千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

きままなオイしゃんの独り言に
つきおうてつかぁさい。

栗山善助

2017-12-17 01:02:12 | 歴史・いにしえの大昔しの事
今日2回目の投稿です・・・

栗山善助(利安)御存じ黒田官兵衛の一の家来です。
黒田家て言えばこの善助です。


黒田一成((美作)と同じ黒田八虎の一人です。

大河「軍師官兵衛」では「濱田岳」が演じとりましたね。
auの金太郎のあの人です。おいしゃんこの役者さん好きです。
けん坊で逢うたことありますばってんが小柄で普通の若者やった。



15歳の時から官兵衛の側近になり、同じころ側近になった
「酒は飲め飲め飲むならば」の母里太兵衛の言わば兄弟子。

官兵衛から母里太兵衛は「善助の言うことに逆ろうてはいかん」て
義兄弟の仲て決められました。
黒田八虎筆頭の井上九郎右衛門と一緒に永らく黒田家に仕えます。

母里太兵衛・・皆が間違えて「森太兵衛」て思いよったけん
一時期は面倒くさかけん「森」で通した時期もあったて
博物館で読んだことのあります。

栗山善助(利安)は姫路市栗山町の出身です。

こげな重鎮たちが官兵衛、長政に使え忠之の時代には
疎ましか古株やったとですね・・・・・

それがのちの江戸の三大騒動「黒田騒動」に繋がりますと。
栗山善助の息子「栗山大膳」が身を捨てて黒田家ば守ります。

忠之の横暴に「黒田家謀反の企て」大膳が幕府に忠臣したとです。

これ、山笠の人形飾りにも登場してます。


昭和平成14年当番すノ二、標題は「為道捨身難」です。

この騒動後忠之は藩政に真面目に務めたそうです。

その子、3代藩主光之は名君と言われております。

先だって書いたと勘違いで訂正します。
橋本で生れたとは「忠光」やのうて「光之」であります。

貝原益軒に今に有名な「黒田家譜」ば編纂させとります。

光之の時代の大きなでけごとが伊藤小左衛門の密貿易事件。
幕府の嫌疑をば避けるために小左衛門一家ば処分しました。

その子小四郎・万之助も連座して処刑され、人々は幼少の2子の死を悼み祭ったていうとが
今の東流、浜口町の「萬四郎神社」です。



福岡と博多(異人はfakataて発音しよったゲナ)黒田時代からしても
歴史は積み重ねられとりますね。

今回でこの歴史のお話は書き足らんばってんがお終いとします。

チャンチャン
コメント

黒田三左衛門(美作)

2017-12-15 14:37:44 | 歴史・いにしえの大昔しの事
黒田三奈木家・・・・


現在いろいろな博多の歴史書で見るこの「博多古図」はじめ
いろいろな地図は黒田三奈木家に残されとったものです。

黒田三奈木家てなん?
聞いたことはあるばってんが知らん人も多かて思います。
場所が近かけん秋月藩?て思う人もおりまっしょうね。
違いますばい。黒田本藩の筆頭家老の家ですたい。

「黒田二十四騎」の一人でその中の精鋭「黒田八虎」の一人
黒田三左衛門(美作)本名「黒田一成」



この人の人生は面白かです。恩義が恩義ば生んだ・・てな感じ。

幼名は「加藤玉松」そうもともと黒田の家系や無かとです。
その父は加藤重徳、荒木村重の有岡城の牢番やった人です。

この人は村重の説得に失敗し投獄された黒田官兵衛ば
手厚く見守った人です。
黒田家の家臣の叔母が有岡城におり官兵衛の世話ばするとば黙認したり
たびたび忍んできた「栗山善助」と官兵衛が会話するとも容認しとったとです。
もともと黒田家はあそこら辺の出やけん親戚のおっても不思議や無かですもんね。

官兵衛が助け出されたとき息子の松寿丸(長政)は殺されたて
思うとったけん、加藤重徳の恩に報いるためその息子「玉松」ば養子に引き取ったとです。

ところが松寿丸は秀吉の計らいで竹中半兵衛の下でかくまわれて生きとったとです。
ばってん玉松は長政の弟同様に育てられのちに三左衛門て名乗り
長政の右腕として生涯、活躍し黒田家の筆頭家老ば務めます。

長政につき朝鮮出兵、関ケ原でも功績ば残します。
筑前入国後、名前ば黒田美作(みまさか)としとります。

時は忠之の時代「島原の乱」で幕府郡が佐賀、久留米、柳川、島原四藩の兵で攻めますばってんが
敗退、そこで援軍として九州全部の大名が駆り出され
黒田藩も1万8千の兵ば繰り出しました。
黒田騒動の恩義があって汚名挽回て忠之は奮起しますばってんが
総大将の老中の松平伊豆守信綱は黒田の老臣黒田美作ば
軍議に呼んで知恵を借り、兵糧攻めば決め乱ば治めました。

朝倉三奈木に居ば構えたけん黒田三奈木家て言われとります。
黒田家の中で唯一幕末まで家老ば務めた家であります。

今回はおふざけ一切なしであります・・・チャンチャン
コメント

福岡(黒田)藩考

2017-12-14 16:03:26 | 歴史・いにしえの大昔しの事
前回の続きです。

そのころ福岡博多「福岡(黒田)藩」はどげんやったっちゃろう?

