(愛知県幡豆郡幡豆町東幡豆)
とうてい山古墳から愛宕山に向かう途中に、岩の露出しているところがあった。その一つには、文字が刻まれていた。
寛永十七年(1640)この年は旱魃となり、谷村(東幡豆)では溜池の水が底をついた。領主松平右衛門臣石塚久左衛門は、水を分けて欲しいと上畑村に申し出たが、上畑村の村人は難色を示した。然し、長老が仲裁に入り、谷村にも水が貰えることとなった。そして上畑村の上畑池(東幡豆字東山谷)から谷村の谷池(東幡豆字西ヶ鼻)までの水路を築き、谷村も潤うようになったという。その際に、感謝の意も込め、岩に出来事を彫ったのが証文岩である。
その開削された水路を伝って、私は愛宕山に向かった。
とうてい山古墳から愛宕山に向かう途中に、岩の露出しているところがあった。その一つには、文字が刻まれていた。
寛永十七年(1640)この年は旱魃となり、谷村(東幡豆)では溜池の水が底をついた。領主松平右衛門臣石塚久左衛門は、水を分けて欲しいと上畑村に申し出たが、上畑村の村人は難色を示した。然し、長老が仲裁に入り、谷村にも水が貰えることとなった。そして上畑村の上畑池(東幡豆字東山谷)から谷村の谷池(東幡豆字西ヶ鼻)までの水路を築き、谷村も潤うようになったという。その際に、感謝の意も込め、岩に出来事を彫ったのが証文岩である。
その開削された水路を伝って、私は愛宕山に向かった。