チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

理屈は理屈 神は神

2005年05月04日 21時41分53秒 | 読書
かんべむさし『理屈は理屈 神は神』(講談社、05)

 著者がひょんなことで、というよりも、ある運命的なものにひきづられて、宗教世界に足を踏み入れたその体験記。
 宗教によって人が過重な精神的負担の一端を引き受けてもらい安心を得るのは、宗教の社会的存在理由のひとつであり、私もその効用を否定するものではありません。幸いにして私自身は、現在のところ「頼る」必要を感じておりませんが、今後そのような状況が、いつ私の身に起らないとも限りません。
 ただ著者はSF作家らしく、なぜ自分が信心しようとしているのか、その状況を常に客観的に見ようとし、考えに考えて「了解」して行こうとします。普通の、善男善女の信仰は、おそらくそのような「WHY」をすっ飛ばしたものではないでしょうか。それがタイトルの「理屈は理屈」に表現されています。

 で結局、そのような過程を経て、著者は「神は神」といった境地に向かって行きつつあるわけですが、それでも「片足一本、たとえ爪先だけでも、外の多数世界に残しておくのが、作家と称するものの立場だ」と考えます。

 そのような現実感覚が、以下のような文章を書かせます。

 だが、科学は万能でも絶対でもなく、試行錯誤を重ねながら少しずつ進歩し、扱う範囲を広げていくものである。(…)/ そして、その未知の世界、非合理世界の構造や原理を解明していくのは、基本的には、やはり科学者の仕事だろうと思う。/ とはいえ科学者なら誰でもいいかというと、そうではない。(…)非科学的な科学者、アンフェアな科学者はいるからだ。/ 最初に否定ありきで、判断留保にしておくべき非「合理」事例を、「合理」の枠内に押し込むべく牽強付会をしている例がある。(261p)

 この一文に、私は全く同意するものです。
 上文はまさに、先日河本さんが引用された福島正実の、
 >「SFが、生理的嫌悪感さえ持つ、科学的常識主義、科学的事大主義について人々に疑問を起こさせ、それに対するアンチテーゼになればよい」(ヘリコニア談話室
 と照応するものであり、かんべむさしが疑いなく「SFの人」であることの証左であると共に、ここから私信にわたりますが、SFが「生理的嫌悪感」を抱くのは、「科学」それ自体ではなく、かかる「非科学的科学者」であり、その彼らが取る態度こそ「科学的事大主義」なのであるわけで、決して福島正実が「科学の人ではない」ことの証明にはならないのです。>河本さん

 閑話休題、上文のようなスタンスを持つ著者が記した宗教体験記だからこそ、私は一定の信頼をおいて読ませてもらいました(少なくとも必要に迫られた場合は、まずここを訪ねようという気になりました(汗))。
 とはいえ、その記述すべてについて納得できたわけではなく、信者ゆえの合理化がそこに働いている場合もあるように感じたのも事実なんですが、結局著者は、その世界を受け入れたことで安心を得たのだから、それはそれでええんとちゃうかな、という感想を持ちました。
 私自身は、超常現象(予知やテレパシー)は存在するとしても、それは神とは関係なく物理的現象であろうと思っています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 反対進化 | トップ | イスタンブール(ノット・コ... »

コメントを投稿