山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

鳥羽・伏見の旧跡巡り 3

2017年11月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 竜馬通り商店街  


寺田屋から一本東側の通り、蓬莱橋からは前に真っ直ぐな通りです。その名も「竜馬通り商店街」。他の通りとちょっと違った雰囲気をもった通りで、小ぎれいな土産物屋、お食事処が並ぶ。アーケードのある大手前筋商店街までつながっています。
この通りには、龍馬に関連するグッズ類や絵写真などの小物を置いている「龍馬館」や、黄桜の酒場や展示場、工房からなる「黄桜カッパカントリー」がある。ここの展示場には伏見十名水の一つ「伏水(ふしみず)」が湧いていた。

 西岸寺(さいがんじ)・電気鉄道発祥地  



竜馬通り商店街の中ほどで、西側の路地に入る。すぐ油懸地蔵尊で名高い西岸寺に出会う。「油懸地蔵尊」と書かれた真っ赤な幟がはためいているのですぐ分かります。町名も下油掛町。

天正18年(1590)僧・雲海(うんかい)による創建。 油の行商人が、ここの地蔵尊に油を懸け大金持ちになったということから大いに信仰を集め、油懸けして祈願する人が増えたという。
現在でも、毎週金曜日の13時から15時の間だけ油懸祈願する事が出来るそうです。通常は扉が閉められ、お地蔵さんを拝見できません。
案内板からの紹介です。油懸地蔵は高さ1.7m、幅80cmの花崗岩の表面に彫られた像高約1.27mの石仏で、お地蔵さんの立ち姿が浮き出るように彫刻され、右手に錫枝、左手に宝珠を持っている。なで肩、大きく胸の開いた彫法で縁の部分の大きな像ということから鎌倉時代の石仏と考えられています。銘文が刻まれているようですが、昔から油を掛けて祈願され、今では油が2cmも厚く積り黒光りしているので調べようがない、ということです。

西岸寺を西に行った通りの角に「我国に於ける 電気鉄道事業発祥の地」という石碑が建つ。竹田街道と油掛通の交差点北東角です。側面には「明治廿八年二月一日京都電気鉄道株式会社は京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線) 南側から伏見町油掛通まで電気鉄道を我国において初めて開業した」と書かれている。昭和45年2月1日に鉄道友の会京都支部が建立、とある。

蒸気機関車の東海道線はすでにあったが、電気で走る鉄道はここが最初です。
琵琶湖疎水を利用した水力発電所が明治23年に完成。その電力を利用した電車を走らす京都電気鉄道が3年後に設立される。明治28年(1895)4月京都岡崎公園一帯で開かれる第四回内国勧業博覧会への客輸送のため、約6キロの伏見線(下京区東洞院通東塩小路~伏見町油掛通)が明治28年(1895)2月1日に開通。日本最初のチンチン電車です。その後は、京都市電に買収され、長らく京都市民に親しまれてきたが、昭和45年(1970)に廃線となりました。

石碑の建つ角は、和菓子の老舗「駿河屋」。天明元年(1781)創業のお店。電車のイラスト入りの「電車みち」というセンベイも並んでいる。

 鳥羽伏見の戦いの跡  



寺田屋に近い京橋の傍に石碑「伏見口の戦い激戦地」が建つ。江戸時代には三十石船、十石舟、高瀬舟などが行き交い、多くの船宿、旅籠で賑わっていたここ南浜周辺は、新政府軍と幕府軍が激突した幕末の鳥羽・伏見の戦い(慶応4年(1868)1月)の市街戦により街中の多くの家屋が大きな被害を受けた。寺田屋も例外ではありませんでした。

京橋から100mほど南へ歩くと、右側の車道脇に「伏見長州藩邸跡」石碑が建つ。

鳥せい本店のある通りから一筋西に入った路地の空き地に「伏見土佐藩邸跡」の石碑が建っていました。横は「月桂冠情報センター」の建物です。この筋を南へ進むとすぐ月桂冠の大倉家本宅や伏見夢百衆です。

なお、伏見薩摩藩邸は大黒寺の西側で、濠川の傍にあった。寺田屋で負傷した坂本龍馬もこの伏見薩摩藩邸に救出され保護された。その後の鳥羽・伏見の戦いで、京橋から伏見へ入った会津藩の砲撃により焼失してしまう。現在何も残っておらず、跡地は月桂冠関連会社の松山酒造となっているという。碑も置かれていないようです。