関ヶ原の功績によって黒田長政が筑前ば与えられて福岡ができたとは
皆さんご存知ですね。
その前は官兵衛が豊前領主やったとが筑前にやってきました。
長政に家督ば譲った官兵衛は太宰府で余生ば過ごしたゲナです。

ばってんが、福岡ができたとはたかだか、ここ300年
博多はそれより大昔から栄えた商業都市です。
山笠行事で町人の結束の固うて新参の領主も扱いには気ばつかうたらしい。
始め前任者の小早川秀秋の名島城に入城したばってんがその地は博多の東はずれ
海に囲まれ立地条件も良うなかったけん
福崎の地に7年かけて城ば築城します。
その天守閣があったか否か?は未だ解明されとらんとです。
別名「舞鶴城」て言うて今もこの地に「舞鶴」て言う地名が残っとります。

長政は藩政に博多の町民ば取り込んで治めました。
途絶えとった松囃子(今のどんたく)も復活させ
焼失しとった東長寺も今の場所に建立しとります。
官兵衛に負けず劣らぬ文武に奏でた名君やったごたります。

当時の黒田家臣団は6~7000人ほどやったらしい。
主に備(そなえ)・組(くみ)ていう戦闘集団と
「役方(やくかた)」て呼ばれる行政官としての役職にわけられとったげな。
家老には黒田官兵衛の一の家来「栗山善助」の子「栗山大膳」がおりました。

島原の乱以後、外国船が入って来んごと長崎警護で参勤交代ば免除されたげな。
佐賀鍋島藩とは仲の良かったごたります。

黒田藩では馬廻組まで屋敷住まいやったげな。やっぱ規模の大きな藩やったとですね。

お江戸のごとお城が出来て町がでけあがったとと違い
博多は大昔から博多の町が存在したけん武士の町福岡と町人の町博多は
那珂川ば挟んで向こうとこっちにわかれとります。
福岡部が武家屋敷と下士の住む長屋です。

長政には三人の子供がおりまして
忠之は世継ぎ、弟の長興に筑前秋月藩5万石、高政に筑前直方藩4万石が与えられたけん
福岡藩(黒田藩)52万石て言うたっちゃ実質43万石であります。

長男忠之は長政の側室の子やばってんが長政はこの側室ば嫌うとって
遠く橋本(七隈線の終点)に住まわせ忠之も橋本で生れ育ちました。
長政はこの忠之に後ば継がせとう無かったばってんが後ろ盾の「栗山大膳」の
後押しで忠之は2代藩主になりますと。

ところが忠之は説教がましい大膳ば疎ましゅう思いここから黒田騒動の起こります。
お家取りつぶしの沙汰ほどの騒動やったばってん・・・

その昔、長政が信長の人質やった時、官兵衛が荒木村重に寝返ったて疑われ
長政の首ば跳ねよて信長が命令したばってんが長政は竹中半兵衛にかくまわれて生き残ります。
官兵衛が栗山善助らの手により有岡城から救い出された時、信長は
長政ば殺せて言うたとば涙流して官兵衛に謝ったげなです。

そげな縁もあり、官兵衛は半兵衛の子竹中重門の烏帽子親ば務めとります。
その重門の口利きで黒田家は領地取り上げやったばってん
その日のうちに再度52万石ば拝領、おとがめなしやったげな。

これはお上のお話・・・・

なら博多町人はどげんしよったとでしょう?

お上から博多の行事一切ば任された年行司(その前は月行事て言いよった)て言う人がおって
藩から博多の一切の差配ば任されとりました。
税金と別にジョウギリ銭て言うて博多の祭りごとの積立金ば納めよったとです。
博多はその頃はすでに「流」て言う町組で組織されとって
その長が「町年寄」です。
その配下で山笠行事やらの一切合財がとり仕切られますと。

年よりて言うたら今のおいしゃんんのごと
使いもんにならん人たちておもいますばってんが重要な仕事しよったとですね。

暮れも近いこの頃・・こげなと書きよったら足のがつった・・・

どげんかならんもんかいな


>あ痛たたや誰か助けてくれんやろうか・・
コメント

久々歴史考・・江戸幕府って?

2017-12-14 14:42:54 | 歴史・いにしえの大昔しの事
ここんとこ読書の秋から引き続きまだまだお江戸小説読んでます。
江戸時代の古い言葉やら道具用具やら調べながら読むとも
楽しみの一つです。

例えば「チョキ船」やら「冷飯草履」なんかわからんでっしょう?

