2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ
鞍馬寺・本殿金堂
最後の石段を登りきると、本殿金堂前の広場に出ます。本殿金堂は、昭和20年(1945)に焼失し昭和46年(1971)に再建され、一重、入母屋造、銅板葺の建物です。内々陣には、中央に毘沙門天像、右手に千手観音菩薩像、左手に護法魔王尊像の尊天(三本尊)が祀られています。これは秘仏で、厨子の前に立つのは「お前立」。本尊の御開帳は60年毎の丙寅の年です(次は2046年?)。
鞍馬寺公式サイトに鞍馬寺の起源について「『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763)の高弟・鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀る草庵を結びました。
桓武天皇が長岡京から平安京に遷都してから2年後の延暦15年 (796) 造東寺長官、藤原伊勢人が観世音を奉安する一宇の建立を念願し、夢告と白馬の援けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があって毘沙門天が安置されていました。そこで、「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」という夢告が再びあったので、伽藍をととのえ、毘沙門天を奉安、 後に千手観音を造像して併せ祀りました。」とあります。
宝亀元年(770)寅の月、寅の日、寅の刻に、鑑禎(がんてい)上人が毘沙門天に助けられた。鑑禎上人は草庵に毘沙門天の像を祀ったのが寺の起源とされる。また寅は神使として大切にされています。
平安中期以降、京都の北方守護の寺として信仰を集め参詣が相次ぎます。『枕草子』の清少納言や『更級日記』の菅原孝標の女、紫式部などの女流文学者も来山し、鞍馬寺の様子を描写している。そして平安末期には源義経(幼名牛若丸)が少年期を過ごす。戦国時代になると、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康などの武将がしきりに戦勝祈願を行い、豊臣秀頼が由岐神社拝殿を再建しています。
鞍馬寺の伽藍は、文化9年(1812)の大火災や、昭和20年(1945)の本殿焼失などで失った。現在見られる堂宇は近年に建立されたものです。しかし、仏像などの文化財の多くは無事で、現存しているそうです。
本殿金堂前の広場。紅葉の紅色は別にして、紅色が目立ち、神社のように錯覚する。よく考えたら”本殿金堂”というのも不思議なものだ。本殿は神社の、金堂はお寺の建物を指すのが一般的。それをあえて”本殿金堂”と呼ぶのは、神と仏を統一しようとする鞍馬弘教の野心なのでしょうか。
現在の鞍馬寺で特異なのはその信仰形態です。
鞍馬山は、古くから古神道、陰陽道、修験道などの山岳宗教の山だった。8世紀末に鞍馬寺が創建され真言宗寺院として信仰を集めていたが、12世紀からは天台宗に改宗する。ところが戦後の昭和22年(1947)、住職・信楽香雲はヨーロッパの神智学の影響を受け、多様な信仰を統一して「鞍馬弘教」と称して独立する。現在、鞍馬寺は鞍馬弘教の総本山となっている。
以下は鞍馬寺公式サイトによるものです。
鞍馬山の信仰は「尊天信仰」だという。尊天とは、すべての生命を生かし存在させる宇宙エネルギーで、真理そのもの。その働きは愛と光と力になって表れる。千手観音菩薩は「愛」の象徴「月輪の精霊」、毘沙門天は「光」の象徴「太陽の精霊」、護法魔王尊は「力」の象徴「大地(地球)の霊王」だそうです。この三身を一体として「尊天」と称するという。こうして鞍馬寺は、毘沙門天、千手観音、護法魔王尊を三位一体の「尊天」と呼び、本尊として祀っている。
神智学とは何か?。興味ある人はWikipediaの詳しい解説をどうぞ。私は、チンプンカンプンでさっぱり理解できない。ただ注目したのは、幸福の科学、オウム真理教、阿含宗などの日本の新宗教にも隠然たる影響を与えたという。「オウム真理教の世界観・身体観は、用語だけでなくその構えや骨格において、〈神智学〉の強い影響がある」と書かれています。
鞍馬寺の鞍馬弘教を、そうしたオカルト宗教と同列と思いたくないが、それにしても何か違和感を覚えます。九十九折参道にあった「愛と光と力の像「いのち」」も、鞍馬弘教の思想を表現したものだったようです。鞍馬山(鞍馬寺)は、普遍的な真理を追求する哲学の場であるより、天狗が住み、牛若丸が修行した山岳霊場のままであってほしいナァ。
