米子城の天守跡から、大山(だいせん)との背比べ伝承がある、標高751mの孝霊山(こうれいさん)を望むことができる。孝霊山の名は、第七代孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊:おおやまとねこひこふとにのみこと)が、孝霊四十五年(171)から孝霊五十八年(184)にかけて、この地を行幸したことに由来するという。山麓には孝霊天皇を祀る高杉神社があり、鬼退治伝説が残っている。更に、山麓に居を構えたと伝わる。(弥生時代後期から古墳時代前期かけての高地性集落である、国指定史跡の妻木晩田遺跡が該当か) また、孝霊天皇及びその皇子を主人公とした伝承、社伝等がこの地から瀬戸内海にかけて分布している。順番にみていくと、現安来市広瀬町梶福留の伊邪那美陵御墓山に孝霊天皇が参拝したという伝承がある。日野川沿いである日野郡伯耆町、日南町には楽楽福神社(ささふく)があり、共に孝霊天皇を祀っている。神社には「鬼退治」として凶賊を征したという伝承が伝わっている。社名にある「ささ」は砂鉄を表し、製鉄を意味する。この地方の古代製鉄による繁栄が伺える。また、孝霊天皇の幼名は御時楽楽清有彦命(ささふくきよありひこのみこと)と言い、笹福(ささふく)と号したとされる。この孝霊山の別名は高麗山、韓山であり、地名もかつては高麗村であった。孝霊と高麗の関係性を想像させる名でもある。孝霊天皇の皇子には彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと:大吉備津彦命)と、異母弟の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと:吉備児島三宅氏祖)があり、共に吉備国を平定したと伝わる。更に彦狭島命(ひこさしまのみこと:伊豫皇子:越智河野氏祖)があり、父の命により伊予国を平定したという。
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