小説では幕府の役職がいっぱい出てきてなんやわけのわからん。
老中、家老、大目付、目付・・・
時代劇で言葉は聞くばってん深い内容はしらなんだ。
だんだん幕府の仕組み判ってきた。
幕府では一番偉か人が老中(何人かおります)でその下に
いろいろな役職、大目付、大番頭、町奉行、勘定奉行、城代、遠国奉行が
おります。
奉行でも「寺社奉行」は老中の配下やのうて「町奉行」より格上です。

そいけん神社や寺の敷地内での殺しやら賭場の事件に
町奉行は立ち入ることのでけんとです。
賭場の頭から寺社奉行に賄賂やらでうやむやにされて
町奉行は地団太踏んで悔しがるとですね。

この町奉行の配下におる同心の手下が「銭形平次」のごたあ親分
目明し、御用聞きても言います。
給金はでらんばってんが地域の治安ば守るけん縄張りの中の
大店からの付け届けで暮らしよります。
やくざの親分やったり、奥さんに商売させながら御用ばしよった
親分もおったらしかです。

大名でも将軍家直属の家臣(直臣)が旗本(はたもと)
将軍様にじかに謁見でける大名です。
黒田家はこのくちですね。

面白かとは家康の男系子孫は幕府の要職(いわば公務員)につけんかったらしい。
将軍家の転覆ばはかったらいかんて言う理由やそうです。

今読みよる小説に出てくる岡っ引きの宗吉親分は
町奉行の配下でありながら家康の幕府開闢いらいの目明しで
先祖が幕府の金座破りば召し取ったて言う手柄で
将軍家光直々に金流しの十手ば授かり将軍謁見もでける
特別な目明しなんですね。

「家光公から金流しの十手を拝借した金座裏の宗吉親分たぁ俺のことだ」

商人も幕府開闢以来の商人たちは「小町町人」て言うて
正月には特別にお城にあがって将軍様に謁見が許されたげなです。

松囃子が黒田のお殿様の場内に入ってお祝いしよったとと
一緒ですね。

江戸幕府には二つの奉行所、南町奉行所、北町奉行所のあって
月交代でお江戸八百八町の治安ば管理しよったとばってん
町奉行の数は少なかけんそれぞれ手下に同心やらその下に岡っ引き、下っぴきば配置して
江戸の治安ば守りよりました。



今の警察署みたいなとが「番屋」て言われ取り調べが行われます。
博多ではこの番屋は「会所」て言われ福岡と博多に二か所おかれました。

その博多部の会所があったところが今の古ノ一であります。

古ノ一へようこそ・・につながってきたでっしょうが、ぷぷぷ

次回はその辺のお話ば・・・・
コメント

穴・・そして昔の博多

2016-11-10 21:40:20 | 歴史・いにしえの大昔しの事
マンションのエントランス、エレベーター脇に今年も
クリスマスツリーが飾られとりました。
大家さんの事務所の事務員さんの気遣いでっしょうね。
大家さんなそげなとに気のつく感じやなかもんね。



もうそげな時期ですね、なんか気ぜわしゅうなってきます。

「まっしろしろ助」の件、羽毛の抜けてしまわんうちに
ネットで布団カバー買いつけました。


計って注文したけん寸法もばっちりですばってんが・・・


早速、こいつがねぐらにしとります。ひっかかんどけば良かっちゃあばってん。
折角、奇麗になって温っかWベッド・・・
誰か添い寝してくれたらもっと暖かっちゃろうばってんが
悲しいかなこいつしかおりませんもんね。
枕もいっつもふたあつ並べとうとですばってん一つは抱き枕ですったい。

さてさて穴に関連して「昔は天神は海やった」のお話ば
今回ちょっと詳しゅう説明してんろうかね・・・


これは大昔の「博多」です。今のごと福岡て言う地名は無いけん
これ全体ば「博多」て言うとりました。
一説によると鳥が羽根ば広げた形に似とうけん「羽型」から来たて説もありますばってんが
その大昔、こげん全体ば見渡せたっちゃろうか?ておいしゃん思うとです。
こちらから大きな地図が見られます。

中央から上に伸びて右さい付きだした砂州が
現在もその名の残るラーメンで有名な「長浜」です。
それに向き合うた右の出島のごたあとが現在の博多部
昭和通の北側、須崎、古門戸、奈良屋あたりです。

その右から入り込んだ入り海がその形から「袖の港」て言われるところ。
これもどこから全景ば見渡せたっちゃろうか?て疑問です。

今の天神一帯は「冷泉津」て言うて完全に海やったとのわかりまっしょう?

