和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年09月04日 20時42分15秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月4日(金)より転載】

【勝利島39】

 創価学会の組織は、なんのためにあるのか――人びとに真実の仏法を弘め、教え、励まし、崩れざる幸福境涯にいたるよう手を差し伸べ、切磋琢磨し合っていくためにある。

 したがって、最も苦しく、大変ななかで信心に励んでいる人ほど、最も力を込めて激励し、元気づけていかねばならない。それぞれの島に住む学会員は多くはないが、大都市にばかり目が向き、各島に光を当てる努力を怠るならば、万人の幸福を築くという、学会の使命を果たしていくことはできない。

 山本伸一は、かねてから、島の同志が、希望に燃え、勇気をもって、はつらつと前進していくための、励ましの組織をつくらねばならないと考えていた。

 学会が「社会の年」とテーマを定めた一九七四年(昭和四十九年)を迎えるにあたり、彼は首脳幹部に自分の意見を伝えた。そして検討が重ねられ、七四年の一月十四日に、離島本部の結成が発表されたのである。離島本部長に就いたのは、三津島誠司という、学会本部に勤務する熊本県出身の青年であった。

 その十一日後の、一月二十五日のことである。鹿児島県の九州総合研修所(後の九州研修道場)に、奄美大島や沖永良部島、徳之島、種子島、与論島など、九州地方の島々から代表五十人が集い、離島本部の第一回代表者会議が開催された。

 研修所に滞在していた伸一は、その前日、学会本部首脳や九州の幹部、離島本部の関係者らと、離島での活動について協議した。

 この席で彼は言った。

 「明後日、私は香港に出発するので、その準備のため、明日の離島の代表者会議には出席できません。しかし、出迎え、見送りをさせていただきます。皆、村八分などの迫害を受けながら、苦労し抜いて、各島々の広宣流布をされてきた、尊い仏子の皆さんだもの。

 全員が、まぎれもなく、日蓮大聖人の本眷属たる地涌の菩薩です。奇しき縁のもとに、それぞれの島に出現し、大聖人の命を受け、広宣流布の戦いを起こされた方々です」



 

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