現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

1月17日

2015-01-17 | Weblog

10年ひと昔、と言うことが多かったが、今でもそういっていいのだろうか? 目に映る外見的なものが、それほど大きく10年前と変わらないので、なんか10年前とさほどの違いなしと感じながら、自分自身の精神的な部分と身体能力の変化についてだけ、ひと昔と思って、変わり果てた自分自身に差を見せつけられる。光陰矢のごとしとも思えてしまう。

20年前の今日は、福岡にいた。午前8時過ぎの実家の母親からの電話で起こされて、TVをつけろと言われ、地震を知った。驚愕の光景。信じられないという、ぽかんと、あっけにとられた状態。大学時代、4年間、神戸で過ごした自分にとって、あそこはどうなった? とか、長田に住んでいる者のその後は? とか、六甲道の駅がくずれているとか、春日野道の家は? ガード下のお好み焼きは? とか、いろいろなことが一斉にめぐるが、なんの手も差し伸べられない。大阪エリアも家財道具など倒れこんできたとのこと。ガラスも割れたとのこと。一体、何が起こったのか? まるで爆弾が落ちたようだったというような表現のほうが、実際に感じたことだったいうことも聞いた。途方にくれるしかないという状態だっただろうと推測する。

今年20歳になった成人の言葉、大学生の語り伝えへの情熱には頭が下がる思いだ。自分はただひたすらラケットを振り回しているだけの毎日で、社会とのかかわりや、こうあるべきだなどど人生みたいなことを真剣に向き合っていなかった自分の20歳と、どうしても比べてしまう。自分自身の、なんとひよわな、背骨のない日々を過ごしていたかと、矢を射られるような気分だ。

10年ひと昔、どころか、20年ひと昔とも思えぬ。人生は積み重ねということを再考させられる。