穴んとこ川やったともわかりますね?
現在の「御笠(石堂)川」も無かでっしょう?
石堂川はね鎌倉時代から作り続けた人工の川ですタイ。
穴付近の比恵川の出口が堆積して「中洲」の出け上がります。
昔から博多は水害に悩まされよった土地柄なんです。
ちょっと前も大雨で御笠川が氾濫して博多駅が水没したことも
記憶に新しかでっしょうが。
これは御笠川から氾濫して昔の川やった低っかとこさい流れ込む図式です。

ちょこと時代ば進めます。


博多の出島(沖の浜)付近ば現在の地図に重ねたものです。

このすぼまった首のごたあ部分は埋め立てられて地続きになったちゃあばってんが
もともとは入り海やけん水はけの悪かけん
「博多大水道」て言う抜け道ば作ったとですね
こっちの地図ばみてんなざっせ・・・


これも昔の「沖ノ浜」と「博多浜」に現代の地図ば重ねたもんです。
わかりにっかばってんが赤枠が現在の古ノ一(妙楽寺)
緑枠の部分が博多大水道の辺り青枠が現在の「石堂橋」です。

明治時代にこの博多大水道に蓋ばしてその上にできあがったとが
いわゆる「新道」て言われよった今の(もう無うなったばってんが)寿通りです。

こげんと見たら良うわかりますね。
須崎辺り掘ったらイルカの骨やらすぐ出て来ます。(昔は食いよった)
ブラタモリでも言いよったでしょ?
博多の街は「坂の町」昔、海うやら川やったとこは今も低っかです。
昔の地形そのまんま盛り土してでけあがった町やけんですね。

おいしゃんの実家がマンションになる時掘り返した時やら
日本最古の文字「パスパ文字」が発掘されて新聞の一面に載ったもんでした。

歴史ある博多の町も水はけとの戦いやったとが埋め立てやらで
良うわかります。

今回の穴、あってはならん事故ばってんがある意味博多では
いままでもこげんとと隣り合わせで地下鉄掘ってきたけんその技術はけっして低っかとは
言えんとです。その証拠に道路復旧のスピードは驚くほど速かですもんね。

ばってん一帯が被った目に見えん損害(売上等)は保障のあるとでっしょうかね?
コメント

真田幸村

2016-10-08 22:24:05 | 歴史・いにしえの大昔しの事
土曜日は朝から料理の仕込み、部屋の片付けの日です。
雨が降る前にYmobileに行ってきました。
先週の「カッパ」との約束でポケットWIFIのオプション解除です。カッパなんと店長やった。

雨の降らんうちにて朝一番で出かけとですばってんが
帰りつく前に雨の降りだしました。

さてさて本題に・・・・・今回ちょっと長文になってしまいました。
こらえとってください。

「真田幸村」文献に本人が書いたものでは「幸村」ていう名前は存在しません。何でかな?
ばってんが「信繁」より「幸村」の名前の方が有名です。
戦国時代、最後のツワモノて言われます。

顔も・・・・


こげな風・・・・・


今のゲームやらのイメージとは程遠か風貌です。

これもイメージが違う奴・・・・


有名な「源義経」静との恋路やらは想像もつかんですね。
「静の別れ」京人形では定番のモチーフですね。


ギャップのありますね・・・
この時代の兜と信長、秀吉、家康の時代の兜も違いのあって興味深いですね。
今の節句人形に使われる兜はこの時代のものです。

今回の脚本は信繁の大坂入りば決めての「幸村」への改名になっとりましたね。
兄貴が捨てた「幸」の名ば受け継ぐにくい脚本ですね。
その兄、「信幸(之)」は90歳ぐらいまで長生きしたて記憶しとります。
大河はフィクションやけんいつも史実そのままや無うて面白う脚色してありますもんね。

何で「幸村」か?それはこちらで以前書いたけんみて下さい。
あたきたちが良く知る時代もんは大概のちの江戸時代に芝居として
脚色されたもんがあたかも史実のごと伝えられとりますばってんが
すべて作りもんですけんね。
赤穂浪士、真田十勇士しかり。
猿飛佐助やら霧隠才蔵やらは実在しませんもんね。
服部半蔵は実際徳川におったばってんが忍者やあありまっせんとよ。

当然「赤影さん」「白影さん」「青影さん」は現代のフィクションです。



歴史は面白かですね・・・・・・
昔からこげん勉強しよったらおいしゃんも
一廉のおいしゃんになっとったかも知れまっせんばってんね~

現実は・・・・・


土曜日のお昼ご飯


土曜の夕ご飯


今夜の夕ご飯

いずれにしても当時の大名の夕餉にしてみればごっつぉうですもんね。
「お湯掛けたら食べられます」て信長に言うたら
「まやかしもんめ!」て首跳ねられたかも知れまっせんね。

美味かとぃ・・ちゃんちゃん

コメント

幸村

2016-03-16 21:09:33 | 歴史・いにしえの大昔しの事
はいっ!ブロガーのネタ切れにおいしゃんも違(たが)わず今日もこれっ



昨夜、作り置きした今日のちろり亭、お昼のメニューです。
豪華版ですね。豚骨スープ炊きの鶏ご飯にアゴのカンボコの味噌汁。
鱈のソテー餡かけに紫蘇昆布。
ご飯足らんで白ご飯、チンして大人のふりかけで頂きました。

郵便ポスト見たら4月からの保険証が・・・・


また一年、この保険証にお世話になります・・っていうか
これにどんだけ金かかっとうか?
毎月、引き落としされる保険料、首絞められるごたりますね。

このお話はここまで。

今回、久々に歴史のお話・・・チャンチャン

いま話題の「真田丸」歴史の武将の中でも人気の武将の一人「真田幸村」
歴女に一番人気やそうです。



おいしゃんな幸村より戦国の世に真田家ばつぶさんごとかっさくした
真田 昌幸の方が凄かて思いますとばってん
今回の「真田丸」そこが描かれとりそうで楽しみです。
真田の生き残りば掛けて兄弟で敵味方になるとですもんね。

ばってんがこの「幸村」て?
番組でも「真田信繁」でっしょうが?

