和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年08月27日 11時34分40秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月27日(木)より転載】

【勝利島32】

 十島村も三島村も、毎年、台風の通り道となる。石切広武は、地区部長に就任した時から、台風の被災が少なくなるように、島の一人ひとりが幸せになるように、島の広宣流布が進むようにと、懸命に祈り続けてきた。
 当時、十島、三島の両村の主な産業は、農業と漁業である。島での仕事は限られている。若い人の大多数は、中学校を出ると島を離れていく。都会生活への強い憧れもある。本土に行ったまま、戻らぬ人も多い。人口は、減少の一途をたどっていた。
 そのなかで学会員は、強く、明るく、島の繁栄のために頑張り抜いていたのだ。
 周囲の人たちに信心を反対されながらも、笑顔で包み込むように接し、着実に理解者を広げているのである。石切は、その姿に、心が洗われる思いがした。
 硫黄岳が噴煙を上げ、“鬼界ケ島”とも呼ばれる三島村の硫黄島にも、島の人たちの幸せを願って信心に励む婦人の姿があった。夫が病弱で貧しい暮らしのなか、“必ず信心の実証を示し、広宣流布を進めるのだ!”と、懸命に働き、学会活動に励んでいた。
 竹の切り出し作業や、男性に交じって土木工事にも精を出した。新しい衣服も買えず、着物をワラ縄で縛って労作業に励んだ。彼女が仏法の話をしても、皆、蔑み、耳を傾けようとはしなかった。しかし、着実に生活革命の実証を示すにつれて、学会への理解が深まっていった。そして、硫黄鉱山が閉鎖され、不景気な時代が続くなかで、彼女の一家は、立派な家を新築するのだ。
 同じ三島村にある竹島には、かつて他宗の僧をしていた学会員もいた。島で唯一の僧が学会の信心を始めただけに、人びとの戸惑いも、反発も大きかった。しかし彼は、“なぜ、僧であった自分が学会に入会したのか”を通して、日蓮大聖人の仏法の正しさ、偉大さを、厳然と訴え抜いていったのだ。
 石切は、今まさに、地涌の菩薩が躍り出ているのだと、心の底から実感するのであった。
 広宣流布の時は、到来しているのだ。


     



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