和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

革心44/小説「新・人間革命」

2015年06月20日 07時03分12秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月20日(土)より転載】

【革心44】

 〓穎超は、中国の改革に生涯を捧げようと、共産主義の運動に加わる。国民党と共産党は、協力して軍閥と戦うために、国共合作に踏み切った。天津で彼女は、共産党と国民党の若き女性リーダーとなった。

 一九二五年(大正十四年)三月、中国統一をめざした「国民革命」の指導者・孫文が死去するが、彼女は、黙々と、自身の定めた信念の道を突き進んでいった。

 人民の中へ――〓穎超は、工場や農村を回った。蔑まれ、虐げられ、地を這うようにして働く女性たちに、社会の改革を訴えて歩いた。また、孫文夫人の宋慶齢をはじめ、指導層の夫人と交流を深め、彼女たちが前面に躍り出て活動できるようにお膳立てし、自分は陰の力に徹した。

 日英の帝国主義打倒や、租界の撤廃も叫んでいった。列強の息のかかった軍閥は、〓穎超を「最危険分子」と見なした。母とも別れ、天津を離れるしかなかった。髪型を変えて、ズボンをはき、目立たぬ衣服で天津を脱出した。上海から船で向かった先は、国民政府があり、周恩来のいる広州であった。

 彼は、一年前に帰国していたが、“最愛の人”に会いに行くことより、改革の使命の遂行を第一義とし、直ちに任務に就いた。

 広州で周恩来は、国民革命軍のリーダー育成のための黄埔軍官学校政治部主任や、共産党の広東区委員会委員長等を兼ね、激務をこなしていた。〓穎超が港に到着した時も、迎えに行くことさえできなかった。しかし、彼の質素な部屋には、彼女が大好きな花が飾られていた。この日、彼は家に帰れなかった。

 二人が五年ぶりに再会したのは、翌日である。洋食店で食事をした。互いの胸には無量の感慨が詰まっていたにちがいない。だが、見つめ合うばかりの、言葉少ない語らいであったという。これが二人の結婚式となった。周恩来二十七歳、〓穎超二十一歳であった。

 建設は死闘である。私生活のすべてを、いや、命をも、人民のために捧げた多くの人たちがいて、新中国は築かれたのだ。

■ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1・2・3・4西園寺一晃著『〓頴超』潮出版社
 主な参考文献
 西園寺一晃著『〓頴超』潮出版社
  『人民の母ーー〓頴超』高橋強・水上弘子・周恩来 〓頴超研究会編著、白帝社
 ハン・スーイン著『長兄ーー周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社


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