行ってみたいとこのあります。
東北の三代限りの栄華を極めた藤原氏が建立した
奥州平泉「中尊寺 金色堂」
義経が最期ば遂げた地です。
できれば、死ぬまでいっぺん一月ぐらいかけて
京都から熊野、伊勢、長野県諏訪ば経由して岩手まで
ゆっくり時間ばかけて探訪してみたて思うとります。
京都近辺も鞍馬山やら比叡山やらも時間かけて・・・・・
岩手のお隣、お袋の生まれた秋田の地もゆっくり訪れてみたい場所です。
ま一つは「出雲」
これもゆっくり時間ばかけて見て回りたかねぇ・・・
以前の仕事の博多人形の題材でも、
「吉野静」「静のわかれ」やらの題材にもいまだに残る
義経の逃避行・・
ジンギスカンてまでは言わんばってん義経は平泉では死なんで
東北さい逃げ延びた・・ていう説が今に有力です。
※義経は生き延びて大陸に渡りジンギスカンになったていう説もあります。
光秀は生きとって徳川家ば牛耳った、信長ば殺した黒幕は秀吉等々も面白か説です。
その根拠が、平泉に義経の墓の無かて言うことです。
現代歴史学者が見落とすとは、当時の人の信仰心、祟りば恐れる心です。
罪なき冤罪には、必ず祟りば恐れるための施しがしてあるとです。
その代表が「天満宮」
菅原道真がいわれもない左遷の末、日本の端、九州の地で無くなった。
その祟りば恐れて作られたとが現在、今なお残る各地の「天満宮」です。
昔の人は罪なき人ば自分の利益のために死に追いやったとき
必ず「祟り」ば恐れてそれば弔う施設(天満宮しかり)ば建立しとります。
平泉にはその「義経」の墓て言うものがみあたらんてゲナです。
源頼朝は差し出された首ばその辺の川に捨て置いたて言います。
罪なき義経の首なら当然、丁重に弔うはずですばってん・・・・
頼朝は義経の首やあなかことば知っとったとかもしれません。
当然、義経ば頼朝に差し出した藤原氏ば滅亡させたとは
「罪なき冤罪」いいがかりであります。
さきに述べた「金色堂」は全体ば覆う「覆堂(さやどう)」が作られとるて言います。
これは危ない刃ば覆う刀の「さや」て言う意味で「覆う」て書いて「さやどう」て
読まれます。祟りば恐れた頼朝が藤原氏の祟りば恐れるため藤原氏の栄華ば
覆ったて考えられるとです。
祟りば恐れた頼朝によって作られた鎮魂の証かもしれません。
また、金色堂内の清衡、基衡、秀衡の安置の配置についても後から
頼朝によって作られたていう説がありますとです。
北は東北、南は九州まで縦に長い日本
大陸に近い九州博多の歴史ば勉強するにつけて
この日本の歴史の始まりについても勉強したげんたい
面白かもんがあります。
古代、邪馬台国、奴国、出雲、纒向やらのことから
貴族社会から武家への歴史・・・・
戦国もの好きなおいしゃんもちいたその前の時代も面白か題材です。
大河「平清盛」まさに「貴族」から「武家」へ
日本の変換期でありますね。
どっかの市長がいうごとまさにまだ小汚い生活しよった頃の
日本があったとは歴史の事実でっしょうね・・・
ばってん中尊寺に見られるごと
「黄金の国ジパング」て言われるごと世界にとって
魅力的な「ニッポン」て言うことには間違いありまっせん。
今夜も本読みながら寝ることにします。
何回も読み直してわかることのありますけんね・・・
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