歴文見ても自分でただの一度も「幸村」て著名した文書は無く
「真田信繁」が本当、「真田左衛門佐信繁」または「真田好白斎信繁」

ならなんで?
真田家の文献にも「幸村」の名前は存在せんそうですね。

これは赤穂浪士にも言えることですばってんが
のちに舞台芝居で歴史中の英雄ば江戸時代に芝居にしたことに因のあります。

天下の名武将、大阪城に真田丸ば築き東軍の大阪城攻めに3000の兵ば束ね
最後まで孤軍奮闘、防御した砦ですたい。
最後は家康ば追い詰めその眼前まで追い詰めて家康に
「もはやこれまでか?」て言わせた真田信繁。
家康はこれまで何回も窮地に追い込まれとりますもんね。
今回、「内野聖陽」さんがよう家康の人間像ば描いとるて思います。
本能寺の変でも家康は命からがら伊賀越えして逃げとりますもんね。
この時活躍したとが「服部半蔵」彼は忍者のごと伝えられとりますばってんが
里の忍びの身ば捨てて家康配下の武将に名ば連ねる武将です。

言わば徳川に背いた英雄ばその本名で芝居に掛けたらそらまずかでしょう?
江戸の庶民ないわばフィクションとして「幸村」の名前ば使うて
真田信繁の武伝ば楽しんだとですね。

時代考証の本読んだらそげなとが一杯出てきます。

「北条早雲」これも正式には「伊勢新九郎盛時」が正解。
出家してから「早雲庵宗瑞」と号したとです。
北条は息子の「氏綱」から名乗ったてあります。

歴史はのちの時代に色々と脚色されて面白おかしく書かれとりますね。
近代国家もそうですばってんが歴史は勝ったもんの記録で
勝ったもんの良かごと書かれとります。

信長の「信長公記」はまだ良かほうで秀吉の「たいこうさまくんき」に至っては
秀吉が良かごと書かせたもんですもんね。

これとおんなしで、先の大戦でも敗戦国ニッポンも
敗戦国やけん極悪非道の国のごと決めつけられて
「悪いことした」て刷り込まれてとりますもんね。
これについてはおいしゃん一杯書きたいことあるばってんが
それは、またいつか・・・・

歴史はその時の権力者の手によって良かごと造られとります。

今の時代になって日本国の歴史上の悪人と言われる
「蘇我入鹿」も本当は良か人やったて研究もあります。
日本全国にある「須賀神社」これソガからきたて知っとうですか?
曽我氏はスサノオに基因しとるらしかです。
その逆に「聖徳太子」もそげん良か人や無かったて説も・・

歴史はおもしろかやね~




コメント

古の名島城

2015-01-19 10:16:08 | 歴史・いにしえの大昔しの事
日曜日の午後、思い立ってふらりと名島神社に行ってきました。

午前中のウオーキングと併せて10000歩超えました。
※名島までは車です。念のため・・・・・

数十年前、香椎浜に住んどった頃は
正月やら度々お参りに行きよった小さな神社で
趣が好きな神社やったけんですね。

秀吉は九州平定ののち、小早川隆景に筑前、筑後、肥前の二部ば与え、
小早川水軍の名ば誇る瀬戸内の水軍らしく
隆景は三方ば海に囲まれた名島の地に「名島城」ば築きました。
※軍師官兵衛では「鶴見辰吾」さんが演じとりましたね。

その後、関ヶ原の功績により筑前ば与えられた黒田が筑前入りし
福岡城ば築いたけん廃城になった歴史のあります。

福岡城はこの名島城の石垣やらば利用して作られたて聞きます。

この名島城があったところに名島神社があります。
その下の波打ち際にある「帆柱石」が有名ですね。
※神宮皇后が三韓出兵の時の船の帆柱が化石になっていわれますばってんが
実際はただの木の化石らしい。



