしからんと  のたまった。これは「A級」だけではなく「BC級戦犯」の合祀もけしからん  ともとれれば、靖国そのものがいけないとも取れる。平成13年における小泉  首相の首相としての最初の靖国参拝が最終的に8月15日ではなく13日にな  った経緯にしても、昨年八月号の「文藝春秋」の記事が真実であれば、少なく  とも靖国問題をめぐって、中国が信用にたる相手ではないと見なさざるを得な
  い。韓国も、仮にA級戦犯が分祀されたとしても、まずそれで納得することは  あるまい。それが証拠に、韓国政府は、今年5月2日に訪韓した「親子丼」山  拓に対して、潘基文外交通商相は、国立追悼施設建設の動きが遅いことを批判  しており、このことは韓国が分祀後も、首相や政府関係者が靖国に参拝を続け  る限りは、「干渉」を続ける意思のあることを示唆するものと受け取るべき   であろう。

選択肢3:靖国神社を「国家護持」ないしは「国家管理」とすることで、国立の追悼施設と位置付け、天皇、総理、閣僚の参拝を可能足らしめる。この案については、既述の通りいかんともし難い限界がある。つまり、
1)昭和44年以来5度にわたり国会に提出されすべて廃案になった靖国法案が明  らかにしているように、靖国神社を国家のものとするには、それを非宗教施設  化することで、憲法第20条への抵触を回避するしかない。たとえば他国に例
  を取ればわかるように、欧米の主要国も純粋に政教分離を実践しているわけで  はないのだ。大統領就任式で聖書への宣誓が行われる米国しかり、または厳   密な政教分離を実施する国と一部で勘違いされているフランスしかりである。  英国では連合王国の元首にして、英連邦の象徴たる英国女王(国王)は、英国国  教会の首長である。しかしわが国においては、過去の政教分離をめぐる判例、  たとえば愛媛玉串料訴訟にみるように、それら欧米諸国のような政教分離のあ  り方などなど望むべくもなく、靖国に宗教色をとどめたまま国家護持ないし   管理を目指すならば、憲法20条ならびに89条にそれを許容できるような解  釈を与えるしかあるまいが、まずそれはありえまい。
2)非宗教化することで国家護持ないしは管理に置こうとしたとして、靖国神社の  同意なくば、それは実現しない。本来の宗教色を残したままならいざ知らず、  非宗教化では、昭和49年に廃案となった法案が出された時そうであったよう  に、靖国神社が首を立てに振るとは到底思えない。
3)靖国を国家の護持ないし管理の下に置いたとして、それによって「A級戦犯」
  合祀に対する内外の批判が止むわけではない。むしろ、今のように小泉首相や  個々の政治家がではなく、政府として合祀問題に向き合わざるを得なくなるで  あろう。つまり、靖国を国家に取り込むことは、国家として合祀か分祀のいず  れかの選択をせざるをえなくなるということである。合祀を続ければ、それは  国会意思とみなされ、政府は内外の批判に対して、それを無視することもでき  ずなんらかの理論武装を含めた対応が求められるであろう。一方、国家管理  (護持)化と同時に、分祀が行われた場合も、それはそれで国内において分祀反
  対派の批判を受けるであろう。また、分祀は刑死した「A級戦犯」を「公務
  死]扱いにすると決した昭和28年8月の国会決議との整合性とい点からも危
  ういものがあり、「外圧」に屈して国民の代表機関の決議を曲げたなどの批判
  も避けられまい。
4)国家の下に置けば、天皇陛下の御親拝も再開されるのだろうが、「A級戦犯」
  合祀問題を抱えたままで、陛下の御親拝を仰ぐことは、陛下ならびに皇室をも
  合祀をめぐる論争に巻き込み、内外の批判に晒すことになり、皇威を損ねるこ
  とになりはしないだろうか。万一陛下や皇室が内外の批判の対象にでもなれ
  ば、そんな批判など無視して粛々となどとは言っておれまい。

続く。

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