山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

鳥羽・伏見の旧跡巡り 2

2017年11月13日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 寺田屋 1 (薩摩藩の寺田屋騒動)  



寺田屋は伏見の船宿。龍馬とお龍との出会いの場所としても有名で、伏見の観光名所の中心となっている。
寺田村の百姓・伊助が伏見京橋近くに出て、慶長2年(1597)に創業の船宿で、「寺田屋」の名は出身地の寺田村に由来する。幕末の二つの出来事で歴史に名を残しています。

寺田屋は鳥羽伏見の戦(慶応4年、1868年)で、この一帯は激戦地となり罹災し、焼失した。現在庭園になっている場所が、かつての建物があった所。現在の寺田屋の建物は旧家屋を模して昭和30年代に再建されたもの。一階、二階で坂本龍馬に関する多くの遺物・資料が展示されている。、現在は旅館と史跡博物館になっています。備考 宿泊6,500円(要予約)現在でも旅館として営業しています。現在でも旅館として営業しています。要予約ですが、一泊6,500円(【電話番号】075-622-0243)。
開館時間 10:00~15:40まで受付 16:00営業終了、大人400円、月曜不定休あり

入口に建つ「史蹟 寺田屋」の石柱。西面には「坂本龍馬先生遭難の趾」が、東面には「薩藩九烈士殉難の趾」が、北面には「昭和三十六年百年祭記念 第十四代当主安達清之建」と刻まれています。
Wikipediaには「大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。」とある。

左は立て札「寺田屋騒動址」、右は庭園にある「倒幕派薩摩藩士の石碑」
寺田屋は、薩摩藩の内紛騒動と坂本龍馬襲撃の場所として歴史に名を残す。現在の観光地化された「寺田屋」は坂本龍馬襲撃一色で、薩摩藩の内紛騒動を示すものは、入口の立て札「寺田屋騒動址」と庭にある「寺田屋騒動記念碑」しか見当たりませんでした。しかし歴史的には、はるかに薩摩藩の内紛騒動の方が大きな事件です。有名な坂本龍馬を売りにして観光客を集めています。薩摩藩の内紛騒動では人が集まらないのでしょう・・・。

幕末の船宿・寺田屋は、薩摩藩の定宿でもあり、密かに倒幕の熱い談義が繰り広げられていた。そこに薩摩藩の内紛による薩摩藩志士粛正事件が起きたのです。
立て札「寺田屋騒動址」は、文字がかすれ読みにくいので内容を紹介します。
「文久2年(1862)4月、尊皇攘夷派の先峰であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。  当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光(ひさみつ)を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王討幕を主張する急進派との二派があったが、久光は急進派の動きを押えようとして、兵千余名を率い京都へ入洛せんとした。これを知った有馬新七ら30余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日、関白九条尚忠(なおただ)、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。これを知った久光は藩士奈良原ら8名を派遣し、新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負い、翌日切腹した。 後の広場にある殉難碑は明治27年(1894)の建立で、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆になる篆額(てんがく)を掲げる。伏見区南浜町」
wikipediaは斬り合いの生々しい様子を記述している。
「奈良原は説得を続けたが、君命に従わぬのかと激高する道島が「上意」と叫んで抜打ちで田中謙助の頭部を斬り、こうして“同志討ち”の激しい斬り合いが始まった。
斬られた田中謙助は眼球が飛び出たまま昏倒。山口も抜刀して背後から柴山愛次郎を斬り捨て、これらを見た有馬新七は激高して道島に、橋口壮介は奈良橋に斬りかかった。有馬は剣の達人であるのだが、渡り合っていて刀が折れたので、道島に掴みかかって組み合い壁に押さえつけた。近くにいた橋口吉之丞は狼狽してか加勢できずにいたので、有馬が「我がごと刺せ[1]」と命じ、橋口吉之丞はその言葉に従って有馬の背中から道島と共々貫いて両名を絶命させた。他方、橋口壮介は奮戦していたが、奈良橋に肩から胸まで斬られて倒れ、最期に水を所望して飲んだ後で息絶えた。森山新五左衛門はちょうど厠に降りてきたところにこのような斬り合いが始まり、斬られて重傷を負った。大山格之助は梯子下で待っていて、騒動を聞いて降りてきた弟子丸龍助を刺殺し、さらに降りてきた橋口伝蔵の足を払った。橋口伝蔵は立ち上がって刀を振るい、鈴木勇右衛門の耳を切り落としたが、鈴木昌之助に刺されて絶命した。そこにまた降りてきた西田直五郎を森岡が槍で突き、西田は転がり落ちたが、刀を振るって森岡と相打ちのような形で息絶えた。」