数十年ぶりに行ってみたら名島神社立派になっとりました。



もっと驚いたとが神社の上に「名島城址公園」が整備されてでけとります。





最近発掘調査があって石垣あとやらが出てきたそうです。









梅やら桜も綺麗に植樹されとって眺めも良かし
梅見、桜見の時期はお弁当でも持っていったら良かろうて思いました。



上の写真中央のアパートの下に「帆柱石」が見えます。

神社横には「豊川稲荷神社」も祀ってあり、まだまだ整備の途中で
今からもっと立派になっていくことでしょうや。



豊川稲荷神社の入り口にポツンと・・・・・



これは猿田彦でしょうか?お供えのしてありました。



埋め立てが進み以前とは全然違う景色が広がりますばってん
こげな日暮れの景色も良いもんです。

帰り着いて昨日のピザ生地が良かぐあいに出け上がっとって
夕飯はピザいただきました。写真写すと忘れました。

一方こちらミヤオはヒーターの前でご満悦、完全に伸びきっておりました。
歴史もなんも関係無かミャオ、」ただただ暖かいとこが好き・・・・

コメント

怡土国徘徊・・

2014-02-09 16:09:21 | 歴史・いにしえの大昔しの事
月曜までごりょんが出張で留守・・

義母もショートステイでお泊まりやけん
週末はひとりです。

いや一人だけこいつがおります。



博多におっても良かっちゃあばてんが
こいつに餌やらないけません。
普段はあいそもこそも無か「寧々」

だれもおらんかったら結構ひっつきまっつきしてきます。
寝とう間も片目開けておいしゃんの動向みよります。

日曜の朝は冷蔵庫に「餅」の残っとったけん雑煮作りました。
テレビで見とった餅の湯がきかた・・・

沸騰したお湯に餅入れて蓋して9分放置・・・



見事つきたての餅の柔らかさになりました。
てかり加減も良かですね。



出汁だけはアゴ、シイタケ、昆布でとって
ブリやら里芋、かまぼこやら雑煮の材料は無かけん
今日は、鶏肉、小松菜、冷凍ホタテの貝柱

鶏肉入れて強火で煮込んだけん水炊きのごと白濁してしまいました。



ばってんこれはこれで美味しかったです。
先日の定期検査で先生から「正月餅いっぱい食べたでしょう?血糖値が上がっとう」て
言われたばっかりのとぃまた餅食ってしもうた

ごりょンは歴史にあんまり興味の無かけん
今日は一人ゆっくり那国のお隣「伊都国」ば散策してきました。

「魏志倭人伝」で邪馬台国に行くには伊都国ば経て・・て出てくるくらい
当時は倭国では邪馬台国に次ぐ大きなクニやったとです。

瑞梅寺川と川原川にはさまれた地域に三雲・井原鑓王墓があって
そののちちょっと離れたとこで「平原遺跡」が見つかります。
平原から出土した銅鏡は日本一の大きさ・がこの地域の目玉です。

それだけ国力ば持ったクニやったとですね。

最初に「伊都国歴史博物館」へ・・入場料210円です。



たまたま今日は「高祖神社の歴史と文化展」がありより儲かりました。



館内のエスカレータはえらい雑音のする時代もんの代もんやねえて思いよったら
実は海の潮の満ち引きの音ば流しよんしゃるとが後でわかりました。



こちら自慢の「日本一の銅鏡」のビデオ



暮らし展が飾っちゃあ旧館にわたったら誰?このおっさん



なんやこれも展示物やった。



旧館には加布里山笠のミニチュアがあるけん今回それも目的の一つです。



人形師は「田中大造」さんて書いてあります。



弾き山ですね。二引きもちゃんと靡いとります。





こちら隣のお宅の居間じゃぁありっまっせん。

昭和の暮らしば再現した昔の懐かしか品々です。









この地域には高祖神社がありその昔ここは・・・

白村江の戦いに敗れた日本は「国内に攻めてこられる」て唐からの襲撃にそなえ防御施設である堤ば作りました。
それが今に残る「水城堤」で、その後方に防御のため「大野城」ば作ったとばってん
大宰府の西の守りの拠点として古代山城としての「怡土城」ば
ここに建設しました。

その後この地に入った大蔵系の原田氏がこの城ば拠点とし
その後に高祖神社ば作ったらしい。

怡土群の守り神として黒田の時代にも手厚く保護されてきました。
昔は「社家(神職)」により行われとった神楽が今でも氏子の手によって
「筑前里神楽」の一つとして今も伝えられとります



正面がその神社がある「高祖山」です。



こちらは古墳群がある地域・・

古墳巡りしよったらこげなとがありました。



「暇爺窯」て書いてあります。
その辺の爺さんが隠居して焼き物しよんしゃるとでしょう。

おいしゃんも晩年はこげな土いじりばして暮らしたいておもいますばってんが

筑前国・・まだまだ面白か歴史の宝庫です。

さて夜はいっぱい飲みながらオリンピックでも楽しむことにします。
コメント (2)

宗像詣で

2014-01-13 10:05:22 | 歴史・いにしえの大昔しの事
今年も2週間が過ぎました。

1月は行く、2月は逃げる・・て言うくらい月日の経つとは早いもんで
すぐどんたくがやってきそうです。

今日は成人の日、昨日宗像ユリックスば通りかかったら
成人の集いか?着飾った若者が集まっとりました。

温泉にでも行こうか?と義母とおばも誘い宗像へ・・

義母が宗像さぃ行くなら「昔の知人の家ば訪ねたい」て言います。
ばってんが90過ぎた婆の記憶はあいまいやけん
とりあえずその近くの赤間付近の「山田地蔵尊」へ



ここはその昔「大内義隆」に重臣「陶隆房(のちの晴賢)」が謀反ば翻し後、宗像氏の「菊姫」他
6人ば惨殺しその怨霊を治める為に祀られた場所です。
現在は安産子育、厄除や子供の息災、諸病平癒に祈願する人が多く
義父が存命やった以前にも何回が「花見」に訪れたこともあります。

