くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

稚拙な政治家たち: 山拓「核実験は良かった」発言をめぐって

2007年09月21日 | Weblog
山拓の北朝鮮の核実験をめぐる「やらせて良かった」発言、確かにそうなのだ。

北があれをやってくれたおかげで、核をめぐる開発・保有済み疑惑について白黒が着いたわけだから。北に核を持たれてしまったということは、確かにまずいことだ。一旦核を保有した国にそれを放棄させることが容易ではないからだ。ただ、疑惑が、疑いようのない事実であることが判明したという点では、我が国としての対応の仕方を確定できるわけで、その意味からすれば、確かに「やらせて」というよりも「やってくれて」良かったのかもいしれない。

しかしながら、常に世論というものの反応に配慮(配慮=阿るということではないが)しつつ発言には十分な注意を払うべき民主国家の政治家にしては、間抜けな発言ではないか。もっとも、山拓という政治家はそうでなくとも既に「間抜け」でえある。数年前に性的なスキャンダルですっかり男を下げ、もはや政治家としてはある種の「お笑い」ネタでしかない。それが今でも政権党の派閥の領袖を務め、冗談だとしか思えないのだが、本人は案外にも本気でいまだ政権への色気を失っていないらしい。この一事をとっても、間抜けとしか言いようがない。その間抜けが更に誤解や釈明を余儀なくされるような発言を不用意にしてしまうということをして、間抜けの上塗りと言わずして何と言おうや。もっとも、既に「上がり」の政治家である。後は引退するか、生命体としての命脈尽きるかを待つだけのシロモノであるから、それほどのおおごとにもなるまいが。

案の定、広島市、長崎市は本日、抗議文書を、市長名で山拓事務所に届けたという。時事通信によれば以下の通り。
 広島市は北朝鮮の核実験に関し「平和的解決に向けた国際社会の外交努力を無に した」と指摘。「(山崎氏の)発言は、核兵器廃絶に向け不断の努力を続けてき た被爆地ヒロシマとして容認できるものではない」と批判している一方、長崎市 は「核実験の強行が被爆地をはじめとして周辺国の住民を大きな不安に陥れ、国 際関係に緊張をもたらした当時の状況を十分に理解した発言とは思えず、看過で きるものではない」としている。

何とも、子供じみたというか、感情に任せた物いいではないか?山拓氏はあくまでも、北の核保有が判然としたという点から見て、という断りをつけたうえで発言をしているのだ。北の核実験ないし保有を容認する、肯定するという主旨の発言では決してない。また、核廃絶という方向性を否定するための発言でもないはずだ。両市の市長とも、北の核保有に対する事実確認ができないままに、疑惑のままであった方がよかったなどとは、よもや思ってはいまい。かつて北の執政党とは友党の関係にあった党の国会議員であった秋葉広島市長ですらも、よもやそうは思ってはいまい。山拓氏としても痛くもない腹を探られたようなある種いんねんじみた反発には当惑しているのではないか。まあ、そうした反発を想定せずに発言したとしたら、それはそれで政治家としての資質、能力の程を示しているわけだが。 

被爆都市の市長としては、自身の市長としてというよりも選挙によってその地位を保たれる立場の者として、地元の民意なり住民感情というものへの配慮を見せるというパフォーマンス的な側面もあるのだろう。民意をはかりながら行動する。これが民主政治においては、いや民主政治でなくともある程度は、政治家として不可避のものである。しかしながら、移ろいやすくまた一時の感情に流されやすい民意というものに、いちいち応えていては、もっとはっきり言うのであれば、阿っていては、それはそれとして政治指導者のあるべき姿ではない。時には、あえて民意に相対し、民意を説き伏せねばならないこともあるはずだ。

両市の市長が、もしかりに本心上記の発言のように山拓発言について思っているとすれば、それは実に悲しいことだ。両市の市民にとっても、我が国にとっても、そして市長たち本人にとっても。感情論でしかものを推し量れぬ首長をもった市民の不幸、国家の不幸・・。能力的に相応しからざる者が自治体の責任ある地位についてしまった悲劇。安倍総理にその例を見るまでもなく・・。

それにしても、山拓といい、この市長たちといい、こんな程度の政治家しかいないのか、我が国には?

コメント
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