和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年09月16日 10時52分12秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月16日(水)より転載】

【勝利島48】

 やがて母島への本格的な帰還が始まり、旧島民や新しい人たちが島に移住してきた。そのなかに学会員もいた。

 勝田喜郎は、“この島で広宣流布の大きな波を起こしていくには、皆が集う会場が必要だ”と考えた。本土から大工を呼んで、家を新築することにした。ここを拠点に、母島広布は進んでいくことになる。

  


 青く澄み渡る珊瑚礁の海が光る。空も吸い込まれそうなほど青い。生い茂る椰子やパパイヤ、バナナの葉が風に揺れる……。

 一九七四年(昭和四十九年)五月四日――初めて小笠原の父島を訪れた離島本部の幹部らは、その南国情緒豊かな美しい景観に目を奪われた。とても、ここが日本の、しかも、東京都であるとは思えなかった。

 到着後、彼らは、島の主なメンバーと打ち合わせをし、夜には指導会を行った。

 会場は、浅池隆夫の家である。父島を中心に二十人余の参加者が集って来た。

 この指導会の席上、離島本部長の三津島誠司から、小笠原大ブロックの結成が発表された。大拍手が轟いた。大ブロック長・担当員には、浅池隆夫と妻の栄美が就いた。

 また、三津島から、会長・山本伸一の伝言が紹介された。

 「御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています」との、伸一の言葉を聞くと、参加者の目は涙に潤み、決意が光った。

 三津島は訴えた。

 「山本先生の心には、いつも、皆さん方がいます。皆さんの心に、先生がいるならば、師弟不二なんです。師弟の絆の強さというものは、地理的な距離や役職のいかんで決まるものではありません。先生に心を合わせ、胸中に師匠をいだいて、同じ決意で広宣流布に戦う人こそが、最も先生に近い人であり、それが本当の弟子であると思います。

 どうか、小笠原の皆さんは、師弟不二の大道を歩み抜いてください!」







   

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