本殿金堂のすぐ前に、石畳の模様が描かれ、「金剛床(こんごうしょう)」と呼ばれている。中央の六角形は「六芒星」と呼ばれ、宇宙エネルギーが降臨する場所だそうです。ここに立つと宇宙エネルギーを受け取ることができ、尊天と一体化できるとか。まさにパワースポットです。難しいことはヌキにして、中心に立ってみました。
本殿金堂前の広場からの眺めで、向かいには比叡山が見えます。本殿金堂のまん前にある、朱色の欄干の出っぱりは「翔雲台」。観光客用のものかと思ったら、ご本尊がはるか南の京の都を見守る台だそうです。
本殿金堂の右側に、閼伽井(あかい)護法善神社があります。寛平年間 (889年~898年)、鞍馬寺中興の祖・峯延上人を大蛇が襲うが、逆に法力によって捕まってしまう。大蛇は魔王尊に供える水を永遠に絶やさないことを誓って命を助けられ、閼伽井護法善神(あかいごほうぜんじん)としてここに祀られたと伝わります。
本殿前には井戸があり、その脇の棚には沢山のカラフルなバケツが置かれている。信者さんが水汲み用に置かれているのでしょうか。
毎年6月20日に行われる「鞍馬山竹伐り会式(たけきりえしき)」は、この故事からきている。
長さ4メートル、太さ15センチ近くもある青竹を大蛇に見立て、僧兵姿の鞍馬法師が近江、丹波の両座に分かれ伐る早さを競い、その年の農作物の吉凶を占うそうです。
奥の院参道へ
閼伽井護法善神社とは反対側の本殿金堂の左手には本坊(金剛寿命院)、いわゆる鞍馬寺寺務所がある。その前に門がある。この門が奥の院参道入口です。
門の手前左に低い柵で囲われた小さな庭「瑞風庭」があり、盛り砂が置かれている。これは650万年前に人類救済のため、魔王尊が金星より降臨する様子を表現したものだそうです。「愛と光と力の像」の続編みたいなもの。
10時20分、瑞風庭の脇を通って奥の院参道へ入る。門を潜ると階段から始まる。本殿金堂までの広い階段と違い、狭く険しい山の階段です。参道となっているが、これからは山道です。階段上り口に手洗い場がある。鞍馬山へも心身を清めて入れ、ということでしょう。
ここからがいよいよ牛若丸の世界に入る。鞍馬寺の”宇宙エネルギー”とか”愛と光と力”などとは全く異質の魔境に入って行く。鞍馬山を感じるのはここからでしょう。
しばらく行くと、紅葉と白壁の霊宝殿(鞍馬山博物館)が見えてくる。その手前に与謝野晶子・寛歌碑があります。小さく、薄暗いので見逃しやすい。鞍馬寺の先代管長・信樂香雲が、歌での与謝野晶子の弟子だった縁で建てられたものでしょう。
紅葉に覆われた三階建ての建物が、鞍馬寺「霊宝殿(鞍馬山博物館)」です。
1階は鞍馬山自然科学博物苑展示室で、鞍馬山の動植物、鉱物などを展示する。2階は寺宝展示室と与謝野鉄幹・与謝野晶子の遺品等を展示した、与謝野記念室がある。3階は仏像奉安室で、国宝の木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、木造善膩師童子(ぜんにしどうじ)立像の三尊像をはじめとする仏像奉安室。現在「清盛と義経をめぐる謎」展が開かれていました。
営業日:火曜日~日曜日 9:00-16:00
休業日:月曜日(月曜日が祝日・祭典日のときは翌日休館、12月12日~2月末日休館)
料金:200円
霊宝殿のすぐ前に「冬柏亭」(とうはくてい)という小さな書斎が置かれている。与謝野晶子の書斎ですが、彼女がこの鞍馬山で使ったという訳ではない。経緯は傍の説明板に書かれていました。
与謝野家は、昭和2年に現在の杉並区荻窪に居を移した。昭和4年12月に晶子の50歳の賀のお祝いに、弟子達から書斎「冬柏亭」が贈られ翌年に完成。晶子没後の昭和18年、冬柏亭は門下生の岩野喜久代氏の大磯の住居へ移された。書斎の所有者・岩野氏と鞍馬寺管長の信楽香雲とは同門の縁(晶子の短歌の弟子)であったことから、昭和51年(1976)に岩野氏の好意により、ここに移築されたということです。
「冬柏」の名は、与謝野鉄幹が主宰となり創刊した文芸機関誌「明星」が終刊後、昭和5年(1930)に「冬柏」の名で復刊したのに因む。
冬柏亭横の階段を登り、山門を潜ると本格的な山道が始まる。その山門脇に、鞍馬山自然科学博物苑としての注意書きと”WARNING”が貼り出されていました。
クマ、ヘビ、ハチなどと出合った時、「自然のままで観察」すべきでしょうか?。
詳しくはホームページを