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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

篠田屋敷

2008-01-23 02:00:20 | 城郭・城下町
(松平館 愛知県豊川市大木町・篠田町)
 大木田面(おおぎとおも)と呼ばれた条理制遺構の中央、旧土々川沿いの微地高地に築かれた城館跡である。
 江戸時代後期の記録『三河堤』に、「信光の孫、長沢松平上野介益親の末弟、兵庫助親臣宝飯郡篠田村に住す、法名浄金」とある。兵庫助が天正年間にこの地を領し、天正十八年(1590)家康の関東移封と共に廃城となっている。
 元文年間の記録『三河国二葉松』には、「天正十五(1578)丁亥十一月大木村天王社(後の進雄神社)棟札在之」とあり、大木進雄神社棟札には、「奉造立牛頭天王祇園宮一宇棟冊郷内安穏諸額成就皆令満足所(中略)十二月吉日 願主時之地頭松平兵庫助並家 源造殿」とある。
 現在、城跡は、耕地及び宅地となっているが、北西隅の稲荷社の祠がある土塁及び東側土塁と、篠田神社に至る土塁の痕跡を残している。古老の話しでは、現状より土塁や「小堀」が残っていたという。また付近には、木戸、城跡、城戸、城堀、城前、城屋敷の地名が伝わっている。
 昭和60年頃の古老の伝承には、「進雄神社にはかつて城があり、そのお殿さんが木戸の砦へ戦いを仕掛け、領土を広げた」というものがある。進雄神社に残る古式の宝筐印塔があることや、この伝承等から、鎌倉時代の熱田大宮司裔篠田氏も、この地に関わりがあった可能性もあると推測する。
(1982年4月撮影の北西隅土塁と標柱)
(1983年撮影同所)
(関連記事:西原城館

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4 コメント

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初めまして (大木)
2008-04-03 07:39:32
初めまして。

地元が懐かしく思い検索していたところ、
さんのこのブログに出会いました。大木地区出身のものです。

地元を離れ、この大木の歴史を調べていたのですが、やはりこのような小さな地域の情報というのは、なかなかないものですね。

そういう中で、Koureiさんの情報はとても貴重であり、ありがたく読ませて頂きました。

大木というのは、私にとってはとても魅力的な場所であり、誇れるものです。よく帯川で遊んだり、大木保育園の裏手でランニングなどをしたのをつい最近のように覚えています。田に囲まれ、山に囲まれ、川に囲まれ、最高の場所でした。

そこで、この大木というのはどういう場所であったのかインターネットを使って調べたのですが、江戸時代1000石を越すほどの大村だったようですね。そこでお尋ねしたいのですが、その頃の大木村の人口というのは、どのくらいのものだったのでしょうか。吉田藩へ上納しても、お米があまりあるぐらいの人口だったのでしょうか。そして、その頃の村方三役は誰だったのでしょうか。

それとKoureiさんのブログで紹介されている西部小学校の隣にある問屋場、宿場の記事にいろいろと宿場があったとありますが、具体的にはどのあたりにあったのでしょうか。新町通りは、伊那街道と比べると、それほど大きな道ではありません。そのような道に信州往還として問屋場を多く建てる必要性があったのでしょうか。

いろいろと質問をしてすいませんでした。昔から親に、なんで、なんでばかり言うなと叱られたのを思いだしました。お恥ずかしい。

わかることで良いので、少しでも教えてもらえたら光栄です。それと、いろいろな場所を回られて、歴史を調べ、写真に撮られている、そのようなKoreiさんが羨ましくもあり、よい趣味(?)だなと思いました。

私も地元を愛する者として、もう少しぐらいでも大木を含む一宮、そして豊川のことを知らないといけないと反省するばかりです

返信する
大木さん (kourei)
2008-04-04 22:54:43
初めまして

私は現在、大木の境から100mくらいのところに住んでいます。
以前は、地元のことを調べてらっしゃる方をお見受けしましたが、現在は全然になりましたね。
そんななか、「大木さん」からコメントいただいて、大変嬉しく思いますし、心強いです。