黒田官兵衛が現れるとはもとずっと後の時代。
九州が平定されたあとの時代です。



義母たちの里は神湊と津屋崎の間の「勝浦」で
昔は歩いて来よったらしい。

やはり義母の記憶はあいまいで「釣川」沿いて言うことしかわからず
断念・・・

目的の王丸の「やまつばさ」へ



最近人気の場所で正月明けの連休とも相まって沢山の人出です。

ゆっくり露天風呂も味わって休憩所で新聞読みながら寛ぎよったら
ごりょんがやって来て「母が倒れた!」

風呂からあがって意識が遠のき倒れたらしい。
すでに救急車も呼んであり心ある人が開放してくれよりました。

近くの救急病院で診てもらったら何の異常もなし
ただの湯あたりやったごたってほっとしました。

年寄の風呂はデイサービスに任せるに限るて思いました。

そのあと食事に行っても食欲旺盛で安心。

夜は博多ぃ戻って「軍師官兵衛」ば楽しみました。

ドラマの時代にはここ筑前、豊前も大内氏、大友氏が領地の奪い合いが続き
地元郷士達も巻きこまれ戦国時代の真っただ中

立花山は大友、宗像は大内
宗像と大友の和議から発した「山田事件」

地元にもいっぱい歴史のお話があります。
コメント (2)

The FURUSATOシリーズ・福岡博多小さな旅・名島今昔物語、

2013-04-04 19:05:46 | 歴史・いにしえの大昔しの事
The FURUSATOシリーズ・福岡博多小さな旅・名島今昔物語、


福岡て言えば平和台にあった「福岡城」が有名ですばってんが
これは関ヶ原以降、筑前に入場した黒田長政によって
築城された城でそれまでは福岡の城は
名島に居ば構えた「名島城」でした.

その時代は筑前守護は「小早川秀秋」です。

1954年小早川隆景が羽柴秀俊(小早川秀秋)ば養子に迎え旧名島城ば
大改修しておさめさせました。

黒田の時代になって名古屋城の石垣やらば利用して
福岡城ば作り上げたそうです。
※訂正名島城の間違いでした。
コメント (1)

聖一国師物語

2012-02-28 13:55:47 | 歴史・いにしえの大昔しの事
 

3月23日(金)24日(土)25日(日)
「博多の恩人 聖一国師物語」が上演されます。

「聖一国師」は博多に大きな影響を与えています。

でも、どうして山笠の起源といわれるのか、どうやって
お饅頭やうどんそばを伝えたのか、わからないことが一杯です。
ここではその疑問に迫ってみます。
『こんなことあったかもしれない!?』と
歴史をいっしょのひも解いて、
博多の恩人の聖一国師をもっと身近に感じてみませんか?

萬松山 承天寺本堂にて
開場18:00 開演18:30

前売り2,000円 当日2,500円 主催「博多よかたい」

コメント (2)

久々、歴史考・・

2012-01-25 00:03:53 | 歴史・いにしえの大昔しの事
おいしゃんがまだ行ったことこの無かとこで
行ってみたいとこのあります。

東北の三代限りの栄華を極めた藤原氏が建立した
奥州平泉「中尊寺 金色堂」

義経が最期ば遂げた地です。

できれば、死ぬまでいっぺん一月ぐらいかけて
京都から熊野、伊勢、長野県諏訪ば経由して岩手まで
ゆっくり時間ばかけて探訪してみたて思うとります。

京都近辺も鞍馬山やら比叡山やらも時間かけて・・・・・

岩手のお隣、お袋の生まれた秋田の地もゆっくり訪れてみたい場所です。

ま一つは「出雲」
これもゆっくり時間ばかけて見て回りたかねぇ・・・

以前の仕事の博多人形の題材でも、
「吉野静」「静のわかれ」やらの題材にもいまだに残る
義経の逃避行・・



ジンギスカンてまでは言わんばってん義経は平泉では死なんで
東北さい逃げ延びた・・ていう説が今に有力です。

※義経は生き延びて大陸に渡りジンギスカンになったていう説もあります。
光秀は生きとって徳川家ば牛耳った、信長ば殺した黒幕は秀吉等々も面白か説です。


その根拠が、平泉に義経の墓の無かて言うことです。

現代歴史学者が見落とすとは、当時の人の信仰心、祟りば恐れる心です。

罪なき冤罪には、必ず祟りば恐れるための施しがしてあるとです。
その代表が「天満宮」
菅原道真がいわれもない左遷の末、日本の端、九州の地で無くなった。
その祟りば恐れて作られたとが現在、今なお残る各地の「天満宮」です。

