2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。
御香宮神社(ごこうぐうじんじゃ)1
「大手筋商店街」アーケードを東に抜け、京阪電車・伏見桃山駅、近鉄電車・桃山御陵前駅をやり過ごし150mほど歩けば御香宮神社の紅い大鳥居です。この道を真っ直ぐ進めば、明治天皇伏見桃山御陵へ通じています。
御香宮神社は、地元では「ごこうぐうさん」と呼ばれ、子育て、安産にご利益がある神社として古くから親しまれてきた。これは主祭神・神功皇后が、新羅から筑紫へ凱旋のとき、応神天皇を無事出産したことに由来しています。
御香宮神社の表門(重要文化財)です。元和8年(1622)水戸光圀の父・徳川頼房が伏見城の大手門を拝領して寄進したもの。門柱には堂々と「伏見城大手門」の表札が掲げられている。門の扉も頑丈に防御され、お寺の門とは思えません。
門の表側(道路側)の軒下に、四つの蟇股(かえるまた)が彫られている。これは中国の二十四孝の物語を表してしるそうです。
左から
「孟宗(もうそう)」・・・病弱の母が筍を食べたいというので、孟子は雪の中に探しに出ると、寒中にも拘らず彼の孝養に感じ筍が出てきた話
「唐夫人(とうふじん)」・・・唐夫人の曽祖母は歯が無かったので、自らの乳を飲ませて天寿を全うさせた話。
「郭巨(かっきょ)」・・・郭巨は母に孝行する為に子供を殺して埋めようとした所から黄金の釜が出土、子供を殺さず親孝行が出来た話。
「楊香(ようこう)」・・・楊香と云う名の娘が猛虎より父を救った話。
境内は自由に見学・参拝できます。
御香宮神社の創建については二説あります。社伝によれば、平安時代の貞観4年(862)、境内より香りの良い水が湧き出し、その水を飲むと病は治り、願い事がかなったという。時の第56代・清和天皇は社殿修復の勅を出し、「御香宮」と名のらせたという。この水は、現在でも「御香水(ごこうすい)」として、本殿横から湧き出している。
もう一つの説は、九州筑紫の香椎宮(かしいのみや)の神(神功皇后)を、山城国の御諸(みもろ)神社に勧請したというもの。「御香椎宮」と呼ばれていたが、後に「椎」を略して「御香宮」になったという。
その後、応仁の乱などの兵乱や天災によって荒廃していたが、豊臣秀吉の伏見城築城の際に、鬼門除けの神として城内に勧請した。それが現在、「古御香宮」として伏見丘陵の北側に残っている。
徳川家康が天下を取ると、慶長10年(1605)元の現在地に戻され本殿が造営された。これを機に徳川家とゆかりの深い神社となる。本殿西側には、徳川家康を祀った「東照宮」が建てられている。しかし、皮肉にも幕末の鳥羽・伏見の戦い(1868年)では、会津藩兵や新選組などの幕府軍がこもっていた伏見奉行所に、砲弾を打ち込んだ討幕派・薩摩藩の陣地となる。伏見奉行所から150m程の距離で、砲弾が的確に命中することから選ばれた。この砲撃で伏見奉行所は灰燼に帰したが、幸いにも御香宮神社は鳥羽・伏見の戦いでは戦災に遭わず、現在の姿が残されている。
表門を入り、参道を真っ直ぐ進むと色彩鮮やかな拝殿(重要文化財)です。この拝殿は寛永2年(1625)、紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣によって寄進されたもので、伏見城の車寄(くるまよせ)だったのではないかといわれている。正面中央に通路がある割拝殿で、本瓦葺屋根に、正面軒唐破風を持つ入母屋造り。
この拝殿で、何といっても目に付くのが正面軒唐破風に描かれた極彩色彫刻。平成9年(1997)、半解体修理が終り往年の鮮やかな色彩が復元された。
中央の唐破風には、徳川家の三ツ葉葵の定紋が。上部の棟瓦の真ん中にも見られます。
豊臣家の五七桐紋(現、日本国の紋で500円硬貨)や皇室の菊の御紋を脇に押しのけ、中央に燦然と輝いています。