私も帯川でよく遊びました。
町内のほかの川にはいなかった、ザリガニもたくさんいましたし、いつも網をもって川で遊んだものです・・
今は、河川改修が進んで、「伸銅」のところまで川幅が広げられ、堤防も下げられました。ホタルも減ってしまいました。

大木は広い地域ですね。
ゆえに、ご存知だとは思いますが、「一部、二部」のようにに分けて集落がなされていましたね。
私も、以前お年寄りから聞いたことを書き溜めてあったりしたので、そこから書き出すと、大河内松平氏が吉田藩主になった正徳二年(1712)の大木村の人口は691人です。そして、いわゆる大庄屋といわれる家は嶋田家で、ほかに庄屋の経験のあるのは中村家、組頭は鈴木家、林家となっています。

街道、宿場は、いわゆる東海道のような立派なものではありませんが、西三河側からの短絡街道(新城街道:信濃往還)として御油追分、姫街道八幡村から分かれ、吉田から来る吉田往還と一宮村で合流しました。吉田往還(信濃往還)は、豊川宿を出ると一宮村地内は人口が少なく、宿はありませんでしたので、御油から二里半の最初の宿として、当時一番人口が集中していた大木村に設置されたようです。
問屋場も、東上代官所の彦坂氏が、慶長七年(1602)に設置許可を出しています。
それを皮切りに、七軒の旅籠もできたようです。
ただし、当初は現在の新町通ではなく、曲がりくねった道が、北西側を通っていたようです。(字荒屋、下縄手、帯川を渡り、横町(大木神社)付近)
その後、道程の整備をし、新町通として、新たにできたようです。(新町⇔本郷)

私の分かるのは、これが限界です。
大木さんも、きっと私の知らないことを知っておられることと思いますので、また是非お教えくださいね。

趣味というか…
当初、職業とするつもりもあったりはしましたが、ただ消えうせていく、むかしの歴史をそのままにしておくのはしのびなく、いろんな方々から聞いたお話を記録に残したのです。そして、そこだけを見る狭い視野にはなりたくなかったので、各地と地元を比較して、そこで感じたり分かったりすることをまた、書き綴っていく、そんな感じです。

私も、「郷土愛」を大事にしたい一人です。
どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。
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返信ありがとうございます (大木)
2008-04-05 09:45:01
大変、貴重な情報ありがとうございます。

koureiさんのおかげで、その時代の風景が少しずつくっきりしてきました。新町通りが曲がりくねっていたというのは、とても驚きました。あのまっすぐな道も利便性を考えられ時代共に変化してきたのですね。

帯川で網を持って取りに行き、ザリガニはホントよく取れましたね。昔はタナゴやハヤなど多く取れたのですけどね。今はもうダメなんでしょうね。

大木については、本当に何も知らないんですよ。離れてみて、ようやく興味が湧いてくるなんて不思議ですね。何かわかり次第、お伝えしたいと思います。と言っても地元に帰るのは、夏になるので、それまでは、ネットぐらいしか調べる術はありませんが

ただ消えうせていく歴史。何か寂しいですよね。歴史あっての今ですから、ただただ忘れさられるのは、おしいですよね。

グローバル化している昨今だからこそ、原点を忘れてはならないと強く思っています。こちらこそ、よろしくお願いします。
返信する
大木さん (kourei)
2008-04-06 00:24:53
いえいえ、こちらこそ改めて勉強になり、また、地元を思う気持ちを新たにできました。
今、大木に住む人が、新町通は歴史ある街道だったと思っている人は少ないでしょうね…

帯川は、堰とかがあまりなかったので、入りやすい川でしたね。
ハヤはたくさんいましたね。フナもメダカもたくさんいました。
それと、護岸がコンクリートでなかったところが多かったので、岸の草の下や、藻の中にもいろいろ潜んでいましたね。
今は、川で遊ぶ子どももほとんど見かけなくなりました。

一宮は、古くから伝わる歴史を紹介する術がないというのか、紹介されているものが少ないんですよね。地元が好きであっても、後世に伝えようと思っている方が少なくて、ちょっと残念な気がします。
ネットで調べても、ほとんど出てきませんよね(笑)

過去を振り返ることは、未来が見えてくることだと思うので、大木さんともども頑張りたいですね。
どうぞ、よろしくお願いします。
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