くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

靖国考 その2: 靖国問題の解決策 (2)

2006年06月05日 | Weblog
問題の一つは、戦後における靖国神社の法的地位と憲法より生ずるものである。昭和21年以来、靖国は一宗教法人であり、これを国家の追悼施設として扱うことは、憲法20条の定めるところの政教分離に抵触する恐れがある。であるからこそ、昭和48年に国会に上程され、翌年審議未了のまま廃案になった国家護持法案も、靖国を国家管理に置くためには、その非宗教施設化を前提としたのである。筆者は我が国における政教分離のあり方については思うところがあるが、それについては後日としたい。

二つ目の問題は、靖国神社に合祀されている「戦没者」が国家による追悼の対象としては限定的なことである。靖国神社は千鳥が淵などよりは数的にも多くのまた多岐にわたる戦没者の御霊を祀ってはいるが、それでもやはり限定的であり、一般市民・非戦闘員を含めた「戦没者」を網羅的に合祀の対象としているわけではない。靖国問題を論ずる際によく持ち出される米国のアーリントンは国立の施設であるが、これも南北戦争以降の「戦士」を埋葬者としているように、国家追悼施設としては限定的なものといわざるをえない。欧米の例を以ってして自らの論に説得力を持たせようとする明治以来の悪癖が我が国にはいまだに見られる。例えば、女性に年齢を聞くべきではないと主張する際に、「欧米では」という言う没論理的なアレである。ただ、「欧米では」も万能の神通力を持つわけではないので、アーリントンの例が我が国の世論に対してどれほどの説得力を持つかは疑問である。また、6月1日付毎日新聞によれば、同紙のインタビューに対して与謝野経済財政担当大臣は、戦没者異例行事としては、毎年8月15日に日本武道館で天皇陛下をお迎えして行われる戦没者慰霊式があり、「それ以上付け加えるものは何もない」と答えたという。といことは、与謝野氏にとっては、慰霊の対象とされるべき「戦没者」は、大東亜戦争における戦没者のみ、ということであろか。もしそうだとしたら、このような視野狭窄的な発言を恥じも外聞もなく行う与謝野という政治家の見識を疑わざるをえない。こういう類の政治家は、もう一度選挙で落とされるべきである。草葉の陰で日露戦争の際「君死にたもうことなかれ」と詠んだ祖母晶子が「君戯言を言う無かれ」と泣いておられるやもしれぬ。

三つ目の問題は、所謂「A級戦犯」の合祀問題である。筆者は東京裁判を開廷以前から清瀬一郎などが既に指摘していたように重大な問題点を含み著しく正当性を欠いた裁判であると考える。確かに我が国は、第一次大戦後、他の戦勝国とともに敗戦国ドイツの廃位された皇帝ビルヘルム2世を戦犯法廷にかけようとしたことがある。この国際法廷が実現しなかったのは、ビルヘルムの亡命先であるオランダが中立を理由に皇帝の引き渡しを拒否したためでるが、この一事がある以上、我が国が勝者による敗者への裁きに対して声高に批判することに、幾分の説得力の欠如を認めざるをえまい。また、この点は既に裁判の中で英国の検事コミンズ・カーが指摘したように、我が国は「戦犯」の処罰を含んだポツダム宣言を呑んだのである。しかしながら、それらの事実をもってしても、東京裁判には肯定しがたい欠陥があった。宣言には、戦勝国が敗戦国側の「戦犯」を裁くとも、敗戦国側の「戦犯」のみを裁判の対象とするとも明記されていない。しかも、東京裁判であげられた三つの罪状のうち、通常の戦争犯罪以外の二つ、すなわち「人道に対する罪」と「平和に対する罪」は、事後法であり、「罪刑法定主義」にも反する。かりにそうした問題があったとしても、サンフランシスコ平和条約があるために、我が国が東京裁判の否定するには限界があるのも、これまたその通りといべきであろう。同条約第11条は次のようになっている。

Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.(www.chukai.ne.jp/~masago/sanfran.html )

このように、我が国が東京裁判の"judgements"を受け入れてしまっている以上、この後に及んで、東京裁判を不当だ、無効だといことは、戦後の日本が独立国たるの国際承認を得るための基礎となったサンフランシスコ条約を否定することになり、国際信義上問題があると言わざるを得ないばかりか、外交的にも何ら我が国を利するものではあるまい。ところが、"judgements"という語句の解釈をめぐっては、政府見解が裁判全般を指すとするのに対して、青山学院大学名誉教授の佐藤和男は、同条文の規定が、あくまでも日本政府による「刑の執行の停止」の阻止を狙ったものとし、こうした見解は国際法学会の常識であるという。(www.nipponkaigi.org/reidai01/Opinion3(J)/history/sato.htm )
かりに刑死した7名の所謂「A級戦犯」にしても、近代法理に照らして、彼らは「刑死」とい形で刑を全うした以上、彼らを現在進行形で戦犯扱いすべきではあるまい。国内的にいえば、全国約000万人の署名を背景に昭和28年8月のほぼ全会一致で可決された国会決議により刑死した「A級戦犯」7名の死は「公務死」とされている。これが困窮を極めて遺族への救済措置、つまり「公務死」認定することで遺族への年金支給の道を開こうとしたものではあるが、国民の代表機関にして国権の最高機関である国会(筆者は「最高機関」に関しては、三権分立に反するものと考えるが)において決せられて「公務死」となった以上、「戦犯」呼ばわりされ続けるべきではあるまい。かりに刑死した政軍の顕官たちが「戦犯」だとしても、そのことが靖国から彼らを合祀する宗教活動の自由を奪うことはできないのだ。とはいうものの、「A級戦犯」合祀の問題は、既に国内の政治問題のみならず外交問題化してしまっている。このような事態に立ち至った原因のそもそもが中曽根大勲位であり、元凶たる人物がいまだいけしゃあしゃあと靖国問題に口を挟む厚顔無恥ぶりには、腹立たしさを越えて、位人臣を極め齢90にもならんとするこの人物の人格の薄っぺらさに、哀れを感じざるをえない。ともかくも、大勲位を今更批判したところで、靖国問題が対外問題になってしまっており、その焦点が「A級戦犯合祀問題」であるという事実は変更することができない以上、何らかの対応が求められざるをえない。

では、どのように「靖国問題」を解決したらよいのだろか。

続く


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