昔の人は罪なき人ば自分の利益のために死に追いやったとき
必ず「祟り」ば恐れてそれば弔う施設(天満宮しかり)ば建立しとります。

平泉にはその「義経」の墓て言うものがみあたらんてゲナです。

源頼朝は差し出された首ばその辺の川に捨て置いたて言います。
罪なき義経の首なら当然、丁重に弔うはずですばってん・・・・

頼朝は義経の首やあなかことば知っとったとかもしれません。

当然、義経ば頼朝に差し出した藤原氏ば滅亡させたとは
「罪なき冤罪」いいがかりであります。

さきに述べた「金色堂」は全体ば覆う「覆堂(さやどう)」が作られとるて言います。
これは危ない刃ば覆う刀の「さや」て言う意味で「覆う」て書いて「さやどう」て
読まれます。祟りば恐れた頼朝が藤原氏の祟りば恐れるため藤原氏の栄華ば
覆ったて考えられるとです。
祟りば恐れた頼朝によって作られた鎮魂の証かもしれません。

また、金色堂内の清衡、基衡、秀衡の安置の配置についても後から
頼朝によって作られたていう説がありますとです。

北は東北、南は九州まで縦に長い日本

大陸に近い九州博多の歴史ば勉強するにつけて
この日本の歴史の始まりについても勉強したげんたい
面白かもんがあります。

古代、邪馬台国、奴国、出雲、纒向やらのことから
貴族社会から武家への歴史・・・・

戦国もの好きなおいしゃんもちいたその前の時代も面白か題材です。

大河「平清盛」まさに「貴族」から「武家」へ
日本の変換期でありますね。

どっかの市長がいうごとまさにまだ小汚い生活しよった頃の
日本があったとは歴史の事実でっしょうね・・・

ばってん中尊寺に見られるごと
「黄金の国ジパング」て言われるごと世界にとって
魅力的な「ニッポン」て言うことには間違いありまっせん。

今夜も本読みながら寝ることにします。

何回も読み直してわかることのありますけんね・・・

コメント

古(いにしえ)の筑紫野

2010-05-20 22:15:18 | 歴史・いにしえの大昔しの事
博多口、筑紫口は博多駅の出口の呼び名

バッテンこれ見たら博多方面は海までごくわずか
筑紫口方面にぐっと奥まで筑紫平野は広がります。

先日、岩屋城跡から筑紫野一帯ば見渡したけん

こんだ空から見てみた。(グーグル地図)



663年の白村江の戦いで、倭国(後の日本)は新羅・唐連合軍に敗れます。
そこで日本国土に攻めてこられるて思うて
倭国は防備ば固めるため様々な防衛施設ば作りました。

664年、対馬・壱岐・筑紫に防人とのろし台ば設置。
能古の島には今でもコスモス畑の中に
狼煙台跡が有りますね。

大宰府の西方に水城堤ば構築。
今も高速から見たら緑の一直線が残ります。
結局大陸からは攻めてこんかったけん
後の島津との戦いにこれが生きてきます。

海から攻めてくるとば予想して
水際の博多から内陸部、山に囲まれた処に
当事の外務機関である「大宰府」ばおきます。
大宰府の北側の山麓には「大野城」ば築きました。

今考えたら、こげなと作りよう間に攻めてこられたら
て思いますばってん。
戦国時代も、攻めて行ったらそこで城ば築いたりして
悠長やねえ・・て思いますばってん

昔は攻めてくるとも時間のかかってやおいきまっせん。

高速の輸送機関の無かけん

なんにしても時間の流がゆっくりやったとでしょう。

空から見たら筑紫の地理がよ~分かります。。

昔のひとも良~~う考えちゃあね
山の上から見渡して地理ば把握したとでしょうね。
コメント (2)

嗚呼壮烈岩屋城

2010-05-18 11:55:30 | 歴史・いにしえの大昔しの事


太宰府にお水採りに行ったついでに
岩屋山に足ば伸ばしてきました。

太宰府、連歌屋から車でちょっと登ったげんたい
かつての大友氏の筑前の要所
宝満城の支城「岩屋城跡」が有ります。



この看板から少し登ったところが岩屋城本丸跡

吉弘鑑理(あきまさ)の息子鎮理(しげまさ)、後の「高橋紹運」が
島津の大群に攻められ秀吉の援軍ば待つことなく
壮烈に討ち死にした場所であります。

「嗚呼壮烈岩屋城跡」の石碑がぽつんと建っとるだけばってん
ここからの景色は絶景です。



筑紫の要所らしくこの頂からは
玄界灘から博多、筑紫平野の奴国全体が見渡せます。





本丸から少し下ったところに
「高橋紹運の墓」がひっそりと建てられとります。



この墓から見上げると本丸跡が見えました。



太宰府からすぐそば、高速や国道から何気なく見て
通り過ぎる場所やばってんいっぺん行ってみなっせ。

それは絶景の景色です。

筑紫平野全体が見渡せて良か景色です。
コメント