くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

沖縄県、沖縄県民による歴史の歪曲を許すな!: 集団自決問題をめぐって

2007年09月30日 | Weblog
私は文科省の検定意見を支持する立場にある。

沖縄戦において住民の集団自決が発生したことは否定しえない事実だ。それは悲劇であり、我々はその悲劇を後世に伝えねばならない。文科省もその事実自体を隠蔽、歪曲しようとはしていない。

問題が軍の命令や軍による強制の有無だが、実証史学的な次元において、諸論ありその問題についていまだ明確な結論が見出されていないといわざるを得ない。教科書は学術研究の成果を踏まえなくてもよいのか。もしよいというのであれば、歴史教育とは何なのかということになる。史実とかけ離れたあるいはそうでなくても必ずしも一致しないフィクションまがいの内容を子供たちに教えても良いということなのか。そうではあるまい。歴史教科書の内容はあくまでも現在只今の研究水準に裏打ちされたものでなくてはならない。教科書がそうあろうとするならば、今回の文科省の検定意見は妥当なものと言うべきであろう。

と言えば、「生存者の証言があるではないか」との反論が返ってこよう。実際歴史研究者の中にも、「証言」をもって検定意見を批判する向きがある。しかしながら、ちょっと待ってもらいたい。我々は今既に過去に対する「証言」というものが、必ずしも十分な信憑性をもった「史料」にはなりえないことを知っているはずだ。慰安婦の強制連行を当事者として告白した吉田清治の「証言」が嘘だったではないか。慰安婦証言のなかにも嘘ないしは当時の状況との矛盾が指摘されている。
沖縄戦の集団自決もそうだ。渡嘉敷島のケースをめぐる昨年夏の照屋証言は過去の
軍命令があったとする証言がでっち上げであったことを告白した。もっとも、照屋証言も「証言」である以上、その信ぴょう性は十分に吟味されねばならないが、そくなくとも、過去の「証言」に矛盾する「証言」が出されている。

「被害者が言っているのだから、その証言には信ぴょう性があるはずだ」という反論もあろうが、これまた、一寸待ってもらいたい。被害者が常に真実を話すという前提自体、何らの根拠もないものだ。上述の照屋氏はまさに被害者の立場にいた人物ではないのか。被害者の証言が疑う余地のない真実であるとすれば、被害者の証言をもってして軍命令ないし強制の存在を主張する側は、同時に、被害者の証言である照屋証言を持ってして軍命令の存在を否定しなければなるまい。

また「証言」が「目撃証言」であれば「伝聞証言」である場合もある。伝聞に聞き違い、勘違いはなかったのか? 目撃証言にしても、尋常ならざる状況での目撃談に思いこみや見間違いはなかったのか? 

それ以上に、事件発生からの時間の経過が人の記憶に与えた影響はいかほどか。

沖縄県では検定意見の撤回?をめぐり11万人の大集会だったとか?感情に駆られた集団行動ほど厄介なものはない。それに政権を狙わんとする野党の幹部が出席して集会の趣旨に同調してみせるとなれば、もっと厄介だ。私は菅直人のことを言っている。与党の中にも、山拓のようなのがいる。私は以前この男を「変節漢」と呼び、今もそう思って変わりない。

文科省はひるんではいけない。

心ある歴史学者は、感情的になった蒙昧な集団圧力に屈してはならぬし、影響されてもならない。

今、歴史を自分たちの感情や都合に合わせて歪曲しようとしているのは、「被害者」を錦の御旗にする沖縄県民の方なのだ。集会には沖縄県知事も出席したという。

歴史の歪曲を断じて許してはならない!

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