慶長10年(1605)徳川家康の命により、、京都所司代・板倉勝重が普請奉行となり建立。檜皮葺の屋根を持つ五間社流造り。国の重要文化財です。主祭神は神功皇后で、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀っている。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集めています。
拝殿同様、本殿にも極彩色の彫刻が施されている。金鶏や銀鶏、孔雀、象、虎などの躍動する彫像です。平成2年(1990)からの修理によって極彩色の彫刻が塗り直され、いっそう鮮やかに蘇ってきた。
御香宮神社 2
本殿前の左側に、今も湧き出しているという「御香水(ごこうすい)」の水汲み場があり、柄杓が置かれています。ただし「この水は濾過されていませんので飲まないで下さい」と注意書きがぶら下がっているので、手を清めるだけのもののようです。
神社名の由来にもなった「御香水」は、明治時代に一度枯れてしまいましたが、昭和57年(1982)に再掘削し、地下150mからくみ上げ復活した。伏見の七名水に数えられ、昭和60年(1985)環境庁の「名水百選」に認定されました。
参道右側に、北野天満宮・八坂神社の絵馬堂とともに京都三大絵馬堂とされる絵馬堂がある。高床式の建物の側面に、大きな絵馬が掲げられている。絵はかすれ消えかけているので、よく判らない。
「算額」と呼ばれ、数学(和算)の問題を描いた絵馬もあるそうです。八坂神社に答えの算額があるとか。
拝殿前右横に「伏見の戦跡」と刻まれた碑があります。慶応4年(1868)正月に始まった鳥羽伏見の戦いで、この御香宮神社もその舞台となった。官軍の薩摩藩800人が駐屯し、4門の大砲で200mも離れていない新選組の駐屯地・伏見奉行所に砲弾を撃ち込んだ。砲弾は奉行所を炎上させ、激しい市街戦となる。結局、錦の御旗を掲げた官軍が有利になり、幕府軍は敗退し、御香宮神社の社殿は幸い戦火を免れている。
”世界史上まことに重大な意義”も?なのだが、なぜ佐藤栄作なのか?よくわからない。多くの犠牲者をだした世界大戦の遠因となった天皇制国家実現への一戦だった。戦犯の弟・佐藤栄作は悔悟の気持ちをこめてこの碑に対峙したのでしょうか?
表門を入った直ぐ右横に菅原道真を祀った桃山天満宮がある。その境内には、石垣だったのでしょうか、旧伏見城の残石が無造作に積み上げられている。明治天皇陵墓を築くのに邪魔だったので、近くの神社内に移し(捨てる)たのでしょう。
参道脇にも、石垣と思われる大石が転がっています。穴があいていたり、線条が見えたりと、歴史を感じさせてくるゴロ石です。
御香宮神社を出て、駅方向に歩いていると、歩道上に奇妙な建物がある。それも歩道を半分以上占拠してだ。交番?、休憩所?、観光案内所?・・・トイレでした。伏見は、おじさん、おばさんに優しい町です。
伏見奉行所跡
近鉄電車「桃山御陵前2」駅南側の筋を200mほど行くと、京都市営桃陵団地が建つ。その西入口の一角に伏見奉行所跡の碑が建っている。昭和43年(1968)に、京都市によって建立された碑です。現在、伏見奉行所としての遺構はほとんど残っておらず、この高さ1mほどの石碑が伏見奉行所跡を示す唯一のものです。なお、小堀遠州が手がけた奉行所の庭園の一部が、昭和32年御香宮神社に移され再現されている。
伏見城廃城後に、代わって伏見を統治する拠点になったのが伏見奉行所です。寛文6(1666)年水野石見守忠貞(1597~1670)が初代奉行となる。伏見市街と周辺8カ村を支配すると同時に、京都への入口にあたることから西国大名の監視や港の監視などの役割を持っていた。慶応3(1867)年、王政復古後に伏見奉行所は廃止され、京都町奉行所に吸収される。
