flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

長良真福寺

2007-05-07 00:00:20 | ほとけのいおり


(1999年1月17日の日記から)
 新春の岐阜、市街地でも日陰では雪が残っている。
定期的に訪れる岐阜の地も、「長良」へは約17年振り、市内電車は廃止され、その分の情緒は薄らいだ気がした。
「長良北町」を過ぎると、間もなく「長良真福寺」へ到着。江戸時代、長良三郷と呼ばれた真福寺村の由来も、同所にある臨済宗妙心寺派真福寺に由来する。
岐阜市最高峰、百々ヶ峯の山懐に抱かれながらも、松籟(しょうらい)団地等早くから住宅地となったためか住民は多く、バスは20分間隔、市内均一料金区間内である。
この辺りは人口が多い筈なのだが、ひっそりと感じる。それは風が無いためである。
百々ヶ峯が北風を遮ったことによって、付近には縄文時代からの人々の営みの痕跡がみられる。そして古代人は静かで暖かなこの地を死後の地に選んだ。
 真福寺の西側、百々ヶ峯から続く山腹及び山麓には、52基からなる西山古墳群が存在する。


事前に岐阜市教育委員会にお伺いしていたため、詳細を知り得た上での踏査ができた。
古墳時代後期(7世紀)の西山古墳群は、第Ⅰ群が34基、第Ⅱ群18基がⅠ群西側にあり、その内Ⅰ群の第4号、5号墳が昭和41年に発掘調査され、4号墳は石室が開口されている。


4号墳の外観は葺石(墳丘防護用の石)が残り、三段築成の円墳、直径16m、高さ6.5mということである。
(葺石)

横穴式石室は、玄室入口両側に立石を置く両袖式石室と呼ばれるもので、バランスよく石が組まれている。
玄室奥壁から羨道(せんどう:通路)入口までの長さが12.5mあり、この古墳の規模に対して立派な石室を持っている。


また、羨道から玄室までの地面がフラットではなく、段差及び傾斜を設ける少ない形式の特徴を持っている。


発掘によって出土した副葬品は、金環(装身具)、直刀、鉄鏃、刀子(武具)と土師器、須恵器が確認されている。



 西山古墳を後にし、付近の霊地に足を運ぶ。
天神川の流れの一つである小さな滝の上に「弘霊不動」があり、下には「八大龍」と刻まれた碑、そして六社神社、熊鷹稲荷、大鍬社、五社神社等を参拝し、暫しの安息に就いた。やがて夕刻となったため、生死両者の安住の地、真福寺を離れることとした。
 
(関連記事:長良八代古墳群 雄総古墳群

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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お願い (BALTAN(バルタン))
2007-05-08 07:47:36
お願いがあります。
西山古墳について詳しく教えていただけないでしょうか?

お願いばかりですみません。
返信する
残念ながら (kourei)
2007-05-08 07:53:38
これ以上のことは知りません。
けんちゃんさんがお詳しいのでは(笑)
返信する

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