鳥せい本店から北の方向(大手筋商店街のアーケードの方向)を見ると、突き当たりに寺門が見えます。ここがかっての東本願寺伏見別院で、「伏見御堂」と呼ばれた。
幕末の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍に組する会津藩の駐屯地となった場所です。この戦いで損傷を受けたらしく山門だけが見えます。現在は伏見幼児園となっている。

 鳥せい本店  



月桂冠本社ビルの前を北へ(大手筋商店街アーケードの方向)歩く。突き当たりが伏見御堂になるのですが、その手前に伏見の観光案内に必ずでてくるお店「鳥せい本店」があります(上油掛町186)。お食事処なのですが、お店の角の湧き水で有名。「白菊水(しらぎくすい)」と呼ばれ、日本名水百選に選ばれ、そして伏見十名水の一つでもある。創業延宝5年(1677)の伏見の清酒「神聖」の酒造りに使われてきた。
「白菊水」の名前の由来は、当地・久米の里の仙人・天太玉命(あめのふとたまのみこと)翁の伝説から。白菊を育てていた翁は、日照りが続き困っていた村人に対して「この地に日照りが続き、稲が枯れるようなとき、私の愛でた白菊の露の一雫より清水が湧き出す」と言って、手に持っていた白菊を振って清水を湧き出させたといわれている。

白菊水の水汲み場には、地元の方でしょうか数人が容器をもって並んでいました。道路脇にあるので、誰でも気軽に利用できるようです。車を駐車して・・・、ということも。伏見十名水の中では一番の人気だそうです。

延宝5年(1677)創業の伏見の清酒「神聖」の酒蔵の一棟を改造したお店。手ごろなお値段の鶏料理のお食事処。お味のほうも”おてごろ”でした。また伏見の蔵元のお酒も楽しめる。まだお昼なので嗜みませんでしたが。
営業時間は、平日(11:30~23:00)、日曜・祝日(11:00~23:00)
定休日:月曜日(祝日除く)





 伏見大手筋商店街  



伏見の生活の中心、「大手筋商店街」アーケードを歩きます。名前のとおりかっての伏見城大手門に通ずる道です。現在は、アーケードの東出口に京阪電車・伏見桃山駅、近鉄電車・桃山御陵前駅があり、そこから東へ行くと明治天皇伏見桃山陵です。
約400m続くアーケードは生活感に溢れ、寺田屋周辺の雰囲気とは一変します。

大手筋商店街の中ほど、みずほ銀行の角の路地を少し北に行くと源空寺という小さなお寺がある。
目に付くのは、入って直ぐの二層からなる立派な山門。二階に紅い欄干をもつこの門は、お寺の門というイメージはありません。
この山門は伏見城廃城のときに移築されたもの。貴重な旧伏見城の遺構です。山門の階下には、寺宝の「朝日大黒天」が祀られている。この大黒天像は、元伏見城巽櫓にあった豊臣秀吉の持念仏だったそうです。

アーケードの東の出口手前に、名物のからくり時計があります。近畿労働金庫・伏見支店の二階です。通常は扉が閉まっているのですが、正午、1時、2時・・・と1時間ごとに扉が開き、からくり人形が登場します。上段から伏見にゆかりの深い人物が次々と姿を見せる。
まずゼンジー北京と?。
二番目は、森の石松と五条橋の牛若丸、伏見とどう関るのでしょうか?
三番目は、秀吉、伏見城と、淀殿(北政所?、篤姫?)
四段目は、坂本龍馬、近藤勇と酒造り職人
全員登場し、少しだけ演技し閉じられていきます。全上演時間は4分くらいです。

からくり時計のある近畿労働金庫・伏見支店の東角に「此付近伏見銀座跡」の石碑が建てられている。昭和45年石碑建立。地名も「伏見区両替町三丁目」。

関ケ原戦に勝利した徳川家康は、慶長6(1601)年5月通用銀の全国統一を図るため、伏見のこの地に初めて銀座を設け、四町にわたって会所や座人屋敷が置かれた。その後、伏見銀座は廃止となり京都へ移され、さらに江戸や大阪へと広がる。ここが全国各地の「銀座」の発祥地なのです。


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