慶応4(1868)年正月3日の鳥羽伏見戦では,幕府直属武士、会津藩や新選組など旧幕府軍1500人がここ伏見奉行所に立てこもって、向かいの御香宮に陣を張った薩摩藩将兵800人の官軍と対峙した。しかし新式の洋式銃と大砲を持つ薩摩藩には勝てず、砲火を浴び奉行所は焼け落ちた。翌日、旧幕府軍は伏見から撤退している。
明治期から終戦まで、跡地は陸軍伏見工兵16大隊の兵営となり、戦後は進駐軍が接収し駐屯地とした。1958年に敷地は日本に返還され、大規模団地・桃陵団地が建てられた。
伏見奉行所跡の碑の反対側には「伏見工兵第十六大隊跡」と刻まれた石碑が置かれていました。
墨染寺(ぼくぜんじ)
墨染寺(ぼくぜんじ)は、京阪電車・墨染駅を降り西に歩き、琵琶湖疏水に架かる橋を渡ると見えてくる。狭い車道の直ぐ脇で、住宅街の狭い場所なので見逃しやすい。
入口には「墨染桜寺」の石柱も建つ。山号は深草山という日蓮宗の寺。本尊は十界大曼荼羅。
拝観時間:午前8時~17時、境内無料
このお寺が有名なのは、地名でもあり寺名でもある「墨染桜(すみぞめざくら)」に因む。それは次のような伝説からきている。
平安時代の891年、時の太政大臣・藤原基経が亡くなり、野辺だったこの地に葬られた。それを悲しんだ平安歌人・上野岑雄(かみつけのみねお)は友の死を悼み、桜に向かい次の歌を詠んだ。
「深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け」(『古今和歌集』)
すると、桜の花が墨染色に染まったという。秀吉もこの話に感銘し、度々訪れ寺の復興に力添えしている。
墨染桜は狭い境内の一箇所に、柵で囲われ数本あるだけです。「三代目」とある。辞書によると「里桜の一品種。花は小さく単弁で細く白色。茎・葉ともに青く、薄墨のようである」。「墨染衣」といわれる僧の鼠色の衣の色をイメージすればよいとか。実際に見てみたいですね。
「墨染井」と刻まれた小さな手洗鉢が置かれている。「願主 中村歌右衛門」とあります。江戸時代の歌舞伎役者・二代目中村歌右衛門が、1768年に寄進したものだそうです。墨染桜のエピソードや深草少将の悲恋話が歌舞伎芝居で大当たりしたことによるものとか。
藤森神社(ふじのもりじんじゃ)1
京阪電車・墨染駅から北東へ10分位歩けば藤森神社です。神社の歴史についてWikipediaには
「創建年代や祭神には諸説ある。社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であったが、その地に稲荷神が祀られることになったため当社は現在地に遷座したと言われている。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。」とある。
本殿に三つの座(中座、東座、西座)が設けられているように、周辺にあった三つの神社が統合されてできた神社。そのため多くの神が祀られている。
神社入口にある「勝運 馬の社」の朱文字がひと際目に付く。武神が多く祀られ、駆馬神事も有名なことから、馬と勝負事の神社として知られており、競馬関係者や競馬ファンの信仰を集めているそうです。
石鳥居をくぐると、幅広の砂道が150mほど本殿に向って真っ直ぐ伸びている。「人・馬」が通れる参道です。
藤森神社で名高いのは、端午の節句(菖蒲の節句)である毎年5月5日に行われる「藤森祭」(別名「深草祭」)。その藤森祭のハイライトが、この参道を駆け抜ける駆馬神事(かけうましんじ)。7種類の馬上妙技が披露されます。騎乗で伝達する「一字書き」、矢の中を駆ける「手綱潜り」、逆さになり落馬に見せかける「藤下がり」、逆立ちにより敵を嘲る「逆立ち」、前後逆に跨り敵の動静を見る「逆乗り」、矢を払い駆ける「矢払い」、馬に姿を隠す「横乗り」など曲馬(くせうま)の技が披露されるという。下賀茂神社(京都)、春日神社(奈良)の流鏑馬神事は見たことあるが、ここの駆馬神事も是非見てみたいものです。昭和58年(1983)に京都市の無形民俗文化財に指定されるた。