事件後薩摩藩は迷惑をかけたとして寺田屋に、家屋や家財の修復費や、藩内部の斬り合いの口止め料として多額のお金を支払ったという。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かった。

騒動の後、伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛とその手代数名が駆けつけ、遺体を白木綿で包み700~800m北にある薩摩藩の菩提寺・大黒寺に葬ったとされています。大手筋商店街を抜け400mほど北にある大黒寺を訪ねてみました。訪れると人が集まっているので何事か、と思ったがTVロケだったようです。丁度終わった後だったので墓地に入れました。拝観時間:6時~18時 境内自由

本堂には、秘仏大黒天が金張りのお厨子の中に安置されている。江戸時代の初め、近くに薩摩藩邸が置かれた。元は「円通山長福寺」という寺名だったが、薩摩藩の守り本尊「出生大黒天」と同じ大黒天だったので、この寺を薩摩藩の祈願所とし「大黒寺」と改められた。 ”薩摩寺”とも呼ばれている。


本堂の脇を奥へ入ると墓地です。墓地に入るとすぐ寺田屋騒動で犠牲となった薩摩九烈士の墓が並んでいる。一番右端が有馬新七の墓。手前の墓碑銘(復元)は、西郷隆盛が泣きながら亡き同士たちの為に書いたものとか。






大黒寺境内には、伏見10名水の一つがある。平成13年に井戸を掘ったところ湧き出たという。酒処の伏見の伏流水と同じ水系なので、清らかな水。そこで財福の神・大黒天にちなんで「金運清水(きんうんしみず)」と命名された。

大黒寺とは道を挟んだ真向かいに、なんとも有りがたい「金札宮」という名前の神社がある。金運清水といい金札宮といい、この近辺にお住まいの人は、さぞかしお金に不自由しておられないことでしょう。説明板を読むと、金札とはお金のことでなく、「~の神を祀るように」と金文字で書かれた紙のようでした。


 寺田屋 2(坂本龍馬襲撃)  



寺田屋の1階は坂本龍馬関連の展示が中心。坂本龍馬に関係する小説や書籍が並び、写真・メモ・手紙などが展示されている。
船宿・寺田屋は坂本龍馬(1835~67)が定宿していたところでもある。慶応2年(1866)1月24日、当時32歳であった土佐藩の下級武士・坂本龍馬は、行動を共にしていた長州藩士・三吉慎蔵とのちに妻となるおりょうを待たせている寺田屋に真夜中に入った。龍馬と三吉慎蔵は飲み始め、おりゅうは1階の風呂に入ります。

坂本龍馬の動きに目を付けていた京都所司代・伏見奉行の林肥後守忠交と幕吏約30人は、午前2時頃寺田屋とその周囲を包囲します。入浴中のおりょうは物々しい足音に気づいて、窓から外を見てびっくり、裸のまま裏階段を駆け上がり2階にいた龍馬に危急を知らせた。

捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。龍馬は高杉晋作から上海みやげに貰った拳銃で応戦
、三吉は手槍を用いて防戦して、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。龍馬は手の指を負傷し装弾ができなくなる。三吉が必死に槍で応戦しながら追っ手をかわし、隣家から裏通りに逃れた。路地を500mほど走って濠川に達し、水門を経て入り込んだ屋敷裏手の材木納屋に隠れた。(おりゅうはどうなったのでしょうか?)

