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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

西原城館

2007-05-17 00:00:34 | 城郭・城下町

(豊川市西原町・大木町 トップ写真は篠田屋敷(松平館)跡から西原を望む)

      (成徳寺境内)
 西原町字松葉には、「堀の内」という通称地名と共に、堀、土塁が残されている。
この堀は次第に埋められ、成徳寺境内の一部を残すのみとなっているが、西原東側の旧外(よそ)川(現灌漑排水路)までと、後述する南側金剛寺方面に延びている痕跡がみられる。(地籍図参照

また、成徳寺東側、字重藤地内に土塁の一部を残す。
 

当地に住む人が、地下1mに門石を見出したことがあると話されたことがあった。(図参照

 平安後期、三河守護大江定基がこの地に居住したと伝えられ、西原館と称されているが、鎌倉時代以降もこの地に豪族が存在したことも考えられ、南の金剛寺境内からはその時代の陶器及び山茶碗、土鍋等も出土している。鎌倉時代に当地方にやってきた熱田大宮司系一宮氏、篠田氏とも関係があるのかもしれない。
(金剛谷北側堀)  (金剛谷南側堀(馬かくし))
 金剛寺境内にも、堀、土塁遺構の一部が残されており、金剛寺東側には郭とみられる遺構と、住人から大手と呼ばれる道がある。一般に金剛谷城と称されているが、最初の西原館を含んだ一つの館と城部、或いは城郭として後に、台地縁端で眺望の利く金剛谷城の部分を拡張したものとも推測できる。
「西原館」と「金剛谷城」の間の墓地から、やはり鎌倉時代後期の骨壷が出土している。

 
 また、古老の伝承には、西原西側の大木進雄神社にも城があり、その城主が西原南側の木戸の城(篠田古屋敷か)へ戦いを仕掛け、領土を広げた。というものがある。

 その進雄神社付近も、指状を成した城郭に適した地形をしている。境内には、宝筐印塔の一部が残されており、形状から鎌倉時代中期とみられる。また、付近から同時期の陶器片も散見することがある。


(クリックすると拡大します。遺構に続く点線は地籍図による推定遺構)

(拡大します)
(字重藤、西原館東側付近地籍図。中央部縦に堀跡。横方向水路は旧よそ川)

(拡大します)
(左側は字岡ノ上、金剛谷城付近。右側は字松葉、西原館付近地籍図)

(関連記事:旧一宮町域における詳細不明城跡について


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