参道の左脇に紫陽花苑(あじさいえん)があります。今は鮮やかさは無いですが、6月の開花期には約40種類・3500株が咲き、多くの人出で賑わうという。「紫陽花苑」の公開は6月10日~7月上旬。開苑時間は9時~17時。入苑料は一般300円ほか(第1・第2紫陽花苑共通券)。期間中の土日には蹴鞠や太鼓、雅楽などの奉納行事があり、6月15日の「紫陽花祭」には、アジサイの献花、献茶、神楽・豊栄の舞の奉納などの神事が行われるそうです。本殿裏には、規模は小さいですが第2紫陽花苑がある。
馬と勝負の藤森神社だけあって絵馬舎もあります。かっては拝殿だった建物だそうです。古い絵馬もあるが、多くは現代の競走馬。内部はベンチが置かれ休憩所になっている。おじさん達が集まり競馬談義に興じていました。
左:トウカイテイオー、右:ナリタブライアン とある。
鎧兜や刀剣・鉄砲・弓矢・馬具など、多くの武具類が展示されている。鳥羽伏見の戦いで使われた薩摩藩の「先込式大砲」もあった(大砲にしては小さかったが)。また「馬の博物館」といわれるだけあって、日本、外国の馬の玩具、多数の小さな馬のミニチュア、武豊などの乗馬写真など多数展示している。
午前9時~午後5時まで、入館無料。
藤森神社(ふじのもりじんじゃ)2
落ち着いた割拝殿。拝殿と奥にある本殿は、正徳2(1712)年に後水尾天皇の遺勅によって宮中にあった建物を移したものです。
ちなみに、それ以前に使われていた拝殿は今は絵馬舎になっています。
本殿は外見では判らないが、東・中・西殿の三つに分かれている。
中央部の中殿には、素盞鳴命(スサノヲノミコト)を主祭神に、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の7柱が祀られています。社伝によれば「神功皇后が摂政3年(203)・三韓征伐を終え新羅から凱旋した際に、纛旗(とうき/軍で用いる大旗)を山城国深草の里・藤森の地に立て、兵具を納めて塚を作り、祭祀を行って神々をお祀りした」とし、これが藤森神社の発祥だそうです。
東殿には舎人親王が祀られている。元々は藤尾の地(現在の伏見稲荷大社がある場所)の藤尾社に祀られていた。室町時代の永享10年(1438)、将軍・足利義教は稲荷山の山頂にあった祠を、山麓の藤尾に移動させ稲荷社とした。そのため藤尾社は藤森神社へ遷されることにる。今でも、5月に行われる「藤森祭」の時には、氏子さんが神輿を担いで伏見稲荷大社の境内にある藤尾社の祠まで出向くという。
西殿には、崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王が祀られている。いずれの方も冤罪・謀略などによって非業の死を遂げた人達です。その怨霊を鎮めるために御霊社が建てられた。元は、東山の塚本の地にあったが文明2年(1470)に藤森神社に合祀されたもの。
本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所(賢所、かしこどころ)の建物。屋根には皇室を示す菊の御紋が輝いている。国の重要文化財です。
本殿の東脇に、小さな社があり、注連縄の張られた「いちいの木」の古株が据えられている。「御旗塚」と呼ばれ、ここに神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納たと伝わる。
傍の説明板には
「神功皇后が、軍中の大旗をたてた所で、当社発祥の場所である。このいちいの木は”いちのきさん”として親しまれ、ここに参拝すると腰痛が治るといわれ、幕末の近藤勇も参拝し治したと伝えられている」とある。
「伏見 名水10ケ所」の一つ「不二の水(ふじのみず)」が、苔むした岩から湧き出している。「二つとないおいしい水」という意味から「不二の水」と呼ばれる。戦国時代から勝ち運を授ける水として名高い。地元の方でしょうか、ペットボトルを持って汲みに来られている人も。
詳しくはホームページを