寺田屋の2階には、坂本龍馬が愛用していたと云われる「梅の間」を再現され、龍馬ゆかりの品々が展示されている。騒動が起こった当日の「刀傷」や龍馬が放ったとされるピストルの弾のメリ込んだ「弾痕」が残されています。刀傷は柱に残っており、弾痕も室内に数箇所あります。


寺田屋は、現在でも旅館として営業しており、龍馬愛用の「梅の間」以外の「松・竹・月・花・雲」各部屋に素泊まりできるようです。料金は6500円(朝食付きは別途500円)で、予約が必要。詳細は、TEL:(075)622-0252へ。

この庭に、焼失前の建物があった。現在、「薩摩九烈士碑」や龍馬像が建っている。何故か「坂本龍馬の碑」が寝転がっている。
寺田屋の女将・お登瀬さんは神様になられたようです。お登瀬は18歳の時に、寺田屋6代目伊助に嫁ぐ。放蕩者の夫に代わり、寺田屋を取り仕切っていた。放蕩すぎて夫・伊助は早死にしてしまう。その後は寺田屋の女将として船宿を守り、幕府から目をつけられていた尊王派の志士達を匿ったり陰から支えました。坂本龍馬もその中の一人だった。

ところで、寺田屋の建物は鳥羽伏見の戦(慶応4年、1868年)で焼失してしまい、刀痕、弾痕、お風呂など残っているはずがないのだが・・・?。
(wikipedia)「現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。平成20年(2008年)になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した」ようです。
龍馬と三吉が遁れた材木小屋は、寺田屋の北西300mほどの位置で、濠川に架かる大手橋の脇です。現在、大手橋の西詰めに石碑が建てられています。

材木小屋に遁れた二人は、その後どうなったのでしょうか?。
Wikipedia「三吉は切腹しようとしたが龍馬に止められて、伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。
翌日、薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を受けたが、拒否した。
龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。このお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている。」
翌年、京都に戻った龍馬は河原町の近江屋で密談中に京都見廻組に急襲され、33歳の人生を終えた。「近江屋事件」です。

なお、伏見の薩摩藩邸は大黒寺の西側で、濠川の傍にあった。現在は月桂冠関連会社の松山酒造となっている。

 寺田屋浜  



寺田屋の南側の川沿いには、かって三十石船などの船着き場があった。当時は川幅も広く、多くの船が往来し、たくさんの船宿が軒を連ねて賑わっていたそうです。大倉酒造の旧本社から西側にあたる南浜の一帯は旅客でにぎわい、船宿が軒を連ねていた。旅客だけでなく米や酒、薪などの物資も往来し、浜辺では運送業者の馬借が積荷を取り扱っていた。

現在、その場所は「寺田屋浜」として復原され、小さな公園となっている。西側の京橋から眺めた寺田屋浜で、向こうの橋は蓬莱橋。川幅も小さく、浜のイメージは全くありません。観光客を乗せ十石舟が行き来しているのどかな川となっています。数人の釣り人がいるだけで、観光客はここまで降りてきません。春と秋の特定日だけ運航される観光遊覧船・三十石船の発着場所でもある。
ここ寺田屋浜が一番盛り上がるのは、毎年夏に夕方から夜にかけて行われる行事「伏見万灯流し」の時です。鳥羽伏見に戦いで亡くなった方を慰霊するために2004年から始められました。この浜から数百の灯ろうが流され、京都でも名高い夏の風物詩となっている。

この公園に「竜馬と龍、愛の旅路」と名付けられた銅像が置かれています。ご両人のこの浜からの旅立ちは「日本初の新婚旅行」とされていますが、翌年、龍馬は京都・近江屋で33年の生涯を終えます。お龍さんはその後どうなったのでしょう・・・?。



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